1.ようこそ櫻河艦艇群へ(3)

「あー疲れた。やんなっちゃうねえ」

 自治官舎に戻ってくるなり、ほまれ一席はすぐさま枝垂れ羽織を脱ぎ捨てた。分かる。あれ、すごく暑いから。

 扇子で煽ぎながらソファーに座りこんだかと思えば、急に思い出したように立ち上がって執務机から煙管を取って吸い始めた。床に落ちた羽織を拾っていると、驚いた顔の千世さんが目に入る。

「ああ、気にしないでください。ほまれ一席は普段は大体こんな感じなので」

「そうそう。決めるとこだけ決めてりゃいいの」

「はあ」

 完全に気圧されている様子の千世さんをソファーへ誘導し、一席の正面の席に座ってもらう。

「改めて名乗ろうか。十三番艇自治官第一席、櫻河ほまれだ。こっちは補佐官の明日海、紫明日海。よろしく」

「千世織路です……よろしくお願いします」

「ういー。明日海、ちゃっちゃと進めてくれや」

「では、早速ですが諸手続きを始めます。まずは艦環かんかん、つけますね」

「カンカン?」

 不思議そうに首を捻った彼に、一席が自分の両手首を振ってみせる。

「これだよ。うちは個人識別で全てが動くから、常にこれがないと何もできない」

 紅色のバングル。その表面を覆う半透明のディスプレイは、絶え間なく流れ込む情報によって点滅や文字表示を繰り返している。一席は持っている権限が膨大なので、なおさら頻繁に通信が行われている。

 櫻河はICT先進国家だ。

 現実貨幣というものは今や国内では流通せず、日常的に扱うのは買い付けなど国際取引を行う必要のある職業のみ。通常は両手首に装着したバングル型通信環による電子貨幣で全て決済される。

 この装置の通称が艦環。これをつけていれば、個人識別が必要なものは全て賄える。逆に言えば、失くすと非常に厄介。

「はあ。スマホみたいなもんですか」

「スマホ……ああ、日本で一般的な通信機器でしたっけ。確かに艦環は通話やデータ交換にも使いますね」

「はあ」

 付け焼刃の知識を思い出して説明を入れてみるも、噛み合っているかは自信がない。

 先に取り寄せておいたハードケースから新品の艦環を取り出して、千世さんの両手首に取り付ける。

 微かな電子音の後、光が走った。

「はい、正常起動です」

「そうですか」

「サイズも問題なさそうですね。今回はオーソドックスなデザインのものを用意しましたが、中の基盤さえあればカバーはいくらでも付け替えできますから、好みに合わせてカスタマイズしてくださいね。完全防水防塵で、丈夫ですよ」

「あ、はい」

「もう少し初期設定をしますから、しばらくそのままで」

 サイドのボタンを押せば、ホログラムウインドウが立ち上がった。櫻河艦艇群のシンボルマークが一回転して、すぐに初期ナビゲーションが表示される。

 あのファイルから得た内容だけでは代理で入力できる項目が名前と年齢くらいしかなくて、ブランクだらけ。まあ必要があればそのとき環の方から聞いてくるので問題はないと判断して、一旦設定画面を閉じた。

「一席、後はお願いします」

「ん。千世、手を出してくれ」

 不思議そうに上げられた千世さんの右手を緩く握らせて、ほまれ一席の拳とぶつける。

「住民登録宣言。十三番艇自治官の権限により、千世織路を十三番艇住民に登録する」

 声に反応して、それぞれの環からホログラムウインドウが飛び出た。

 肩を震わせた千世さんの手を押さえて、ウインドウの文字が通常の定型メッセージであることを確認する。

《意志確認 千世織路 十三番艇に住民登録しますか?》

「えっと……」

「登録します、で大丈夫です」

「はあ。登録、します」

《要件充足 登録認証》

《各種権限情報を更新します しばらくお待ちください》

 この段階に入ればもう一席の力はいらない。本人もよく分かっているので、さっさと拳を下ろして椅子に腰かけている。今頃その環には千世さんの情報が流れ込んでいるはずだ。

 千世さんの方は、住民登録が完了したことであらゆるサービスの使用権利が付与される。それら全てのデータベースへのアクセスと情報送信が次々に行われ、その度に更新完了のメッセージが開く。

 中には登録情報不足でエラーが跳ね返るものもあるけど、それは仕方がない。教えてくれない方が悪い。

 でもさすがに病院機構と櫻河銀行に弾かれたのは都合が悪いので、明日にでも説明してリトライした方がいいかな。

《更新可能権限情報はありません》

「一席、終わりました」

「ごくろー。明日海、部屋の案内してやんな。その後はもう上がっていいよ」

 現在時刻、深夜一時。

 一席は五枠終了までの残り二時間をこなす。六枠は休憩で、七時からは本来の受け持ちの一枠。

 それもこれも、午前零時を設定してきた向こうが悪い。

「……大丈夫ですか?」

「なにが? 余計な心配しなくていいよ」

 そう言われてしまってはどうしようもない。

 入り用なら呼び出してほしい旨だけ伝えて、私は言葉に甘えることにした。

「千世さん、行きましょうか」

 なにを置いても住居の案内をする必要がある。

 居住区域になっている四層以下への連絡エレベーターの呼び出しボタンを押して、しばし待つ。

「荷物、それだけですか?」

 抱えているボストンバッグを指して聞けば、えらく驚かれた。

「へ? あ、ああ、そうですね。とりあえずいるものだけ……。前に使ってたもの、こっちでは使えるか分からないって言われたんで。衣類少しと常備薬だけ持って来てて……」

「ああ。まあそれは賢い判断だと思いますよ」

 櫻河住民として言わせてもらえば、千世さんの服装はものすごく浮く。服とか靴とか、全部こっちで買い直した方がいいと思う。

「そう、ですか。よかった……?」

 しどろもどろ答える千世さんの様子は、最初に受けた印象とはまるで違っていた。あのときはあんなに鋭く見えたのに。まさか見間違えるとも思えないし、不思議でしかない。

 やってきたエレベーターに乗り込み、七層のボタンを押す。

 ここの操作も艦環でできるようになればありがたいんだけど、エレベーターの設置は艦艇群発足当時のことだし、交換改修するには周囲の区画も全て壊さないといけないとかで手を付けられずにいる。このところ人口が伸びているために、居住区画の使用率もかなり高くなっているし、現実的な改修プランではない。

 お目当ての層に到着し、改めて目的地を確認。

「ええと、この層の……右舷外3路6室です」

「なんですかそれ、住所?」

「艇内の位置表記ですね。十三番艇第7層右舷外3路6室。十三番艇の第7層右舷側の外から3番目の通路6室目となります」

「はあ。ややこしいですね」

「そうですか? さて、行きますよ」

 足元の保安灯が、私たちの動きを察知して点灯していく。あまり夜間に外出することはないので、この光景は新鮮だ。

 艦艇内部でも、昼間なら自然光が流れ込む。ファイバーや反射板を駆使して間接採光を行っているから。

 もちろん外1路の区画は直接採光もできる。けれどそこはあまりにも危険なので一般住居には使われず、大抵は畑になる。まあ、栽培に向いた区画も限られているし、一番効率的な使い方だと思うけど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る