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 二つ目の駅は、高原にある小さな村の入り口にあった。村自体に何かしら特別なところがあるわけではなく、単にごく普通の村だったけれど、それを取り囲む高原は自生する野花で一面の花畑として有名だった。


 三つ目の駅は、峡谷に架けられた大橋梁の端にあった。橋を渡った先に町があったが、線路自体が谷を越えることはできなかった。谷底は大きな鉱脈になっており、新旧入り混じった坑道が蟻の巣のように地中を巡っている。坑夫がピッケルをふるう音が途絶えることなく響いてくる。


 列車が駅を辿るたび、僕はリタとの思い出を手繰り寄せていた。花畑で花に囲まれて笑っていた。白い雛菊が好きで、よく摘み取っては髪に挿していた。そのアクセントはリタの赤茶の髪によく映えた。峡谷の洞窟に潜りこむのが好きだった。目を離すとすぐいなくなった。迷子になっては泣いている僕を見つけて、カイルはばかね、と笑ったけれど、そういう彼女の顔にも涙のあとがあった。

 僕はどうにかなりそうだった。

 思い出の放つ輝きの質量が僕を押し潰すようだった。どれもがかつてなんでもないことだったに違いなかった。その価値を値踏みする暇もなく過ぎさっていった日々が、その美しさが、それに気付いた瞬間に僕を打ちのめすのだ。


 四つめの駅は、湖のほとりにあった。湖の向こうには高々とした山脈が連なり、此世と幽世を隔てる壁のようだった。あれらの山に降った雨が地下水となり、湧き水が流れ着いて湖を形成していた。作業着を着た男たちが何人か降りて、数人の地民が乗り込んできた。僕はまたしても、彼女のことを考えていた。

 最後にここを訪れたのは五年前だかそこらで、僕らは十二くらいだった。この湖の駅を過ぎると汽車は山脈地帯に入り、次の駅まで抜けるのに一晩はかかる。夜には父が畑から帰ってくるので、遠出がバレないように日帰りで帰る必要があった。だから、あの頃僕らが来れたのはここまでだった。

 僕は泳ぐのが好きだった。リタは高原や峡谷に来たがったけど、僕は湖に来るのがいちばん楽しかった。その日の行き先を決めるのは僕らにとっては一大事で、ブーブーと不服を主張するリタに僕がよく折れたりもしたけれど、あの日は湖に決まった。

「ちょっと、あまり見ないでよ」

 そう言われてはじめて、僕はリタを見ていたことに気付いた。第二次性徴につれ、リタのからだは水衣の上からもわかるほど女らしくなってきていて、僕はそれを見るたびにどぎまぎした。でもそれを認めることは何か負けた気がして、背を向けて水辺へと無言で逃げ出した。

 このごろはいつもこんな感じだった。調子を狂わされっぱなしだ。初めての感覚で、原因がどこにあるかわからなくて、ずっとモヤモヤしていた。けれどそのモヤモヤを解き明かすことにはどこかくすぐったさを感じて、その原因もわからなくて、抜け出せない袋小路にいるみたいだった。


 水鳥を捕まえたいとリタが言い出したのは、泳ぎ疲れて日も傾いてきた頃だった。

「真っ白な水鳥の羽は珍しいから」

「ああ、麻布屋のおやじがこの前言ってたやつか」

 それを思い出して僕は合点がいった。市場の町に並ぶ羽毛製品に使われるのは陸棲種の黒か茶斑のものがほとんどで、それでも羽根布団など布に詰めて使うぶんには問題ないのだが、羽根飾りにするには染めにくいので使えない。真っ白な羽毛は数が少なく価値が高いのだと聞いた。現物を持ってくれば好きな商品と交換してやるよ、と彼は言っていた。

「でも、もう遅いよ。日も暮れかけてる」

「すぐ見つかるわ」

 リタは岩陰を指差した。「ほら、もう見つかった」

 見ると、二羽の真っ白な水鳥が岩陰で寄り添っていた。リタはそっと駆け寄った。辿りつく前に、水鳥はこちらに気付いたのか、一羽はどこかへと飛んでいって、もう一羽は翼を傷めているらしく、危なっかしい飛行の末に岩場の上のほうに停まった。天意を得たりといったようすで、リタは岩場を登り始めた。僕はなんとはなしに、飛んでいった鳥のほうを見ていた。

「捕まえた!」

 興奮した声が上からして、

「あっ、ちょっと、こら、うわっ!」

 バサバサという音とともに、バランスを崩したらしいリタが落下してきた。僕は咄嗟に彼女の下に入って受け止めようとしたけれど、思ったより衝撃が強くて、からだを抱きかかえたまま背中から押し潰される格好になった。

「大丈夫!?」

 驚いたようにリタが振り返った。僕の顔のすぐ近くに彼女の顔があった。


 急に世界中の時間が止まったような気がした。絡まった視線を外すのがこのうえなく難しいことに感じられた。熱くなった手のひらの向こうに、触れるのがためらわれるほどに細いからだがあった。この一瞬だけ、僕らの境界は限りなく近くなった。境界線の存在を邪魔だと意識するほどに。


 けれどそれは一瞬で、その一瞬のうちには僕はなにも為し得なかった。

「――つっ」

 リタの顔が不意に歪んだ。着地の際に、足を捻ったようだった。しばらくさすっていると立てるようにはなった。

「今日はもう帰ろう」

 僕はそう言った。

「惜しかったのよ。あの子が思ったより元気だっただけ」

 リタは減らず口を叩いて、僕は黙って肩を貸した。あの時、一瞬だけ湧きあがった感情に目を背けながら。

 その日が、僕らの最後の遠出になった。


 汽車は黙々と山脈地帯を走った。バーズリー地方の南に延びる山脈を越えねば海岸には辿り着かない。峰と峰のあいだのふもとの間隙を縫うように線路が走り、ひたすらに殺風景な景色を延々と映し出した。

 そのうちに日が落ちた。またしばらくして車両の灯りも落とされた。車窓からは煌々たる星空と月光だけがはいりこみ車内を照らした。乗客たちは次々と眠りにつき、やがて僕も眠った。揺れる車内でちゃんと眠れるか心配していたけれど、意識を闇に手放すのは案外簡単だった。


 目を覚まして、朝が来て、山脈を抜けると、五つめの駅に到着した。

 五つめの駅に、僕は降りたったことがない。辺りは相も変わらず殺風景な平原で、駅舎の向こうに数屋の施設が見えたが、それが何の施設だか詳しくは分からなかった。

 思ったより多くの人間がそこで降りていった。彼らに共通しているのは、どうやらバーズリーの人間ではなく、大陸中央部の人種だということだった。入れ替わりに同じくらいの数の大陸人が乗ってきて、そのうちの一人が僕の向かいの空いた座席にきた。

「兄ちゃん、ここいいか」

「どうぞ」

 僕はつとめて冷静にふるまった。

 見るからに粗野な人間だった。大陸中央部の人間はみな等しく下卑た顔をしている、と僕は思った。飽食に慣らされた豚みたいに意地汚い面だ。

「今日はやけに混んでるな。いつもならこんなには混まねえ。先週乗ったときは半分も埋まっていればいいほうだったさ」

 座ってすぐ、男は話し始めた。独り言かと思ったが、どうやら僕に話しかけているようだった。

「先月あそこの駐屯地に飛ばされて来たんだ。ひどい話だぜ、こんな田舎に閉じ込められて、娯楽のひとつもありゃしねえ」

「……娯楽は知りませんが、ちょうど三日前に、サルタコから大陸本線に繋がる線路がようやく開通したようですね」

 僕はそう言葉を返した。会話を交わしたくなどなかったが、無視を通して怒らせるのも賢くない。

「たぶん、この混み具合の原因はそれじゃないかと」

「ああ、そういやそんな話もあったな。そうか、もう港から船に乗って回りこむ必要も無くなったのか。帰りが楽になっていい。船は酔っちまうよ」

 男はゲーゲーと嘔吐する真似をして、こちらを見てニッと笑った。下品なふるまいに僕はよりいっそう不快になった。

「ま、そんな話は今日は関係ねえやな。俺たちゃ港町に行くのさ。こっから港まではすぐだからな、もうそろそろ着くぜ。せっかくの非番なんだ、うまい蜂蜜酒でも飲まなきゃやってらんねえよ。で、兄ちゃんはどこまで行く? その旅支度を見るに……」

 僕の格好をじろじろ物色していた男の声はそこで止まった。男はニタニタと下卑た笑みを浮かべており、その目線は僕の頭の上に注がれている。僕はやってしまった、と思い、ずれていた帽子を深くかぶりなおした。

「そうか。その角。お前、草民か」

 その声には疑いようもなく、侮蔑と見下しの色が含まれていた。僕は自分の軽率さを後悔した。

「草民がバーズリーの外に何の用だ? 出稼ぎか? お前らが中央で職にありつけるとでも思ってるのか? 宿や飯があると思ってたのか? もしかして隠し通せると思ってたんじゃないだろうな? それともなんだ、最近の草民は自分で歩いて肉屋まで行くのか? ハハ、そりゃ傑作だ」

 こちらが押し黙っているのをいいことに、男は口悪く嘲った。抑えろ、と僕は思った。これは洗礼だ。こんなことはこれからいくらでも起こるに違いないのだ。ここで激昂するようでは話にならない。

 一方的な立場の優越に味を占め、男はさらに続けようとした。しかし、そこで汽笛が鳴った。港町サルタコの駅が見えたことを伝える汽笛だった。

「おい、準備しろ」

 それを合図に、目の前の男と同じような服を着た同僚がやってきて、男に声をかけた。

「ああ、そうだな」

 男は億劫そうに立ちあがり、去る途中、ドブのようににやついた顔で僕の肩を強く叩いて言い捨てた。

「いい旅を」

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