4
電話から五〇分遅れて、ようやく大塚は到着した。
「おい大塚、遅いじゃないか。寄り道をするなら先に言え」
「寄り道などしとらん。一心不乱に歩いてきたんだ。少々遅れたとしても許してもらいたいな」
「歩いて? 自転車はどうした」
「ああ、あいつは」大塚は悲しそうに眼を伏せた。「昨日、映画を見に行って、三条河原町に停めておいたんだ。そしたら無くなっていた。撤去されたんだ」
「馬鹿だなあ」
大塚はおいおいと泣いた。
「だいたい、京都は自転車の規制が厳しすぎる。俺の地元じゃあ、どこへなりとも停めたところで文句など一度も言われなかった」
「もういい。聞きたくない。さっさと入れ。鍋を始めよう」
大塚は嘘泣きをやめると遠慮の欠片もない様子で靴を脱いで上がった。背負っていたリュックを畳にどすんと置く。
「そういや大塚、お前、今日は大学は」
「はあ? こんな寒い日に行ってられるか」
「違いない」私は笑った。
戸棚に乾燥うどんが一束あったのを思い出し、それを取りに行く。大塚は持ってきたリュックから食材を取り出し、鍋が置かれた机の上に並べていった。
鍋のパック出汁と、袋うどんが二玉。
「おい、それだけか」
「当たり前だ。おい、そろそろ具材を出してこい」
「私は用意してないぞ」
手に持った乾燥うどんで大塚のでこを叩く。「これだけだ」
言いながら、私は軽い眩暈を感じていた。ひょっとしてこの男、本気で何も用意していないのか。私の鍋幻想、そして霜降りの黒毛和牛への憧れが砂上の楼閣のごとく儚くもサラサラと崩れ落ちていく音がする。
「馬鹿な。俺は鍋をすると伝えたはずだぞ。具材は用意しておくのが常識ってものだろう。日下部、お前は昔からそうだ。応用能力がない」
大塚はぷりぷりと憤慨していたが、どう考えても憤慨したいのは私のほうである。
「お前が鍋をすると言ったんだ。普通はお前が全て用意するべきだ。言い訳は聞かん。さっさと東大路のフレスコに行って霜降りの黒毛和牛を買ってくるがいい」
大塚は突如として会話に上げられた霜降りの黒毛和牛に戸惑っているようだった。当然といえば当然である。それでも尊大な様子で腕を組み、
「絶対に嫌だ」
と言い放った。私は呻いた。
うどんしか入ってない鍋を見て、果たしてこれは鍋なのかと考える。もはや軽い禅問答である。私はこれは何をどうしようが鍋料理ではなくただの煮うどんだと主張したが、大塚は頑として鍋だと譲らなかった。引っ込みがつかなくなっているだけかと思われる。
「なあ、最近どうだね」大塚が私に酒を注ぎながらそう切り出した。重そうに見えた大塚のリュックに入っていたのは主にこの一升瓶だった。あるルートで手に入れたという。私はあえて詳しくは訊かなかった。酒は美味ければそれでいい。
「いつも通りだよ。単位と金が不足している」
「代わり映えしないなあ」
「だまらっしゃい。誰が好き好んで清貧に身を置くものか。言っておくがね、私は暇さえあれば、単位と金が空から降ってきはしないかと夢想しているんだ。つまり一日中だが」
「阿呆らしい。その時間を勉学なり金稼ぎなりに使えばいいものを」
「春になったらね」
私は猪口をぐいと飲み干した。「今は冬眠中だ」
「冬眠ねえ」
大塚は笑ってるのか呆れてるのかよく分からない顔をした。
「まあいいや。どうかな、うどんももう煮えたろう」
大塚に倣い、私もうどんを椀にとってズズと啜った。ふにゃふにゃとした大塚の袋めんと硬くコシのある私の乾燥めんが混然一体と混ざり合い、実に気持ち悪い食感となっている。
翻って、この食感こそが客観的に見た私と大塚の関係性の姿なのかもしれぬと思いもしたが、新しく得たこの知見を何に生かせばよいものか皆目見当もつかぬので、心の側溝にそっと廃棄した。
「まずい」大塚は言った「まずいが食える」
私はそれで十分だと笑った。
鍋と世はこともなし 遠原八海 @294846
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます