2.過剰免疫
2.過剰免疫(1)
朝迎えに行くと、千世さんは既に部屋の前で待っていた。
ただ、着ているシャツは昨日と似たようなチェック柄なので、もしかしたら同じのかもしれない。ズボンは色が違うので、別のものらしい。
足元は例の穴あきサンダルではなく、スニーカーと呼ばれるものだった。それも櫻河では珍しい方の履物だけど、まあ昨日のほど奇抜ではない。
「朝食はまだですよね? 買ってきたので、自治官舎で食べましょう」
焼きたてパンの詰まった紙袋を少し持ち上げて言えば、千世さんは少しだけ笑った。
存在感の大きい眼鏡のせいで表情が読み取りにくいけど、別に仏頂面というわけではないらしい。
自治官舎を始め、各種の共用施設を集めた第一層行きエレベーターは、日中いつも混んでいる。悠長に待っていられないほどの緊急時には自治官の権限で割り込み使用もできるけど、普段は他の人と一緒に列に並ぶ。
「あの、食べる店とかってどこにあるんですか?」
「日中ならどの艇にも出張してきてますから、十一層……舟着き場のある層に行けば色々食べられますよ。あ、これは九番艇の本店で買いましたけどね」
朝食を買ってから出勤するのは毎朝のこと。一席は十三番艇に住んでいるので、できたてが食べたいとなれば朝から路舟に乗らなくちゃいけない。
事務仕事をしながらでも食べられる軽食のお店はたくさんあるので、いつも適当に見繕って買っていく。今日はバゲットサンドだ。
やってきたエレベーターには先客がいて、譲り合って乗り込んだ。
「おはよう、明日海ちゃん」
「おはようございます」
補佐官をやっていると顔も広くなる。
特に十三番艇の住民千八百人弱に関しては、ほとんど顔と名前が一致する。
「そっちの人は? 見ない顔……というか格好だけど」
ほらやっぱり浮いてる。
「向こうから移住してこられた方ですよ」
「ああ、例の、ね」
移住と聞いて、途端に顔色が曇った。
融和政策に合意し、移住者を受け入れるという話は各所で波紋を広げていたから知らない人はいない。
どんな人が来るとか、いつから来るとかそういう具体的なことは自治官レベルでの共有にとどめられていた。
情報が解禁されたのはつい先ほどのこと。通常の住民登録公告の形で公開され、トップニュースにもなっていた。
「千世と言います。よろしくお願いします」
「どうも」
なんだかぎこちない。
エレベーター内が全体的にぎくしゃくしているように感じるのは気のせいではないと思う。本当ならここで交友を広げておいてほしいところだが、危なっかしくて駄目だ。
第一層に着くとすぐに連れ出して、自治官舎に直行した。
出迎えてくれたのは一席ではなくて、小柄な男性――六席だった。黒い櫻紗を洋服の上から羽織るように纏っている。
「あれ、まだいたんですか、六席」
「その言い方は傷つくなあ。いや、ちょっとそっちの人に会いたくて、待ってた」
「ああ、なるほど……」
千世さんは十三番艇の住人だ。六席だって自治官として顔を見ておきたいのは当然だった。
「やあ千世くん、初めまして。
「あ……千世織路です。よろしくお願いします」
「早速なんだけどさあ、パーソナルデータ、とっとと登録してね。エラー吐いて吐いて大変なんだよ、それ」
指差されたのはもちろん艦環。
鴎六席は一日の終わりの時間帯を管轄しているため、七艇から送られてくるデータエラー日報の処理が主な仕事。
聞けば、昨日のエラーの九割方は千世さんの登録未了事項に起因するものだったらしい。
「すみません、まだよく分かってなくて」
「いやいや怒ってるわけじゃないよ。気を付けてほしいってだけで」
「はあ」
どうやったって怒ってるようにしか見えないのは鴎六席の損するところだ。そのせいでもう三人もの補佐官が逃げ出して、今は誰も補佐官を付けていない。
「ところで明日海ちゃん、六枠の補佐官やる気になった?」
「なりません」
私はほまれ一席の下で働きたいと思ったから、一席の補佐官をやっている。それ以外の人のところでは意味がない。
それを言おうか言うまいか迷ったところで、割り込まれた。
「鴎、大事な右腕を捥ごうとするのはやめてくれるか」
「捥ぐだなんて物騒だな、一席よ」
「じゃあなんと表現すればいい」
「ただのスカウトじゃないか」
「迷惑なんだよ、出ていけ。従わないなら一席権限を使うが」
「はいはい、分かったよ」
強制退去の切り札までちらつかせれば、さすがの鴎六席も出ていってくれた。
一席と六席はとにかく仲が悪い。
「なんですか、さっきの人?」
「自治官第六席、形だけのね。このところ自治官が不足してて、あんなのでもいないよりはましだと選任されてしまう……明日海、気を付けるんだよ。あれの補佐官なんて学ぶことはそう多くない」
「分かってます」
本来、補佐官は自治官を目指す人間が勉強するための職位だから、私のように高校生くらいから副業で始めるのが一般的。
当然、有能な自治官に付いた方が学ぶことは多い。お世辞にもそうとは言えない鴎六席から逃げ出した補佐官たちは今、みんな他の自治官のところで遅れを取り戻している最中だ。
「さてと、朝飯にしよう。それが済んだら巡回だ」
「日次処理は終わったんですか?」
「とっくのとうに。飲み物持ってくから待ってな」
バゲットサンドをテーブルに広げる背中から、いい香りが漂ってくる。
一席特製ブレンドの紅茶だ。
紅茶は櫻河の主要産品の一つ。といっても土地の限られた櫻河では茶葉が取れるわけもないので、物自体は海外産地からの輸入品。
それらをオリジナルの配合で組み合わせ、美しい箱に詰めてギフト品として送り出す。これが櫻河ブランド。
ただし一席は箱はどうでもいいらしく、いつも葉だけを直接買い付けてはああだこうだと調合して楽しんでいる人。
しっかり温められたカップに注がれるのは深い琥珀色。
綺麗ですねと褒めれば、昨日の夜中に混ぜたのだと言う。
「一席、ちゃんと家帰りました?」
「うん。鴎のいる部屋で寝られるほど図太くはないよ」
「それは……そうですね」
一席の家は十三番艇四層の中枢。出入りのしやすい、自治官用の部屋だ。
ときどきお邪魔させてもらうけど、どこで手に入れるのかよく分からない謎の工芸品が並んでいたりして面白い。
「さて食べようか。千世、好きなの選んでいいぞ」
「ベーコン、たまご、ツナコーンと買ってきました」
「……じゃあ、たまごで」
「ん、ベーコンもーらい」
どれも美味しいけど、当たりはツナコーンだと思う。ここのツナは完全自家製で、火の入り加減が絶妙のごろっと大きな塊。コーンは粒じゃなくてペースト。ツナにべったり絡みついて甘く主張する。
そしてそれを引き立ててくれるのが一席ブレンドの紅茶。食事向きの、すっきりした味わいで、それでいて香りは鼻にも残る。
最高。
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