夜祭へ
遠原八海
場面1 夜祭前
玄関の間口から屋外に出ると、夏の終わりゆくさなかにわたしは放り出された。空気はひどく乾いていて、遠くのやまなみの青さがいっそう濃く見えるようだった。通りは死んだようにひっそりとしている。昼下がり、あざやかな氷色の空が夕暮れに向けて色を失おうとする中間の時間帯で、夜祭が始まるまでにはまだ時間があった。待ち合わせに遅れるわけにはいかないが、それにしても早く出すぎてしまったかな、とわたしは思った。神社まで歩くのには三十分もあれば充分だから、そうするとちょうど二時間ほど時間を持て余す計算になる。とりあえず役場の近くの気の利いた喫茶店でアイス珈琲でも飲もうか、わたしははじめそう考えたが、同じように暇を持て余した学生たちが詰め掛けているのを想像すると、その喧騒に身を置くのはぞっとしなかった。目的もなくぶらぶらと歩いていると、上空では風が強いのか、巻層雲がみるまに流されていき、厚塗りのセメントを執拗に照りつけ続ける日差しにだんだんと我慢ならなくなってきた。わたしは日陰を求めて狭い路地に曲がることにした。路地はまさに古い時代を象徴していた。路地沿いを覆う焦げ茶の御簾垣は表面が無残に磨り減っているばかりか、隙間から雑草が好き勝手に覗いている有様だったが、このようにうらぶれた路地の体裁を繕う必要もなく、それは確かにあるべき姿をしていた。路地の先にわずかに見える水平線が、まるで額縁に収められた小さなアクリル画のように映った。海鳥がその先で鳴いていた。気だるい微風が潮の香りを運んできて、わたしは海辺に降りて散歩したい気分だった。
路地を抜け、海辺に続く長い坂道を降りていると、後ろからクラクションが鳴らされた。年季の入った白い軽トラックで、運転しているのは叔父だった。おい、坊、なにしてんだ。海辺に行こうと思って、わたしは答えた。海が見たくなったんだ、急にね。ふうん、叔父は言った。じゃあ送ってってやるよ、見船峠のあたりでいいんだな? わたしは促されるままに叔父の車に乗り込んだ。古い助手席は狭く、煙草くさいにおいがした。叔父はこの島に一軒しかない工務店勤めをしていて、今日は資材を運び終えて帰宅途中らしかった。お前、ぜんぜん日焼けしてないな。叔父は横目でわたしを見て言った。夏も終わりだってのになあ。叔父さんが黒すぎるのさ、日焼けしすぎて感覚がばかになってるんだ、わたしは答えた。それにまあ、たしかに、普段家から出ないからね。そらみろ、叔父は茶化した。作家先生はいいよなあ、涼しい部屋で優雅にお仕事ときた。それを聞いてわたしは苦笑した。勘弁してよ、ただの翻訳のアルバイトさ。
トラックは海岸沿いを走り、窓からは白浪の飛沫がよく見えた。この辺でいいよ、そうわたしが言うと叔父は路肩に停車した。迎えは要るかと訪ねられ、このまま浜に沿って神社に向かうのでその心配はいらないとわたしは答えた。夜祭に遅れるわけにはいかないんだ、大事な待ち合わせをしているもんだから。そういえば今日は夜祭か、そんなもんすっかり忘れてたよ、叔父は得心したようだった。そうなんだ、そんなわけだから、送ってくれてありがとう。叔父はひらひらと手をふり、頑張れよと残して去っていった。車道から浜に降り、さらさらと熱を持った砂粒をサンダル越しに踏みしめ、波打ち際まで歩きながらわたしは、もしかしたら面倒な誤解をさせてしまったかもしれないと心配になった。べつにこれは浮いた話でもなんでもないのだ。夜祭で待ち合わせている若い男の名は、生天目という。高校時代に知り合った友人で、今日まで五年間も音信不通だった男の名前だ。
足首までを海にひたし、島と外海の境界線上で、わたしは生天目のことを思い出している。
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