篝火
清野勝寛
本文
篝火
蛍光灯がチカチカとちらつき始めて、思わず舌打ちが出る。新しいものを買いに行かなければならない。六畳一間のこの空間だけが、俺の世界。俺の居場所。俺そのものであると言っても過言ではないだろう。けれど、それは非常に不安定であやふやで曖昧模糊としたものであることも事実だった。例えば、飲食物がなくなった時、頭が痒くて仕方なくなった時、ゴミで部屋が溢れ返った時。今回のように、設備に異常があった時。電気、ネット、水道、ガス。それらの不備や不調を改善するために、俺はこの世界を一度壊さなければならなくなる。それが堪らなく嫌だった。
俺は人が嫌いだった。自宅にいながらでもビジネスが出来る時代、この空間で、俺は日々を食い潰すための金を稼ぎ、ただ生き長らえるだけの惰性とも言える日々を、淡々と過ごしている。以上が俺の全て。それだけで完結する世界。それだけで良い世界。
蛍光灯を消すと、ノートパソコンのバックライトが眼球を焼く。闇の中にある光は異端だ、それを俺に報せるために、光は俺の目に届いた。バックライトを弱め、目を細めながら、メールを確認する。新着、一件の表示がある。特に深く考えずにメールを開く。題名にはこう書かれてあった。
「誰にも知られることなく妹を殺すにはどうすれば良いですか」
掲示板にでも書き込めば良いだろう。率直にそう思った。まぁ仕事になるかもしれない、一応目を通そう。詳細を開くと、「長文となることをお許しください。ですが、これは全て真実であり、僕は真剣であるということをご理解ください」から始まる長文が書かれていた。
――
僕の父と母はもういません。僕と妹、二人に乱暴なことばかりする、ろくでもない両親でした。二人の仲も悪かったです。ある日、二人はいつも以上に激しい言い争いをしていました。僕と妹はいつものように寝室のクローゼットの中に隠れながら耳を塞ぎ目を閉じて、音が聞こえなくなるのを待っていました。
どれくらいそうしていたでしょうか。音が聞こえなくなったので、僕は妹を残し、両親のいるリビングを恐る恐る確認しに行きました。すると、床にうつ伏せて動かなくなっている父と、キッチンで何かを洗っている母の姿が見えました。母は無表情でしたが、気迫というか、纏っている雰囲気がいつものものと違っていて、何故だか僕は、この場所にいてはいけない、逃げなければいけないと思ったのです。以前何度か逃げ出したこともあったのですが、所詮子どもの足、その度捕まっては、酷い目にあっていました。けれど、この時は、この時ばかりは違う。捕まってはいけない。逃げ出さなければいけない。そう感じてしまうほど、その時の母は恐ろしい表情をしていて、まるで何かに取り憑かれてしまったかのような、人間ではない何か恐ろしいものに変わってしまったかのような、そんな気がしたのです。
僕は呼吸を止めて、ゆっくりと妹のいる部屋まで戻ろうとしました。しかし、その途中で床がミシ、と大きく軋む音がして、母が顔を上げこちらを向きました。目が合った母の目は、これまで見てきたどんなものよりも恐ろしく、僕は動けませんでした。
「ああ、そこにいたの」
母はそう言って流し場の水を止め、僕の方へ向かってきます。右手には、鋭利な包丁を持っていました。
「ちょうど、お迎えに行こうと思っていたの。さぁ、いきましょう」
走り出したいのに、蛇に睨まれた蛙のように体は動かない。母はゆっくりと僕のところまで来たところで、僕の肩を左手で押さえつけたまま、右手に持った包丁を振りかぶりました。
そこでようやく動くようになった僕は母を思いきり突き飛ばしました。今まで反抗などしたことがなかったので分かりませんでしたが、母はとても軽く飛んでいきました。母は包丁を手放し、飛ばされた拍子に頭でもぶつけたのか呻き声を上げています。隙だらけでした。僕は咄嗟に落ちている包丁を拾い、それを母に、思いきり突き立てました。刃先はあっさりと母の服を突き破り皮膚を突き破り、骨を突き破り、内蔵を切り裂きました。その時の母の絶叫が、今も耳にこびり付いて離れません。人は、耐えがたい苦痛を与えられた時、悶え苦しんだり耐えるのではなく、それによって喉が潰れようが口の端が切れようがお構いなしに、ひたすらに叫ぶのだと、その時知りました。
やがて、母は動かなくなりました。僕は母の上から飛び退いて、じっと母を見続けます。もしかしたら突然動き出して、また僕を殺そうとしてくるのではないか、そんな気がしたからです。
ふと、視線を感じました。見ると、妹が僕の方をじっと見ているのです。その目から感情を読み取ることは出来ませんでした。ただ、動かなくなった母ではなく、じっと僕だけを見続けているのです。僕は妹の手を取り、二人で家を出て近くにいる大人に助けを求めました。
それから、警察に保護された後、親戚の家に住むことになりました。調べれば直ぐに、母が父を殺し、僕が母を殺したことは分かる筈なのですが、僕と妹は普段の生活について少し質問をされただけで、それ以降は何もありませんでした。ただ、妹は元々口数の少ない子でしたが、その日以降、妹は誰に対しても口を開かなくなってしまいました。首を縦に振ったり横に振ったりして応答はするのですが、口を開くことはなくなりました。
長々と自分の事情ばかりお話してすみません。ここからがようやく本題なのです。
あの日以降、僕と妹は心優しい叔父叔母に養ってもらっていて、普通の生活が出来るようになりました。それは僕らにとって、最良の幸福でした。けれど、時折妹が僕のことをじっと睨むでもなくただぼうっと見てくることがあるのです。妹は僕が母を殺したところを見ていて、それに対して何か思うところがあるのではないか。そう考えました。
ある時、僕は妹に「あの日のことを覚えているか」と聞いてみました。妹は首を縦に振ります。「何か見たか」と問うと、また首を縦に振ります。僕は自分の予想が当たっているのではと恐ろしくなりつつも、もう一つ、妹に聞きました。「それを誰かにいうつもりはあるか」妹は首を傾げた後、首を横に大きく振りました。それから、「じゆうちょう」と書かれたノートを開き、クレヨンを握りしめ、覚えたばかりのひらがなを使ってこう書きました。
「にいちゃんのうえにいた おおきなくろいかいじゅうをみてたの」
何を言っているのか、理解出来ませんでした。そして、首を振る以外にも意思の疎通が出来ることを知った僕は詳しく妹に聞いてみました。
「いまわ わたしのくちのなかにすんでるよ こわがりだから くちをひらくとないちゃうの」
僕は、直ぐに妹がおかしくなってしまったのだと確信しました。そして、両親に乱暴されていた時より、母親を殺してしまった時よりも、もっとずっと、底なし沼のような悲しみが僕を襲いました。悲しくて悲しくて、僕は妹を抱きしめました。そして、妹を殺すことを決意したのです。これ以上、悲しい思いをして欲しくない。いや、きっと妹には、自分が悲しい存在であることなど、もうわからないのでしょう。だから、楽にしてやりたいのです。ただ一方で、叔父叔母を悲しませたくないという気持ちもあり、また僕自身のこれからの人生のことを考えると、妹を殺したのが僕であるということは、誰にも知られてはならないことだと思います。どうか知恵をお貸しください。よろしくお願い致します。
――
嘘である。ここに書かれたことには、たくさんの嘘が織り交ぜられている。それは直ぐに分かった。
幼い兄妹である理由。
両親を殺した理由。
そして、妹を殺したい理由。
誰を殺そうが、殺しを隠そうが、罪は罪だ。俺は犯罪の片棒を担ぐつもりはない。だから、俺の知らないところで、殺したい人間を勝手に殺せばいい。返信の文章はこうだ。
「貴方が本当に欲しいものは、多分貴方が何をやっても、どうあがいても手に入りません。なので、選択肢は二つ。諦めるか、無駄だと分かってても欲しいもののためにあがくか。ただ私には、今の貴方で十分に幸福であると思えるのです。だからどうか、短絡的な行動はしないで欲しいと願います。暗闇の中にある篝火を、自らの手で消してしまう必要はないのです。最後に、ご期待に沿えず、申し訳ありませんでした」
「おおきなくろいかいじゅう、ねぇ……」
メールを打ち終えた後、天井を仰ぎながら呟く。そこまで自分のことを理解してくれる人間がいるというのは、どんな気持ちなのだろう。口を開くと出ていってしまうというそれは、何故妹の口の中を選んだのだろう。
そこまで考えて、蛍光灯の買い出しに行かなければいけないことを思い出した。コンビニにあると良いのだが。そこらに転がっているジャケットを適当に羽織り、立て付けの悪いドアを開き外へ向かう。
今日みたいな月の日は、「くろいかいじゅう」が良く見えるだろう。
篝火 清野勝寛 @seino_katsuhiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます