黙葬
遠原八海
黙葬
結局のところ、彼女の死は決定的に定められていたものだったのだろう。僕程度の存在がなにを考え実行したところで、運命の筋書きを描き換えることはまったくもって能わず、こうして彼女という人類の宝は儚くも喪われるべくして喪われてしまったのだろう。
ただそれでも、僕の人生は幸福だった。それは言うに及ばず彼女の功績によるもので、彼女と共に過ごした時間の一分一秒に至るまでが僕を幸福感の渦に包みこんで決して放そうとはしなかった。
そしてそれは、彼女がその声を失い、物言わぬ骸に成り果てた今なお変わることはない。涙は出なかった。笑顔で送り出すことでしか、僕は彼女に恩返しする術を持たない。
庭に掘った穴、その奥底に彼女の亡骸を丁寧に置き、僕は空を仰いだ。
ああ、これは弔いの儀式だ。
僕は今、君の葬式をしている。
†
高台ヶ丘公園はその名が示す通り高台の上にあった。駅からは遠いが、彼女の通う事務所からは徒歩五分ほどの距離だ。そのせいもあって、仕事終わりの彼女との待ち合わせによく利用していた。
「待った?」
「待ったよ。五十分遅刻だ」
「まあ……ごめんなさい。事務所の皆がなかなか帰してくれなくって」
「いいさ。気持ちは分かる。怒ってなんかいないよ」
彼女は声優だった。業界トップクラスとまでは言わないものの、それなりに知名度はあったようだ。だけど、その頃の僕はアニメの類はほとんど見なかった。ある日偶然にネットラジオを聞いていて、それが彼女との出会いだった。
彼女の声を初めて聴いたときのことは、今でもはっきりと思い出せる。それは笑い声だった。木製スピーカから漏れ出たその声は僕の耳道を駆け抜けて、一瞬で脳天の奥の奥まで突き刺さった。手に持ったコーヒーカップを取りこぼし、机に大きな池を形取るのを、僕はどこか遠い世界の事のように認識していた。背筋に電流が走って体の自由が効かなくなった。恐ろしいことだ。僕はそのたった一言の笑声で、骨の髄まで彼女に心酔してしまったのだ。
それからはあっという間だった。僕はといえば一切合財を放り出し、彼女の声を求めることに奔走した。彼女が出演した作品のDVDやCDは端から端まで全て揃え、ネットラジオはバックステージまで網羅し毎週録音を欠かさなかった。出演作品の内容などに興味は無かったし、彼女が何を喋ったかその内容すらどうでもよかった。ただ彼女の声が、その天使のような声音が耳の奥に染み込んでいく感覚を脳裏に刻み込むので精一杯だった。休む暇など無かった。まるで薬物中毒者のように、とめどない渇きを癒した。紛れもなく僕は恋をしていた。一ヶ月も経たないうちに、僕は彼女のスペシャリストになった。
さらに、天は僕に味方した。彼女が所属するプロダクションの事務所は、僕の住むこの町にあったのだ。とはいえ僕はストーカ紛いの行為をするつもりはさらさら無かったし、その必要も無かった。なぜなら僕がその事実を知ったのは、高台ヶ丘公園で彼女と出会った後だったからだ。
公園の最頂部の展望台で、その女性は夕焼けに暮れる街並みを静かに見下ろしていた。見間違えようもなくそれは彼女だった。なぜ、どうして彼女がこんな場所に? 僕は内心で激しく取り乱し、反対に身体は凍りついたように動かなかった。そうこうしているうちに彼女は僕の視線に気づいたようで、気恥ずかしいのか警戒したのか、僕に軽く会釈をしてその場を逃げるように離れようとした。僕は迷ったが、辛抱堪らず彼女を呼び止めた。
『あの、すみません』
彼女は立ち止まり、戸惑ったような表情で言葉を返した。
『はい……なんでしょう?』
そしてそれは二度目の衝撃だった。スピーカ越しのそれとはわけが違う、本物の持つ質量に耳を貫かれた気分で、人生でこれほどの幸福があることを僕は俄に信じられなかったほどだ。陶酔による酩酊感が全身を支配した。それと同時に、或る欲望が鎌首をもたげた。それは恋愛感情のまっとうな延長線上であるところの、つまりは独占欲だった。
ファンだと悟られては軽んじられる。偶然に、個人としての異性との出会いを印象付けなければならない。話す言葉は慎重に選ぶ必要があった。
『……ここの景色、素敵ですよね』
これは嘘偽りない本音だった。この町に越してきてからの、この場所は僕のお気に入りのスポットだったし、だからこそ今日とてこの場所に足を運んだのだった。脈絡の無い台詞に彼女はきょとんとした様子だったが、次に微笑んでこう言った。
『ええ、本当に。私も好きなんです。この場所が』
こうして彼女と僕は知り合った。瞬く間に僕らは意気投合し、件の展望台で逢瀬を重ねた。彼女との会話はどんな美酒よりも僕を酔わせ、また唸らせた。彼女が僕の言葉で笑うたびに、僕は巡り合わせというべきところのものに感謝しなければならなかった。幸運なことに、彼女も僕に惹かれる部分があったようだった。僕らの交際は順調にスタートした。
この時の僕はまさに望外の極地にあった。彼女と話す時、僕は彼女の声を独り占めできた。彼女の声はただ一人、この僕のみに向けられていたのだ。声優というラベルではなく、一人の女性として彼女を扱う風を装いながら、その実、誰よりも声優としての彼女に傾注していた。後ろ暗い独占欲は徐々に満たされていき、代わりに小さな変化をもたらした。
そもそもの始まりにおいて、僕の目的というか渇望の対象は、彼女のその声にのみ向けられたものだったが、彼女の人格に接するにつれ、僕は他でもない彼女自身を深く愛するようになっていった。一年の交際を経て、僕はあの展望台で彼女にプロポーズした。
「事務所の皆から、こおんなに大きな花束をもらったのよ。結局持ちきれなくって、事務所の花瓶に活けてきたんだけどね。気を遣わなくていいって言ったのに、もう」
「きっと皆寂しいのさ。君だって分かるだろう」
「そんなの、私だって寂しいわ。こんな、急にお別れだなんて……」
彼女は目を伏せた。濡れた目元が、鮮やかな夕陽を映し返している。そんな彼女を僕は励ますように言った。
「仕方ないさ。人生何があるかは分からない。こういうこともある。くよくよせずに、前だけを見ていればいいんだ。見ようによっては寿退社だろう」
「ありがとう。でも大丈夫よ。私には、あなたがいるもの」
そうやって笑った彼女の声は、ひどい皺枯れ声だった。
†
「喉頭癌ですね」
そう医師は言った。
「喉頭は声帯からなる声門と、その上下部の三つに分かれ、それぞれ腫瘍の発生箇所で症状も違ってきますが、嗄声、咽喉頭違和となると、奥様の場合は声門、ここですね。進行は浅いですが、なにぶん場所が悪い。腫瘍の大部分が声帯に覆いかぶさっています。切除となると発声機能を大きく損なうことになるでしょうが、しかしこのまま放置すると少なからず転移の可能性もある上、癌の進行によっては呼吸困難や嚥下障害といった症状も出てくる。早期の手術をお勧めします」
医師の言葉はまるで異国の言葉で、右の耳から入って左の耳へ抜けていき、頭に留まるということをしなかった。ひょっとしたら、僕が理解したくなかっただけかもしれないが。
プロポーズの日からしばらく経った頃、彼女は喉を痛めたようで、咳を頻繁にするようになった。そして微かに、その天使の声の中に――それは本当に、この僕にしか分からないほどに微かなものだったが――ノイズのような、微妙な違和感を滲ませるようになった。とはいえ、彼女はさほどそのことを気に留めていなかったようで、僕が大事をとって安静にするよう促しても、これが私の仕事だからと、とりつくしまもなく仕事に出ていくのであった。確かにその時にしてみれば些細な症状でしかなかったし、彼女もプロの声優であるので、判断でいえば妥当なものであったのだが、どうにも僕はそのことに対して心の内にじっとりと冷や汗をかいたような、言うなれば胸騒ぎにも似た嫌な予感を感じていた。もしも悪化して取り返しのつかない事態になったら、という根拠のない不安と、いやいや、きっと杞憂であるに違いないというこれまた無根拠な気休めの両方が募り、一種綯い交ぜになって僕の意識の柔らかいところに碇を降ろしていたのである。
結果として、事態は悪い方へと転がった。彼女の喉の不調は快方へ向かう兆しをまるきり見せず、日に日に声の持つ嗄れは大きくなっていった。
僕は気が気ではなかった。ほとんど半狂乱になっていたと言ってもいい。自分のことのように、いいや事実、自分のこと以上に彼女が心配で仕方なかった。そして彼女の休みが取れるや否や、その手を引っ張るようにして病院に連れて行き、あれがいつからこうなんですと、自分の観察した知りうる限りの彼女の状態を医者に語って聞かせた。彼女自身もいつからかただ事ではなく思っていたらしく、僕のすることに異議を唱えることはなかった。検査の結果、僕は大学病院のトイレのリノリウムに朝食をぶちまけることになった。
最悪だ。癌? 癌だと? 声帯を切除? 冗談じゃない。そんな戯言は信じない。信じられない。信じたくない。そうだ。信じたくないだけだ。事実を受け入れられないだけだ。これは事実だ。違う。事実じゃない。こんなことはありえない。いや事実なのだ。諦めろ。諦められない。諦めたくない。
目の前に彼女が現れて、喉を中心に亀裂が入り、それはだんだんと広がってやがて彼女の体は粉々になった。彼女だった粉片は次々に発光しては昇華していき、あとには何も残らなかった。何も残らなかったのだ。僕はそれをただ見ていることしかできなかった。
僕は泣いた。大切なものを喪失した悲しみと、ままにならない世界の条理というべきものへの絶望と、そして他でもない、浅ましい自分自身に泣いたのだ。愛する彼女が、婚約者が、病を患い、これからの長い闘病の険峻の嚆矢に立ち、その身を不安に震わせている傍らで、僕は彼女の声が失われることをまず第一に嘆いていた、その厚顔さに気付いて泣いたのだ。
涙を流し尽くして、僕は一度抜け殻になった。そうして空っぽになった中身に、大事なものを順々に詰めていって、自分という存在を構築し直した。その時、いの一番に僕の基底の部分に飛び込んできたのは、やはり彼女であった。僕はそのことに心底安堵した。控え室に戻ると彼女はぱっと顔をあげ、もう大丈夫か、薬は必要ないかと、つい先ほど癌を宣告されてショックを受けているだろうに反対に僕を気遣ってくれて、僕は何やら申し訳ない気持ちになりながら、なんともならない慈しさと共に彼女を抱きしめた。
彼女は気丈な女性だった。声優としての道を閉ざされ、日々いびつになっていく自分の声音を聞きながら、それでもなお前向きであろうとした。それは彼女の強さでもあり、それが彼女自身でもあった。多分、彼女が彼女であるために、そこだけは譲れなかった部分だったのだろう。彼女の声しか見ていなかった僕などよりもよっぽど、彼女は彼女を知っていたのである。
医者には一ヶ月の入院が必要だと言われた。手術前と手術後に、どうやら様子見が必要らしい。退院したら結婚式を挙げようと僕らは約束した。そして入院を翌日に控えた今日、彼女は正式に声優業を引退したのだった。
「みんな、マネージャーさんも、同期の皆も、社長さんだって、みんないい人達だったわ。私にはもったいないくらい」
今日、ここに来たいと言い出したのは彼女だった。この先一ヶ月は病室に缶詰であるので、高台ヶ丘公園から見る夕焼けを、せめても目に焼き付けておきたいらしい。僕に断る理由などあるはずもなく、いつものように仕事が終わったら公園の入り口で待ち合わせをしましょうという彼女の言に従って、一時間弱の暇を持て余す羽目になった。
「……ねえ、やっぱり怒ってる?」
「いいや? 多少遅れたくらいでそんな」
「違うの。そうじゃなくて」
公園の階段を登りながら、彼女は視線を落とした。
「私が、声優としての夢を諦めてしまったことよ。まだまだこれからってところで、貴方だって、あんなに応援してくれていたのに」
「……気に病むことはないさ。仕方のないことだ。それに君の中ではもう、折り合いはついているんだろう」
彼女は気丈ではあったが、それは自分の内で限った話で、自らの運命に対しては実直に向き合いながらも、この場に限らず度々、僕のほうを気にする素振りを見せていた。それは言うに及ばず彼女の優しさであり、僕もそれを理解していた。
「でもあの時、貴方の言うとおり安静にしていれば」
「それも言いっこなしだ」
「でも――」
「大丈夫だよ。大丈夫。辛いのは君なんだ。僕のことなんて何一つだって気にしなくていい。きっと喉を悪くしたのだって、君が声優として一生懸命やってきたからこその、職業病ってやつなんだろう。それはもはや誇るべき勲章だよ」
僕がそう言うと、彼女は照れたように顔を背けて、その掠れた声でごにょごにょと言繰ったので、その後ろ髪、首すじの辺りを僕がにわかに右手でくすぐると、彼女はひゃっと驚いた声を出して振り返り僕を睨んだ。僕はこの、彼女がふいに出す驚声やおののいた叫声が特に好きだった。その点についてはサディストであることを自覚していたし、夜の生活においても少なからずそれは顕著であった。僕は何でもないように笑って、行こう、と先へと促した。
「もう」
階段を登り終えて、あっ、と彼女は言った。
「見て。ロープが」
見ると確かに、展望台は立ち入り禁止になっているようだった。どうもこの前の大雨で少し山が崩れて、修復途中となっているらしい。
「どうする? 戻ろうか」
「せっかく来たんだし、少し景色を見るくらい、罰は当たらないと思うわ。大丈夫よ、誰もいないみたいだし」
彼女はそう言って、ロープをくぐって展望台のほうへ行ってしまった。僕は止めようとしたが、確かに周りに人気もないこともあり、少しだけだからねと言って彼女に続いた。
斜陽は、今まさに沈まんとしていた。一日の最期にひときわ美しく輝き、世界中を橙に染めている。
「綺麗……」
僕は息を飲み、彼女は歓声を上げた。それはとても幸せな響きで、たとえ何を失ったとしても、僕達は幸せだった。僕は彼女を抱き寄せ、しばらくそうしていた。
「写真を撮ろう」
携帯のカメラを構えて数歩下がり、僕は気付いた。彼女の頭上、崩れた崖の上の重機が傾き、バランスを崩して今にも落下しそうになっている。慌てて危ない、と叫ぼうとして、
僕の世界は、ぐらりと傾いた。
†
それは。
それは底なしに最低で倫理に欠けた、どうしようもなく邪悪な考えであったが、僕がそうと認識して心の内で対抗するよりもずっと速く、僕の精神を汚染してしまっていた。いや、これは狡い言い方だ。そもそもその考えというのは、誰でもない、僕自身から噴起したものであったはずなのだから。あの日、一度がらんどうになったはずの僕から、そして彼女を第一と定めたはずの僕から、こういう発想が生まれるというならば、僕という人間はもう本質的に、揺るぎなく、そういう類の人間であったに違いないのだ。
僕と彼女。
出会いは偶然で、出逢いも偶然で、だからそれはもう運命と呼ぶべき必然で、引力に引かれて僕らは繋がった。彼女が僕に何を見出していたのかは今もって定かではないが、僕に関して言えば誘蛾灯にふらふらと向かう羽虫のようなもので、走性とも言うべき単純な機構でしかなかったのであるが、その僕が何に惹かれていたのかと言うと、今も昔も変わらず、彼女のその声に違いなかった。
これをいま一度、残酷なほど自分に正直に解釈するならば、僕は別段彼女について、声以外に惹かれるところなどなく、むしろ僕にとっての彼女とは、すなわち彼女の声そのものでしかなかった。僕が愛していたのは彼女ではなく、彼女の声だけだった。彼女の声だけを愛していた。声だけだ。声だけが、僕にとっての彼女の全てを構成していた。
僕が得たそれは全く新しい知見でありながら、一切のショック、衝撃を引き起こすことなく、ただ、ああ、なるほど、これが正解なのか、という静かな理解と納得に迎えられた。気付いてしまえば滑稽なものだ。彼女に接するにつれ、彼女の内面を? 彼女自身を? 深く愛するようになった? 傑作だ。盛大な勘違いだ。見当違いなノーマライズの真似事だ。そうとも僕は始めから終わりまで、徹頭徹尾、彼女の声だけを気に掛けていたではないか。彼女と男女の仲になったのも、プロポーズをしたのも、全ては果てぬ独占欲と所有欲を満たすための手段に過ぎなかったのだ。なのに。なのに。
目の前の女を見た。こいつは何だ? こいつは、これは、彼女を再生するだけの、肉で出来た、機械だ。それなのに、これは、身の程知らずにも彼女を商売道具にし、あまつさえ無理を通した結果、彼女にひどい怪我を負わせてしまった、どうしようもない重罪人だ。咎人だ。存在自体が害悪だ。なのになぜこれは、このように幸せそうな顔で笑っているのか。何がそんなに嬉しいのか。この女は、僕と彼女をどうしたいのか。やめろ。笑うな。笑うな。笑うな。
ああ、そうだ。これから僕がすることは救済なのだ。彼女は老いて、死にかけている。そしてもうじきに死ぬ。僕は最愛の女性を失って独りになる。それがどうしようもなく僕を怯えさせる。孤独の海が僕を溺れさせようとする。
老いていかないで。置いていかないで。
愛しているのだ。どうしようもなく愛しているのだ。僕という存在はもう、彼女無しではどうやって形を保てばいいか忘れてしまった。
彼女を苛む死の檻。壊れた肉のスピーカ。粗悪な不良品。そんなものはもう要らない。僕と彼女の世界には必要ない。だってもう、彼女を助けられるのは僕だけなのだ。
崖の上の重機はもう限界まで傾き、重力に身を躍らせる瞬間を今か今かと待っている。僕は構えた携帯をそのままの体勢で操作し、カメラの代わりにボイスレコーダを起動させた。あとはタイミングだけだ。どうせなら、最高の彼女を。
そして存外早く、その瞬間は来た。
「危ない!」
僕は叫んで、女は振り返った。何もかもが遅い。残された時間で女に許された行為は、たった一つだけだ。
「えっ――きゃああああああああああああああああああ!」
その断末魔は夕焼けのように美しく、有終の輝きを見せ、やがて凄まじい衝撃音と共に止んだ。空を見ると、夕陽は完全に沈んでしまっていた。だけど僕の手の中には、確かに彼女が握られている感覚があった。おそるおそる再生してみると、ああ、それは間違いなく、それどころか、これ以上無いほど美しく澄みきった、彼女のかたちがそこにはあった。老いて死にかけていた彼女は、それは見事な復活を果たしたのである。僕は彼女と共にその場を去り、自宅に帰って、約束通り、二人で結婚式を挙げた。
こうして僕は、彼女と結ばれたのである。
†
それからの話を、僕は多くに語る術を知らない。というのも、この頃の僕の幸福度は非常に高い水準で安定していたからであり、とかく物事というのは、転換期の回数で厚みが計算されるらしいので、そういった意味では僕の生活は何の変哲もないものだったが、しいて言うならば、一日一日が何にも代えられぬほど美しい、それは至高の結実だった。
最終的に、音楽プレイヤが彼女の住処ということで落ち着いた。以前の肉の入れ物については、一応、警察には事故で届けておいた。その後のことは、まったくもって僕の知るところではない。
彼女と僕の生活、コミュニケイションは、一般的な男女のインタラクティブなそれとは少し異なるものだった。彼女はただ、彼女としてありのまま、その叫びを響かせることしかできなかったが、それは決して欠陥などではなく、彼女をむしろ余計なものを根こそぎ削ぎ落とした、完成された芸術品たらしめていたように思う。彼女の叫び声は、どんなにくたびれた僕をもひと手間に癒してくれた。僕は朝起きて、コーヒーを飲みながら、また寝る前に電気を消したあと、イヤホンをつけて、彼女の声と僕の鼓膜でキスをした。
僕と彼女を分かつものは何も、何も無かった。彼女は僕の所有物で、僕は彼女の所有物で、意思の交換などする前に終わっていて、愛情は既に再分配されていて、それが夫婦というものだった。そうして三年が過ぎた。
音楽プレイヤの故障だった。あまりに唐突に、彼女は死んだ。
寿命だったのだ。
バックアップは無かった。迂闊と笑われるだろうが、僕は彼女が、同時に他点的に存在することに、強い拒否感を覚えていた。その唯一性は僕の中で、また彼女を彼女たらしめる重要で神聖なものだったのである。
涙は出なかった。無論、いつかは来ることだと思っていたし、心中で備えはしていたのだが、それとはもはや無関係に、ただ恐ろしいほどに大きな空虚、喪失感が、僕の内を抉り返し、植物か貝のごとく僕をせしめていた。二日ほど寝込んで、ようやく、僕は己の無力さを知った。
おそらく、あの日、喉に亀裂が入って粉々になって、彼女はやはり一度死んでいたのだ。僕は傲慢にも、彼女を悲劇から救う英雄か何かにでもなった気になって、滑稽な茶々を入れていただけで、その裏、筋書き通りに進行する物語をどうこう出来なかっただけの話だった。
僕は外に出た。
晴れ渡る青空の下、僕は庭に深く穴を掘って、その一番奥に、音を失った音楽プレイヤをうずめた。
これは葬式だ。
永遠に黙した、彼女の死を、悼む。
墓前に立ち、僕の胸に到来したのは、悲しみではなく、圧倒的な感謝の念だった。彼女は僕に、全てをくれた。彼女に出会えた、それだけで、僕は恵まれすぎていた。
屋根の上で、カラスが鳴いた気がした。気がしただけだ。僕の耳は、外から中まで、切り刻まれ、焼けただれ、ぐちゃぐちゃになっていた。もう何も僕の鼓膜を揺らすことは無い。彼女が声だけの存在だというなら、僕は鼓膜だけの存在だった。つがいを失った僕に、もはや存在する意味は無いのだ。
静寂しかない、黙りこくった世界で、聞こえるはずのない彼女の声が聞こえた。
そうか、と僕は理解した。彼女は死んだんじゃない。住処が変わっただけだ。音楽プレイヤから、僕の頭の中へ。
三年間もの触れ合いを経て、僕の脳内には、彼女の声が寸分の狂いもないほど正確に刻み付けられていた。いつでも好きな時に、容易に再生できる。既に聴覚は失った。これからの時間に上塗られることもない。僕と彼女は、隔絶された場所で、真に一つになったのだ。
嗚呼、これはもはや、最上だ。
これこそが幸福の無間地獄。
僕ら二人でなら、どんな世界でも生きていける。
僕の頭の中では、祝福の鐘のように、彼女の叫びが休みなく鳴り響いていた。
黙葬 遠原八海 @294846
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