ほんの一押し、君の背中を
高橋末期
ほんの一押し、君の背中を
「やっぱり、ガスってるね」
ツボミは、ロープウェーの窓から現れた、山頂付近のトマとオキの耳をスッポリと覆う雲を眺めながら、残念そうな顔をした。
そんな顔をしたツボミをわたしは、そのままこのロープウェーの窓から、今すぐ突き落としてやりたかった。
「登っている時、晴れるかもしれないよ。予報だと雨じゃないんだから」
わたしはツボミを慰めるが、何となく今日も、こんな天気になるような気がしていた。
群馬と新潟県の県境にある谷川岳。大学のアウトドアサークルで知り合った同学年のツボミとわたしは同じハイキングが趣味であり、こうしてサークル活動とは別に、二人でよく登山をしていた。
谷川岳をツボミと登るのは、今回で三回目だが、何故かわたしとツボミがこの山を登ろうとすると、必ず天候が悪くなる。
「ジンクスってやつなのかな」
霧がかった天神平を望みながら、登山道の手前で、わたしとツボミは準備運動をする。
「元々、この山は気候が変わりやすいことで有名な脊梁山脈だからね。むしろ晴れていたらラッキーだと思わないと」
「魔の山だっけ? 犠牲者の数が――」
「ギネス級とはいっても、それはロッククライミングが必要な一ノ倉沢ルートでの話だからね。わたしらのようなゆる山ガールは、比較的楽なコースでもあるロープウェールートで十分」
水分補給用のハイドレーションチューブを口元まで伸ばしたツボミが、「よし!」と、膝をパンッと叩く。
「そんで、無理は禁物でしょ? 天候が悪くなったら、すぐに引き返す! 例えゆる登山でも――」
『山をなめるな』
それが、わたしとツボミとの取り決めたルールだった。
ゼミやサークルにアルバイトと就活の悪口、恋バナやグルメ、コスメ、最近観て聴いたサブスクのドラマや映画、音楽の話などなど、山頂まで三時間もあるから、わたしとツボミは、永遠と尽きることのない話題を喋り続ける。
ツボミはどう思ってるか知らないけど、わたしはこういう形の登山が好きだった。好きな話を気兼ねなく、好きな人物と好き放題喋り続け、気が付いたら山頂に着いているこの登山を。
「少し道が狭いから気をつけてね。落ちたら、死んじゃうよ」
序盤のチェックポイント、熊穴沢避難小屋近くにある崖の裾にある狭い道をツボミは、おそるおそる渡る。
運悪く、道がたまたま崩落するか、足を滑らせたツボミは、そのまま崖へ真っ逆さまに滑落し、足を骨折して身動きが取れず、金切り声の断末魔をあげながら、そのまま惨めな様で熊に補食されないかな。
わたしは、ツボミと登山をしながら、よく彼女を山で死んでほしい妄想を抱いていた。
別にわたしはツボミに対して、何かを恨んでいる訳じゃない。むしろ、ツボミは誰にでも無害であり、誰かの恨みを買うような悪い子でもなかった。
――ボサツ
サークル内では、ツボミの事をそういうあだ名で呼ぶ者もいる。
品行方正、清廉潔白とも呼ぶのだろうか。実家が資産家のお嬢様という、生まれ持っての素養……温室育ち特有のの毒も偽善のない純粋な優しさを持つ、弥勒菩薩のような慈悲の心と顔をしたツボミの事をボサツと呼んでも、何ら不思議ではなかった。
わたしは、度々、そんなツボミの事を無性に、汚したくて、死んで欲しくてしょうがない気持ちになっていた。
「雲の中みたいだね」
天神尾根の道に入り、森林限界点を超えれば、眺望が一気に広がるはずだが、目の前には視界の悪い霧がかった急な斜面が現れる。
「引き返そうか?」
「ううん、雨でもないから登ろうよ」
よほど、景色が悪かったのが悔しかったのか、ツボミはペースを早めて、ズンズンと尾根道を登っていく。落石がツボミの頭に直撃しないかな。
三十分後、ツボミは登るペースを早くし過ぎたせいで、天狗の留まり場という名の大きな岩場の上で、ぐったりしながら、チョコレートをかじっていた。
天気が良ければ、この場所から奥多摩や丹沢の山々まで見渡せるが、目の前には分厚い雲に覆われてガスっている、視界の先が何も見えない、白い闇のような光景だった。
雨が降っている訳でもなく、だからといって、眺望を写真で撮る機会も無く、わたしたちは岩の縁に足を出しながら、ぼーっと、眼下の底の見えない谷底を覗いていた。
こんな天気のせいか、わたしたち以外の登山者はいない。今晩、泊まる水上温泉の宿の話をしながら、会話が一瞬だけ途切れる刹那、風や鳥の音がしない事に、わたしたちは気が付き、その静寂にしばらく耳を澄ませた。
ツボミが気持ちよさそうに、目を閉じている最中、わたしはこのままツボミの背中を押して、岩から突き落としたい衝動に駆られていた。
「ほんの一押し」
からかうだけだから。冗談なんだから。そう自分に言い聞かせて、わたしはツボミの背中を押そうと、腕を構える。
「もしかしたら、あの世の光景ってこんな感じかもね」
ツボミはボソッとそう言って、わたしはドキッとした。彼女の優しく慈悲に満ちた瞳は、すべてを見通せるように、ガスっている霧の向こう側を覗いていた。
彼女が大学でボサツと呼ばれているのも、何度か彼女と登山していて分かった気がした。それは「ツボミは決して怒らない」という事実だ。登山中のコンディションや疲労などのストレス、アクシデント、今のような「思い通りにならない天候」など、基本、登山というものは人間の感情を揺さぶり、喜怒哀楽の起伏を激しくさせる趣味だと思っている。
ツボミ以外の知り合いと山を登るとき、何度か喧嘩をした事があるが、ツボミの場合、例えそれが、ルートを間違えて迂回してしまったり、急に土砂降りの雨で濡れようと、調理中のガスバーナーをうっかりわたしがひっくり返してしまっても、彼女の眉間にしわが寄っている顔など見たことがなかった。
「本当だったら、この先にいっぱいに雲海が広がってるのにねー、でも、山の上で食べるカップラーメンは格別だよ」
頂上付近の肩ノ小屋付近に着いたものの、景色は相変わらずであるが、ツボミの顔は嫌な顔一つせず、カップラーメンをこの世で食べた一番美味いご馳走のように、至福に満ちながら、すすっていた。そのまま転んで、喉元に割り箸でも突き刺さらないかな。
わたしが、何度も彼女が死んで欲しいと妄想しているのは、もしかしたら……。
猫の頭のような形をしている双耳峰、三角点があるトマノ耳、そして、谷川岳の実質の頂上でもあるオキノ耳へ登頂するが、景色が晴れる事は一度も晴れる事もなく、わたしたちは頂上の看板前で記念撮影をとっとと済ませて、下山しようとした。
「この下で、何百人もの人が亡くなったの?」
ツボミは、崖下の一ノ倉沢を眺めていた。チャンスだった。ツボミは背中を無防備に、わたしへと向けていた。今しかない。
わたしが、何度もツボミを死なせている妄想を持つのは、そう……わたしは、ツボミを怒らせたいからだ。わたしだけに対して、怒っているツボミの顔を見てみたい欲望が強いからなんだ。ボサツと呼ばれる子も、所詮は人の子だという証が見たかっただけなんだ。だから……。
だから、わたしはほんの一押し、彼女のバックパックを押したのだ。
キャッと、小さく情けない声をあげながら、ツボミはヨロヨロとバランスを崩しながら、崖の縁ギリギリのところで踏ん張り、その場でヘナヘナと座り込む。
「……ごめん」と、わたしは表面上は謝ってみるが、早く振り向いて、わたしに怒った顔を見せて欲しかった。その、仏様みたいな顔を醜く歪ませて、罵詈雑言を、この山頂から山彦が響かせるぐらいに叫んで欲しかった。
早く! 早く! 早く! ツボミ! お願い!
ツボミは振り向いた。その顔は、何と形容すればいいのだろう。
「山をなめるな……って、決めたでしょ?」
ツボミの顔は怒っている訳でもなく、驚いている訳でもなかった。その顔は……。
わたしを憐れんでいる顔……可哀そうな生き物を見ているような顔と瞳で、わたしを見つめていたのだ。
「ほんとにごめん……ごめんなさい」
わたしは再度、何度も謝るが。ツボミのその顔はもう見たくなかった。
「わたしね、山で死体を見たことがあるの」
下山途中、終始無言だったツボミが、わたしに話しかける。
「こんな風に、人気のないガスっている視界の悪い山だった。下山中、ガレ場から誤って滑り落ちたのでしょうね。腰の辺りが不自然に折れ曲がっていて、足の関節が膝から突き出ていた、高校生ぐらいの女の子だったわ」
霧が濃くなり、ツボミの顔を把握できない。
「山岳救助隊には連絡はしたけど、到着するまでわたしは、その子を見ていなきゃいけなかった。どう見ても助かる状況じゃなかったけど、わたしはその子に、“大丈夫よ、もうすぐ助かるから”と、嘘でも彼女を励まし続けた。意識があるのか、無いのか、その子はヒューヒューと、か細い呼吸を繰り返していて……そして……」
そして……ツボミはその話を最後まで話さなかった。ロープウェーの駅に辿り着くまで、終始わたしたちは無言だったが、ロープウェーの中でツボミが「今晩のバイキングと温泉が楽しみだね!」と、いつもの調子で話し始めて、わたしは内心ホッとしていた。
ロープウェー駅からそのまま、今晩の宿でもある水上温泉に向かう為、土合駅に向かっている途中、ツボミは、せっかくだから日本一のモグラ駅を見てみたいと言ったので、水上方面とは反対の地下ホームを見に行くことになった。
土合駅の地下ホームは地下から地上の改札へ出る為に、標高差70メートル、462段の階段を上らなければならない、日本一の高低差を持つモグラ駅だ。
「うわー、なんでこんなに深くて長い階段を作ったんだか」
わたしが、階下を見下ろそうとした瞬間だった。わたしの背中に違和感を感じたかと思うと足が浮き、そのまま階段を転げ落ちた。
転げ落ちながら走馬灯のように、さっきのツボミの話を思い出していた。
なんで、ツボミは滑落した子が、下山中である事を知っていたのだろうか……と。
もしかしたら、こんなわたしの状況みたいに、彼女も、ほんの一押しして……。
階段の途中で転がるのが止まり、体中の痛みに襲われながらわたしはツボミを見上げた。
ツボミは、怒っても、悲しんでいる訳でもなく、ひたすらわたしを可哀そうなものを見つめる眼差しと、慈悲に満ちた顔でわたしを見下ろしている。
ヒューヒューと、地下から笛のような反響音が木霊する。ツボミが聴きながら看取った、女子高生の呼吸音もこんな音なのかもしれないなと、何となく思っていた。
ほんの一押し、君の背中を 高橋末期 @takamaki-f4
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