その六つめの駅の先の

遠原八海

1

 出発を知らせる鐘をかき消すように汽笛が鳴った。真っ黒な煙が前から流れてきた。窓の外の景色が何も見えなくなった。ガラスに映る自分の顔を見ていられなくて僕は目線を外した。

 空中の、何もない場所にうまく焦点を結べなくて、仕方なく目を閉じた。閉ざした視覚の代わりに背中を伝うビリビリとした座席の振動をより一層感じる。そうして僕は僕の旅が始まったことを知る。

 

 ほんとうは、僕の旅はもうずっと前から始まっている。


 大陸の西端に位置するバーズリー地方は無意味なほどに広大で、そのほとんどが麦畑で、さもなければ森林か岩山で、残りのちょっとが町だった。そういった残りのちょっとはバルド鉄道によって一本の線に結ばれ、バーズリーの南東にあるサルタコの港町に辿りつく。その線路の反対側の終点の町で僕らは生まれ育った。

 目を開けるといつの間にか黒煙は晴れていた。車窓から雑景にまぎれていく故郷を見送った。

 今回の旅は、あのころのものとは少し違う。あのころはきっと旅ですらなかった。目的地がいつも先にあって、汽車は単なる移動手段に過ぎなかった――もしかしたら、それも少し違うのかもしれない。僕らはどこに行くのにもワクワクしていた。目的地なんて本当はどこでもよかった。汽車に乗るのが楽しかった。

 だからきっと、今回の旅は、あのころのものとは少しだけ違っている。


 汽車に揺られていると、いくつもの無人駅が過ぎ去っていった。バルド鉄道では特に珍しくもない光景だ。駅だけがあって、利用する人がいないのだ。もう随分前から、停車するのはごく一部の駅だけだ。数えられるほどに少ない。おそらく僕の生まれる前にはこうした無人駅の周りにも小さいながらも村や集落があり、生活の営みがあったのだ。けれどもう、今では無くしてしまった。

 まるで遺跡だ、と僕は思う。存在し、主張するだけの遺跡。しかし誰に省みられることもないのだ。鋭い汽笛が一つめの停車駅が見えたことを告げた。


 一つめの駅は市場のある大きな町だった。港町サルタコと対を成す消費地として栄え、バルド鉄道は実質的にこの二つの都市の橋渡しとして機能していた。乗客の四割ほどが降り、その五倍ほどの乗客が新しく乗り込んできて汽車はほとんど満員になった。

 あのころ僕らがこの町に来るとき、汽車を使うのはまれだった。なぜなら、歩いても二時間はかからなかったからだ。けれども僕らは父に買い出しを頼まれるたびに切符代をせびった。歩いて浮かせたお金で冷やし色水を飲んだり、巻き干し肉を齧ったりすることが出来ると知っていたからだ。

 僕らは終点の町の水車小屋で暮らしていた。リタは僕の姉で、僕は彼女の弟だった。少なくともそういうふうに教わった。母は無く、父だけがいた。父は僕ら二人の父親だったかもしれないし、どちらか一人だけの父親だったかもしれないし、赤の他人だったかもしれなかった。それでも僕らは家族だった。家族として暮らしていた。

 父は僕を息子と呼んだが、愛情を感じたことは一度としてなかった。彼は僕らを、正当な報酬の要らない従業員として見ているふうだった。物心ついたときから、水車小屋で小麦を製粉するのは僕の仕事だった。家事はリタがしていた。父は途方もない広さの小麦畑の世話をしていたが、その土地は彼のものではなかった。晴れた日には父は朝早くから外に出て、日がどっぷり暮れてから、疲れ切った顔で帰ってきた。僕らはおかえりと言って父を出迎えた。僕らは父に愛されてはいなかったが、僕らは父を愛していた。それが家族だと思っていた。

 知らないうちに汽車は市場の町を離れていた。いつのまにか隣に座った老婆が知らないうちに眠ってしまっていて、正面に立てかけた杖が所在なく揺れている。僕は知らないうちに大人になってしまっていた。


 君が出てくる夢は決まって停滞的だ。

 線路が地に大きな弧を描くたび、僕は車窓に、先頭を走る機関車両を見ることができた。ピストンに合わせて脈動するように煙突から吐き出される黒煙を、汽車が空につける足跡に喩えるのは、それほど不自然ではないように思えた。

 汽車の吐き出す煙は、夏の暑い季節には黒くなり、反対に冬は白くなる。春や秋には白と黒が交互に出たり、灰色だったりする。どういう原理でそうなるのかは知らなくて、僕らはただ、経験的にそうであることを知っているだけだ。

 水車小屋の裏手にある小高い丘。そこからの景色が僕らのお気に入りだった。少し離れた場所に線路が走っていて、僕らはよくそこから汽車を見ていた。

「気付いた? 煙は季節で色が違うのよ」

 初めにそのことに気付いたのはリタだった。彼女はどうやら洞察力に優れていたというか、何か新しいことを発見することが得意だった。そしてその新しいことを、きまって僕に嬉しそうに報告するのだ。

「どうして色が変わるの?」

「うーん……たぶん、ああやって私たちに季節を教えてくれてるんだと思うわ。今は夏ですよー、今は冬ですよーって」

「別に教えてくれなくても知ってるよ」

 僕は呆れて笑った。リタの考えにはこういった、主観主義的なふしがよく見られた。彼女には洞察力こそあったものの、論理的に思考を繋げることをあまりしなかった。そういうのは僕の性分だった。

「わかった。きっと、季節によって使う燃料が違うんだ。夏は黒くて新しい石炭を使うから黒い煙が出るし、冬は一度焼いて白くなった石炭を使うから白い煙が出るんだ。うん、きっとそうだ」

「白い石炭? 一度燃やしたものがまた燃えるの?」

 僕の考えにリタはきょとんとした。

「じゃあずっと白い石炭を使い続ければいいじゃない。新しい石炭を使うなんて無駄だわ」

「たしかに」

 僕は納得しかけた。

「いや……いや、使っていればだんだん減っていくんじゃないかな。石炭が煙になるんだから。うーん、でも、冬まで置いておく意味がよくわからない……」

「煙が雲になるのは知ってる? 黒い煙が出たあとはたいてい黒い雲が出来て雨が降るのよ。もしかしたら、それがヒントになるかも」

 そうやって僕らは議論した。ありとあらゆる現象は僕らのおもちゃだった。僕らの議論には正しさは求められておらず、明確な答えを出すことはまれで、たいてい会話は荒唐無稽な軌跡を描いてどこかへ発散していった。それでも話すこと自体に意味があって、さらにもう一段穿って見れば、相手のものの見方を知ることこそが目的だった。僕らは感覚の摺りあわせをしていた。互いに足りないものを欲していた。

「私たちは気球ね」

 僕はリタの言葉を思い出していた。

「私が風船で、カイル、あなたが炎。あなたがいるおかげで私は上がっていって、色々なものを見ることができるのよ」

 彼女の言葉はやはり主観的だった。その比喩はまさに正しかったが、僕にとってみれば役割は逆だった。

 彼女という炎のおかげで、僕は上がっていくことができる。

 彼女を失ってからは、僕はずっと落下し続けている。

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