3
僕らの話をしよう。
僕らはバーズリー地方の小さな村で生まれ育った。生まれはもはや確かめようがないが、暮らしは確かにあの水車小屋で姉と父とともにあった。
バーズリーには大きく分けて二種類の人間がいた。大陸中央部から山脈を越え移ってきた人間と、太古の昔からここで営みを紡いできた原住民族だ。原住民族には外見にある特徴があった。それは羊の巻き角のようにも見える、頭蓋骨から隆起した小さな突起だ。その草食動物めいた造形から、原住民族は本地移民から草民と呼ばれた。
僕とリタ、それに父は草民だった。みな頭に角を持ち、しかしそれ以外は普通の人間と変わらなかった。村の人間もほとんどが草民だった。市場の町には角を持たない人たちもいたが、彼らは何世代も前に山脈を越え住み着いた移民たちで、われわれとは友好な関係を築いていた。
波瀾は船に乗ってやってきた。
かつてサルタコの港町が開港し、大陸中央部との渡航と流通が可能になったころだ。海の向こうから来た利権に穢い大陸人はすぐに、草民の肉が彼らにとって食用に耐え、しかも美味であることに気付いた。
乱獲が始まった。彼らは草民を畜物とみなした。狩猟隊が派遣されたのはその白眉だった。いくつもの村や集落が姿を消した。
災害的だった。悪意すらなかったかもしれない。人権運動や民族保護の観点から草民の獲猟が禁じられ、大陸人が引き払ったころには、草民の数はかつての二割ほどしか残っていなかった。生き残りは残った町で組合や仮の家族を形成し、細々と暮らし始めた。僕らが物心つく前、あるいは生まれる前の話だ。
そういう悪い歴史があった。
ただ、ここまでは
ここからは
あの日から、リタの足の痛みは日ましに強くなっていった。
いつしか自由に歩くことすら困難になっていた。足首を骨折していたのか、炎症が進んで膿が溜まっていったのか、何にせよ、リタは足首を真っ赤に腫らして、ひどいときは一日中床に臥せっていた。
「心配しないで。きっとすぐよくなるわ」
リタは表面上は変わらず快活だったが、その瞳の奥の濁りを見逃すほど僕は馬鹿じゃなかった。あの日湖に行こうと言ったことを心底悔やんだ。毎日市場まで行って、効きそうな薬を探した。それでもいっこうに良くならなかった。
父はそんなリタを見限った。
彼は、リタを中央の貿易商に売った。草民を食肉にすることは大陸法で禁じられてはいたが、密猟や密売は後を絶たなかった。その中には父のように、生産力のなくなった扶養下の家族を金に換える草民の存在もあった。
朝早くに迎えが来て、リタは出荷された。
「寝たきりを食わせていく金はないんだ。わかってくれ、お前のためでもあるんだ」
僕がそれを知ったのは、リタが連れて行かれた数時間後のことだった。僕は父を思いっきり殴り飛ばして、港行きの汽車に飛び乗った。
まだ間に合う。
港から大陸中央部までは船を使うしかない。汽車がサルタコに着いてから、輸送用の貨物船に荷を積み込み出航するまでは時間がある。きっと猶予があるはずだ。船に忍び込んだっていい。誰が相手だって知るか。全員殴り倒してリタを助け出すんだ。そうやってどこへでもいいから二人で逃げて暮らそう。足もきっと良くなるに決まってる。
まだ間に合うはずなんだ。
僕をのせた汽車は市場を越え、高原を越え、峡谷を越え、湖を越え、山脈を走った。汽車の進む速さが信じられないほど遅く思えた。前を行く汽車にぶつかってしまえと思った。何が落ちようが眠る気なんてまるでしなかった。一分一秒を必死で数えた。それしかできないのが歯痒かった。
僕はあの時、飛んでいったほうの水鳥を見ていた。
もう一羽の水鳥はどう見ても翼を傷めていた。あの二羽がどういう関係かなんてわからないけど、僕は飛んでいった鳥が傷ついたもう一匹を見殺しにして、自分だけ助かろうとしたように見えた。それを見て、失望感にも似たなにかを漠然と感じていた。
あの状況は、今だ。
捕まった水鳥は結局自分で逃げたけれど、きっとリタは自分で逃げられない。僕は飛んで逃げた水鳥には絶対にならない。
汽車は山脈を抜けた。サルタコまでもうすぐだ。
そして結局、僕は間に合わなかった。
汽車から飛び降りた僕が見たのは、停泊していた最後の貨物船が出航して水平線に消えていくところだった。一縷の望みをかけ、港中をくまなく探して回ったが、それも無駄骨だった。そのあとは、どうやって帰ったのかも覚えていない。
リタを追って密航するという道もあった。水車小屋に帰らず、父を捨てて自立するという道もあった。けれども僕はどうする気も起きなかった。全ての熱が失われたみたいだった。どこか遠くから目に映る世界を見ていた。
リタとの最後の会話は、『出荷』の前の晩に交わした他愛もない挨拶になった。それほどまでに、呆気ないほどに突然、日常から彼女は消えた。
リタは未来を知っていたのだろうか。知っていたのだとしたら、その自己犠牲的な運命を受け入れていたのだろうか。それとも逃れえぬ恐怖に怯え、暗に僕に助けを求めていたのか。今の僕にはそれすら知りようがないのだ。
僕は間に合わなかったのだから。
あれからのすべての季節に、僕はリタの不在を感じた。
変化のない小麦の日々が僕のすべてになった。
今に至るまで僕は、僕を実感できないでいる。リタは僕の主観だった。僕の実存の起源のすべてはリタにあった。
僕はリタが好きだった。
例の大陸人が去ったあと、海岸沿いを少しだけゆるやかに走って、汽車は六つめの駅に滑りこむように到着した。
港町サルタコは大陸中央部との貿易で大いに栄え、バーズリーの玄関口としての役割を担っていた。物資の供給も盛んで、必要な資源に恵まれた町は整備が行き届き、さまざまな店や施設が軒を連ねている。五年前に一度訪れたあの日と比べても驚くほど様変わりしていた。
汽車が停まり、乗客のほとんどが下車しても、僕は降りなかった。僕の行き先はここではなく、もっと先にある。つい先日この町から繋がった、東の山脈を抜ける路線の先、中央部を横断する大陸本線の先の、もっともっと先だ。
一年前に父は蒸発した。僕は一人で一年間生きてみた。結局僕は何者にもなろうとは思わなかった。僕はとうに終わった人間で、思い出のなかにしか僕はいなかった。
ならば、思い出の責任を果たすべきだと僕は思った。
リタがまだ生きていると思うほど僕は夢見人ではなかったけれど、彼女を探すことには何らかの意味があると思った。
墓や骨が見つかれば御の字だ。けれどそれはきっと見つからない。
名前だけでもいい。売られた先。買われた先。運ばれた道。捌いた店。食べた人間。彼女の魂の辿りつく先。
そういう軌跡をていねいに拾うことで彼女への手向けとしよう。そうやって彼女に会いに行こう。
汽笛が鳴って、汽車はあの日行けなかった港町の向こうにゆっくりと進みだした。僕はまた目を閉じた。
困難もあるだろう。
けれどこの旅の終着点ではきっと僕のとなりにリタがいて、そこで僕は今度こそ、彼女に言い残したことばを言える気がしていた。
きっと僕らはそう信じていた。
その六つめの駅の先の 遠原八海 @294846
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます