第16話 策士の娘
貴一と出逢ったのがいつだったかなんて覚えていない。
遠い遠い記憶を手繰り寄せても、やっぱりずっと一緒に居たからどこが始まりだったのかとかはよくわからない。
貴一はずっと一緒にいた。これからも変わらないはずだった。
だけれど、今回は何かが違ってしまう気がした。
貴一がどこか遠くへ行ってしまうような得体のしれない恐怖。
生きている時間、そう今あるこの場所に一緒にいられなくなるような変な感覚すらする。
貴一からはいつも花の香りがする。
何の花だろうって意識はしたことはなかったけれど、絶対に花の香りがする。
香水なんて使ってないよと貴一は不思議そうに自分の身体を匂ってみたりしていたけれど、花の香りだと思う。
重力がどう自分の身体にかかってきているかがわからないほどの衝撃で天地がわからない。あまりの圧に、瞼が持ち上げられない。フラッシュが四方八方からたかれたような空間にいると自覚できた瞬間に、水の香りがした。
根性だと瞼を持ち上げると、一面の蒼。
あっと声が出るより先に、花の香りに包まれた。
水面にたたきつけられる寸前に貴一がかばってくれたのだ。
『ここまでが限界。 必死で水面まで泳げ』
貴一の声がした。
私は泳げない。だけど、貴一の言う通りにしなければならない。
貴一がそういうのならばできる。
『やれるよ、静音』
花の香りが遠のく。貴一がどこか遠くへ行ってしまうような不安。
『ふんばれ!』
貴一の声がかすれる。
彼の名前を呼ぼうとした瞬間、間髪入れずに衝撃がくる。
次いで、水面が硬く感じられ、体中を鞭で打たれたような痛みが襲ってくる。
息が苦しい。でも、できる。
手を伸ばせと水をかいて上へ上へと。
ダメだと思った。
視界が暗くなりはじめる。
『大丈夫、静音』
貴一とは違う声がした。そして、多くの白い手に私の体は引き上げられた。
水から頭を出し、空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
溺れずにれずにすんでいるのは手が私の体をホールドしてくれているからだ。
「どうなってる!?」
私は自分の体が凍り付くほどの光景を見た。
奏太が貴一を岸に引きずり上げている。
そして、真っ蒼な顔をしている貴一に心臓マッサージを開始した。
繰り返し、繰り返し叫んでいる言葉は『頼むから、息をしてくれ』だ。
「しくじった」
父との約束を私は護ることができなかった。
この状況は悪夢だ。
必死に岸まで泳いで、貴一の体のすぐそばへかけつける。
途中で何度か転んだ気がするが、そんなことはもうどうでもいい。
水の冷たさやつい先刻まで繰り広げていた戦闘でついた傷の痛みなど感じない。
貴一の名前を呼びたいのに、声帯が震えすぎて声が出ない。
絶望ってこんな感覚なのだと生まれて初めて認識した。
指先で貴一の頬に触れるが貴一の目は閉じられたままだ。
皮膚色は真っ蒼。いや、白磁のようで血の気がない。
息をしておらず、時間が止まってしまったように動かない。
「奏太、なんで?」
ようやく出た言葉を奏太は無視するように答えない。
みればわかるだろうがというような歯ぎしりだけだ。
それが答えのような気がした。
貴一はふりきってしまったのだ。
貴一には限界がある。それを承知で彼は振り切った。
彼一人ならば耐えられたはず。
だが、彼は数十人の空間転移を行ってしまった。
ふいに脳裏に父の声が蘇った。
『静音、君は貴一の懐刀であり、貴一の守護者でなければならない』
私の父である宗像時生はそう言った。
あの場で禁止の術式を展開すべきだったのは貴一ではなく私だった。
後悔という言葉では片づけられないほどの憤りがわく。
『誰よりも頑丈であり、限界がなく生まれたことの意味を知っておかねばならない。 自分自身の使い方を常に思考しなさい』
奏太の体を押しのけようとするが、さすがに大柄の奏太の体はそう簡単に動きはしない。
奏太にできて、私にできないことは山のようにあるだろう。
でも、奏太にできなくて、私にしかできないこともある。
「どけ、望月の狐!」
静まり返った空間に私の声だけが響く。
唯一無二の神の獣にとって、貴一の存在がいかに特別であるのか。
もはや語るまでもないだろう。
だけれど、神の獣にとってだけ貴一が特別なわけじゃない。
「どきやがれ。 どかないなら、あんたを殺してでもどかせる」
自分が一番に心配しているとでも言いたいのか。
お前は神の獣だから、貴一を護りたいのだろう。
私はそんなこと、関係なく、貴一を護りたい。
運命とか血筋とかそんなもん、どうだっていいんだ。
貴一が貴一だから、私にとっては特別なのだ。
選ばれし者という言葉の響きが私は嫌いだ。
この神の獣はその言葉を無自覚につぶやいた。
選ばれたから大切なのだとしたら、今、この瞬間、貴一を世界で一番大切に想っているのはこの私でしかない。
プツリと線が切れた音がした。
「あんたと契約している以上、あんたがこうして息をしているのならば貴一は死んでいない。 そんな簡単なこともわからんのか!」
常に冷静沈着な神の狐。それがこれほどに簡単なことに気が付かない。
はじかれたように顔を上げた奏太の頬を一滴の涙が零れ落ちる。
この震えるほどの恐怖に立ちすくむのが神の獣の真実であるのなら、その看板おろしてしまえとすら思う。
泣いてすむ話じゃないと、苛立ってきた。
急激に冷静さが戻ってきたことにもほんの少しがっかりしていた。
我ながら可愛げがない。
父が普通の人じゃないから、仕方がないと割り切ることにした。
貴一の腕に浮かび上がっている痣はじっくりとみてみるとまるで桜の花の浮世絵のようだ。桜の花の色は単色ではない。各家の独占カラーであるその色で彩られている。すべての家の桜を背負うのは貴一だというような痣。
梅は皆の誇り、桜は表にでないもの。語ってはいけないもの。
不可触の桜。
日本にいる黄泉使いは皆、梅を誇る。そして、桜を語らない。
桜を純粋に愛でられないのは黄泉使いの悲しい性。
「美しいのに」
ぼやいて、はっとする。
「あえて触れないようにしているのか?」
奏太の顔を見上げて、その表情に答えをみた。
待て、父が私に何か言っていた気がする。
あの父のことだ、絶対に私に仕込んだはずだ。
「思いだせ!」
私は自分に苛立った。
桜の花を父はなんと表現していたかを思いだせとイライラが頂点に達する。
父と一緒に見に行った桜は樹齢400年の枝垂れ桜。
その下で父は何と言ったか。
『枝垂れ桜は優美だけど、ごまかしっていうひどい花言葉があるんだよ』
ごまかし。
ひどいと怒った私に何と言ったか。
「思い出せ!」
あたりに自分の声が響き渡るほどの大声で叫んだ。
私は知ってる。
知ってるんだ。
悔しくて、奥歯がきしむ音がする。
『ごまかすって言葉は、まともに答えない、うやむやにする、都合の悪いことを隠すって意味があるだろう?』
父は笑って言った。
この後だ。
思い出せと頭を抱える。
父はパワーワードを口にしたはずだ。
『桜はその美しさで見る者の時を奪う』
そうだ。
思わずみとれてしまうから、時間を忘れてしまう。
そういう意味なのだろうとその時は思っていたけれど、違っているとしたら?
美しさで奪う。
時を奪う。
そうか、桜は時間の象徴。
もう一度、私は奏太の顔を見た。
奏太はしぶい表情を浮かべ、私を見た。
「死神が最も嫌っているのは女王じゃない」
奏太は答えない。
女王と神の狼を封じることができている間に、死神たちが躍起になっている理由。
貴一を叩き潰したいのだ。
そう思えば、今のこの窮状の説明がつく。
「時間をコントロールされてしまったとしたら、誰一人手出しができない」
女王と同格、いや、女王以上に厄介な命式を身に受けているのがこの貴一だ。
だから、宗像の血を色濃く受けている悠貴が、珠樹が、雅が、私が周りを固めている配置になっている。
女王が全ての黄泉使いを統べるその下で桜の者が静かに護られる。
これが成立したならば、こちらをよく思わない輩は生きた心地がしないだろう。
つまり、今の猛攻には意味がある。
女王を完全に抑えきれている間に勝負をかけたいということの証だ。
つまりは、女王を抑えきれる時間には限界があるということ。
「こちらはしのぎ切れば勝てるってことか」
ふうっと息を吐く。
思考せよ。
父の声がする。
私が貴一のそばにいることは当たり前すぎることだと言っていた。
私の父は簡単に倒れはしなかったはずだ。
眠る父の姿を思い出せ。あの人は必ずメッセージを残したはずだ。
どうして気が付かなかった。
「今頃か!」
私は自分を責める他ない。冷静でいられなかった証だ。
今ならわかる。
父の右手に握られていた札が異様に多かった。
同じ種類の札ならば、たった一枚で良いはずのものが複数だった。
「あれは何枚だった!?」
とっさに父がつかんだ札の枚数。
思い出せない。何枚だ。何枚だったのか。
目を閉じる。私は何枚取り出したのか。
「1、2、3、4……」
札は4枚だ。
ハンドサインに置き換えたら4。
「制御待機!?」
父は禁じ手を使う準備を整えろと言ったことになる。
父の言う禁じ手とは私が知りうる限りでは3つだけだ。
その一つは私が完全に死を自覚した際に発動させるものであるから除外。
もう一つは個別の術式の発動。これは貴一がついさっき使用したものを指す。
個別の術式は連発できない。そして、これは戦況を大きく覆すにはあまりに手数が足らない。あの父が手にしろとあえてメッセージにはしない。故に、除外。
残す一つは隠し舞いだ。
宗像の禁じ手中の禁じ手であり、これがあることを知っているのは女王かその腹心の父くらいのものだ。
そして、隠し舞いは1000年以上使用されたことはないはずだ。
使いたくともこちらの希望ではどうにもならないもののはず。
背筋を冷たいものが流れ落ちた。
それを手にしろと言われている気がした。
「悠貴、珠樹、雅の三名をここへ連れてきて欲しい」
奏太は一瞬眉をひそめた。私が何をするのかといぶかしんでいる。
「獣として人の輪を離れたあんたにはできないことをする」
私は宗像時生の一人娘。
おそらく、他3名よりもマニアックな知識は受け継いでいる。
この窮地を脱するために私がいるはずだ。
「私は、貴一ほどあんたを信用しているわけではない」
奏太が驚いたように私の顔を見て、小さくそうかとつぶやいた。
女王は私たちの誇りであり、秩序そのものだ。
その女王のそばにいるのは狼だ。
女王と狼はセットで代替わりをするときいた。
では何故、狐は常に一人だけなのか。
私の父は『狼は女王を裏切ることなどできないが、縛りのない狐はあるいは』といつだったか冬馬おじさんと話していたのをきいてしまったことがあった。
その狐が奏太だったとは予想できていなかったが、本能が警鐘を鳴らしている。
奏太は貴一を傷つけることはないだろうが、黄泉使いを、女王をどうしたいかはわからない。
「あんたにしかできないことをして、迅速に3名をここへ連れてきて。 けが人は本邸へ」
奏太はゆっくりと立ち上がると、ようやく貴一のそばを譲ってくれた。
「今回は譲る」
背後に数歩さがった奏太が指先をパチンと鳴らすだけで、意識のないまま横たわっている宗像の黄泉使い達の体を抱え上げるような影が複数現れる。
なるほど、これが神の狐の御業か。
これだけのことを息をするようにできる狐があの戦闘の場で力を出せなかった理由。それはこの貴一だ。
今は貴一の意識がないから狐は制限から逃れることができているというわけか。
現状では、貴一との契約が狐の足枷となっている。
だが、貴一が持って生まれたものを解放し、高みに登れば、この狐の潜在能力は爆発的となる。
奏太の刺さるような目は言葉以上に物語る。
まるでお前にできるのならばやってみろというようだ。
貴一を一番案じているのは他でもないこの私だ。狐ごときに負けると思うのかと睨み返した。
もう背後を振り返って奏太とやりとりする必要はない。
3名がここへ到着するまでに私にはすべきことが残っている。
横たわったままの貴一の胸元を大きく開き、左胸あたりへ手を伸ばす。
冷水にさらされた肌は恐ろしく冷えている。それでもわずかに体温はまだ残っていた。だが、拍動を感じるはずの部分が静まり返っている。
体はここにあるのに、魂がどこか違う場所へ飛ばされているような感覚がした。
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