3.秘密の左手(3)

 千世さんは別に裸族というわけではないらしい。

「慣れない環境で疲れ気味で、風呂上がりにろくに身体も拭かないまま寝落ちすることが増えてる……だけです」

「だからって寝坊で約束破るのはよろしくないわなあ、千世?」

「……すみません」

 寝るときの格好まで指定するのは人権侵害なので強くは言わない。

 今日のは本当に事故だし。まだあんまり直視できないけど。

「とりあえず繊維組合には謝ること。それと、艦環はちゃんと着けて寝ろ。就寝モードにすれば睡眠の妨げになることはない」

「……はい」

 早口で設定を教えてもらったあと、千世さんは自治官舎を出ていった。三番艇の繊維組合本部へ行ったのだと思う。

 千世さんの艦環が一層を離れたのを確認した後で、一席は話を切り出した。

「で、千世の左手がおかしいって?」

「そうなんです。なんかうまく動かせないみたいで」

 千世さんが服を着ているのを外で待つ間、一席に報告を入れておいた。

 状況と、左手が気になることと。

 ここへ来た初日に言っていたのは、このことだったのかもしれないこと。

「あの感じだと、間違いなく医療機関にかかってると思うんですけど、なにも情報来てませんか?」

「うーん、諜報の方も芳しくなくて。どうも摩耶市は千世の情報をかなり厳重にプロテクトしてるらしい」

 それはつまり、何かしら不都合な事実があるということ。

「なおさら調べないと駄目じゃないですか」

「まあね。ただ、医療機関からは攻めてないはず。そっち当たらせるか」

 言いながら、メッセージを作成し始める。

 実のところ、誰が諜報員なのかは限られた人しか知らない。みんな副業でやっている上に、組合本部の場所さえ明かされていないから。

 一席は知っているけど、私は知らない。

 補佐官にも開示されない情報なんて、これ以外にはないと思う。

「さてと、ひとまずこれでいいとして……明日海、長弓の旦那とはまだ連絡取ってるか?」

「ええ。工房にも行きますし、通信もしますけど」

 長弓の旦那というのは、十番艇にある老舗の義装具工房の親方のこと。昔からお世話になっていて、当然今でも定期的にやりとりがある。

「あの人、何枠ならいるの?」

「ええと、工房は全枠開けてて、親方本人が出てるのは二枠です。先月も行ったので、変わってないかと」

「ん、じゃあまあそっちはこのあとで行くとして……あと一時間仕事するかな。明日海、支出レコード展開して。自治官予算の執行帳簿を整理するわ」

「……あ、はいっ」

 ぶつぶつと言った最後のあたりが指示だったと気づいて、慌ててモニターへデータを表示する。

 どうやら今日はデスクワークを片付けるつもりらしい。

 櫻河艦艇群全体の一般会計規模は約十三億。

 税制度を一切持たない櫻河は、収入源をもっぱら貿易の利益に頼る。貿易収支は別会計で管理して、毎年度の利益を他の事業ごとの運営資金に分配する仕組みだ。

 全取引を櫻河という国名義で行って利益を丸ごと得る代わりに、従事する民には櫻河艦艇群からきっちり報酬を支給する。多くの国家が税収入から福祉還元を行うのと異なり、櫻河は全てを平等に配分するために、そもそも引き去ることをしない。

 誰が上げた利益でも全体のもの、誰が見つけた発見でも全体のもの。みんなで高みへ至るため、全てをなるべく共有する目的で、このシステムは成り立っている。

 一般会計十三億のうち、十三番艇が自由に使える額はおよそ三千万円程度。その全額が自治官予算として付与されている。

 とはいえ全体福祉にかかるものや艦艇改修の関係は全て七番艇の全体予算編成に組み込まれているので考慮する必要はない。

 十三番艇の自治官予算の使途は、基本的に人件費。

 自治官や補佐官の給料ではなく、時間雇いで手を借りたときの報酬。例の諜報員とかもこれ。

 これが結構かさむ。しかも細切れに頻繁にあるので、毎月きちんと整理をしないと年度末に困る。

「んー、今月はなんでこんなにしょっちゅう土木組合を?」

「外装甲の緊急点検ですね。落雷被害の調査をお願いしたんですが、七番艇の事務が停滞して発注に時間がかかったので、一旦こちらで立て替えてます」

「なるほど。システム組合も同じ理由?」

「そうですね」

「はぁん……。そのあたりの理由書起案は誰が?」

「四席補佐官が当日に全て起案済みです。」

「オッケー、問題なし。全部反映しといて」

 一席承認分にまとめて移動させて、今年度の残高は一千六百万円ほど。立て替え分の金額が相殺されれば少し戻り、上半期半ば相応の額になると思う。

 そこから立て続けに艦内修繕要望の選別作業と他艦移動希望者の面談スケジュール調整。どちらも、秋の台風ハイシーズンまでにやっておかないと厄介なことになる。

 それらを片付ければ、ちょうど二席への引継ぎ時間となった。

 よもぎ深風みかぜ二席は渋い緑の櫻紗を纏った男前で、一席の五歳年上。補佐官の早蕨くんは私と同級生で、どうしても体調が悪いときには互いにカバーしあう仲だ。

「んー、今日は随分色々進めてくれてるね。なんかあった?」

「ちょっとなあ。千世の件でしばらく忙しい予感だから、月次処理系に手をつけた」

「ふうん? なにか分かったの?」

「なんにも。なんにも分からんってことが分かった」

「なるほどねえ。暴れるなら、先に言ってね。二席は一席の予備なんだから」

「暴れたりはしない」

「またまたあ。二番艇三席補佐官だった頃、暴れ回ってたくせに」

「あのときは若かったからな」

「人間そうそう中身は変わらんよ。ま、支えるんで、予告だけよろしく」

「へいへい……よし、終わり。明日海、上がるぞ」

 一席の声に顔を上げて、早蕨くんに手を振りながら官舎を出る。今日も頑張れ。

 一席はその足で長弓親方のところへ行くらしく、家に帰る私とはその場で別れた。


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