2.過剰免疫(2)

「千世よ、美味かったか?」

「……はい。ごちそうさまです」

「うんうん。うちの飯はとびきり美味いから、色々食ってみるといい。と……ああそうか、銀行に寄らないと金がチャージできてないな」

「そっか。千世さん、あちらの貨幣はお持ちですか?」

 櫻河艦艇群では現金の一般流通は皆無。ただし、貿易や海外渡航時には必要な場面も出てくるため、電子通貨への変換サービスはきちんと整備されている。

 国際的に認められているものならば、どこの通貨でも対応可能。

「少しだけなら」

 言いながらズボンの後ポケットから取り出したのは、おそらく財布と呼ばれるもの。デザインは全く違うが構造がよく似た物を、一席も海外視察のときに使っている。

 そのスリットのような部分から引っ張り出した茶色っぽい紙束がどの程度の価値なのか、すぐには判断できない。

「結構持ってるな。十五万くらいあるか? ああ、櫻河でも通貨単位は円を使ってる。色々あってな、やっぱり流通の多い安定した通貨が楽だってことで、そこだけは合わせた」

 十五万円。

 そんな額を、そんな不用心に持ち歩いて心配でならない。

「じゃあこれ、ここに入れられるんですか?」

 艦環を指差して言う千世さんに一席が頷く。

「そうそう。そしたら食事も日用品も、艦環をかざすだけで簡単に買える。明日海、五番艇行きの路舟って直行すぐ来るか?」

「ええと……五分後に出ますね。それ逃すと一時間待ちです」

「おっと。急ごうか」

「ですね」

 カップを食洗機へ入れ、ごみはごみ箱へ。

 私たちはさっと片づけると外へ出た。

 自治官が自治官舎を出ると自動的に官舎は施錠される。

「ああそうだ、千世」

「はい」

 第一層と十一層の間は直通エレベーターが通っている。呼べばすぐに到着するそれに乗り込み、着くまでの間に一席が釘を刺す。

「念のため言っておくが、疑わしいことはしないでくれな?」

「……どういう意味ですか?」

「個人的には、お前のことを信頼しようと思ってる。けど、櫻河の連中みんながそう思えるわけじゃない。反発心を抱いている奴の方が多いと思う。だからまあ、あんまり刺激しないでほしいんだわ。要するに、大人しくしといてくれってこと」

 朝のエレベーターで会った人たちのあの反応はそれだったのかもしれない。

 良くも悪くも、櫻河は閉鎖的だ。

 新しいものにはみんな興味を示すけど、新しい人には抵抗が強い。千世さんの存在が異物と認識されるのは仕方のないこととさえ言えた。

 でも、これから先櫻河にはもっとたくさんの移民が入ってくる予定だ。千世さんはあくまでも先行移住者。

 彼の移住期間中の報告によってあちらの政府は検討を深め、より順応した形での移民が送りこまれてくるのだろう。

 私たちは確実に、自分たちの国を蝕まれている最中だ。

 今のところ痛くも痒くもないけれど、そのうち心臓を食い破られたりするのかもしれない。

「分かりました。気を付けます」

「まあ、大丈夫だとは思うけどね」

 十一層で降りれば、目の前すぐに船着き場。

 行き先表示の旗が五番艇になっているのを確認して乗り込む。

 私たちのあとに何人かが駆け込んできて、それから舟は出発した。

 路舟のタイプはいくつかあるけど、今回のは簡易な座席が向かい合わせに配置されたもの。

 出航してすぐ、正面に座ったマダムが話しかけてきた。一席に気づいたらしい。

「どうしたんです、事件ですか?」

「いやいや。ちょっと移住者の案内でね。こちらの彼は千世と言うんです。よろしくしてやってくださいな」

 移住者、という言葉に少し眉を寄せたマダムは、しかしそれ以上嫌な顔はしなかった。そりゃそうだ。まさかほまれ一席の前でそんなことできるはずもない。

 この人がどれだけ苦労して譲歩を引き出した結果か、みんな知っているのに。

「若いのね、おいくつ?」

「二十六です」

「そう。やっぱりこう、なんというか……優秀な方、なの?」

 千世さんの素性は知れない。

 実のところ、既に昨日の夜から諜報員が動いてはいる。

 入国審査室での対面の瞬間、一つ上の十層に設けられた検分室から諜報組合の人たちが覗き見ていて、何人もの諜報員が今も向こうで情報を漁っている。報告はもう少し時間が経たないと来ないだろうと思うけど。

「いや、別に……」

 昨日の千世さん本人の話を信じるとすれば、むしろこの人は向こうで虐げられてきた立場だ。

 口ごもるのを見かねて何か言おうとするも、気の利いた言葉が出てこない。こういうときにさくりと空気を変えてしまうのが、一席のさすがと言わざるを得ない部分のひとつ。

「まあ、仮に向こうで超優秀でも、櫻河じゃあ違う生き方があるからなあ。どっちにしろ忘れて、イチから楽しんでほしいかなあ!」

「痛っ……!」

 ばしん、と音が響くくらいに背中を叩いて、一席は笑う。

 あんまり見事に叩いたので、ちょっと私もふきだしてしまう。

 つられて、はす向かいのお兄さんも笑いだし、舟全体になんとなく和やかな空気が満ちた。

 櫻河艦艇群には、これまでにも何人かの外国人が移り住もうとしたことがある。仕事や交渉で訪れるうちに暮らしそのものが気に入って、一度住んでみたいと申し出のあるパターンだ。

 その度に全艦議決の賛成多数採択を経て受け入れたけど、みんな半年しないうちに出ていった。お客様ではなく住民として馴染むには、櫻河は排他的すぎるのだという。

 そしてそうやって短期間で出ていった人たちは、必ず櫻河の財産たる技術や知識を持ち出していった。その程度でうちの産業が落ちぶれるわけでもないけれど、やっぱり気分はよくない。

 そういうことが繰り返された過去があるから、千世さんに対してもどうやったって身構えてしまう。でも、今回のは櫻河艦艇群の生命線と引き換えの条件による受け入れ。移民としての生活を送ってもらう必要がある。

 だから、一般の櫻河住民が知ることのできる範囲のものは、きちんと千世さんにも開示する。そういう方針だ。

 それに千世さんは、こちらの方が幸せに生きられるかもしれないし、ね。


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