用心棒

浅香 広泰

用心棒

 赤坂儀三郎は四方の襖が閉められた薄暗い部屋で瞑目しながら、いささか暗澹たる心持でいた。

 部屋の中には行灯がただ一つあり、中の炎がゆらゆらと揺れて、質素な表具の襖に儀三郎の影を大きく映し出している。

 ここは中老・柴村の屋敷である。主の柴村弥左衛門は藩内でも清廉派で知られ、次期藩主と目される嫡男新明丸の守役も仰せつかっていると聞く。その頑固慇懃な老いた風貌を思い出しながら、儀三郎はその柴村が現れるのを待っている。

 やがて柴村は、一人の男を伴って現れた。連れてこられた男はまだ若いが、双眸には鋭いものがある。儀三郎は黙って平伏した。

「夜分にすまぬな。飯は食ったか」

「は」

 柴村からの呼び出しがあったのは宵五つを過ぎるか過ぎないかという頃である。既に夕餉を終え、書見ののち床に就こうかというところで、静かに訪いを入れる声がした。柴村の使いだというその老僕は、これからすぐに屋敷まで来て欲しいという伝言を持ってきていた。

 同じくまだ起きていた母には先に寝るよう伝え、身支度を整えて使いの老僕と共に柴村屋敷の門をくぐったのはつい先ほどのことである。

「時がない故、手短に申し伝える。そなたには江戸へ行ってもらいたい」

「なんと」

 その唐突な言葉に思わず儀三郎は顔を上げた。柴村の様子に冗談を口にした風はない。

「これなるは殿の信頼を得ておる祐筆の石川仁平じゃ。この石川を守って、出府されている殿のところまで速やかに送り届けて欲しい」

 石川と呼ばれた男は静かに手をつき、お頼み申し上げる、と目を伏せた。儀三郎には事情が分からない。

「恐れながら、お尋ねしたきことがござります」

「申してみよ」

 儀三郎の問いかけに、時がないと言いつつも柴村中老は苛立った様子ではなかった。意を決して、儀三郎は続けた。

「まず、何故それがしなのかがわかりませぬ」

「それか。お主、蔵田道場では次席と聞いておる。それに見たところ、沼田派に与しておるわけでもない」

 柴村は事も無げに言ってのけ、その様子に儀三郎はいよいよ暗澹たるものが差し迫ってくるのを感じていた。

 城下にある蔵田道場は真典流という剣を教えている。道場主である蔵田真典は江戸で修業した後も諸国を巡って腕を磨き、やがてこの城下に道場を開いた。真典がまだ四十になる前のことである。

 尚武の気風を持つ藩主伊予守はそんな真典を気に入り、たびたび他流を交えて御前試合の場を設けていた。儀三郎はその蔵田道場に年少の頃より通っていて、師匠である真典の覚えも良かった。

 しかし儀三郎にとって、今の中老の言葉にはもっと大きなことが含まれていた。

「沼田派に与していないということが肝でござりまするか」

 儀三郎の問いかけに、柴村は深く頷いた。

 沼田派というのは、城代家老の沼田志津摩を首魁とする藩内の一派のことである。沼田家老の妹が藩主伊予守の側室お清の方であり、彼女が生んだ源次郎丸は嫡男新明丸の異母弟にあたる。

 沼田家老はその源次郎丸をこそ次期藩主にと強く推しているのである。

 儀三郎の胸中にある暗い不安な気持ちを助長するかの如く、このことは伏せてあったのだが、と前置きしたうえで、柴村は言葉をつづけた。

「つい先日、新明丸様が全納寺へと参られたときのことだ。前藩主肥前守様の墓参りを済ませ、ご休息ののちに帰城されることとなっておったのだが、その際に出された饅頭に毒が入っておった」

「なんと!?」

 思わず儀三郎は驚きの声を上げた。

「それでは新明丸様は……」

「無事じゃ。毒見をした用人はその場で死んでしもうたがな」

 ふう、と小さく息を溜め、柴村はなおも話を続ける。

「下手人は寺男の中に紛れておったが、儂らが追求する前に自らも同じ毒饅頭で口を噤みおった。ただ、同行した供回りの中にそやつの顔を知っている者があったのだ」

「それで、沼田様の差し金だということですか」

「おそらく、な。だがその下手人、材木問屋井筒屋の下男で小助という名であることはわかったのだが、ご家老とのつながりが掴めなかった。しかしここに来て、徒目付の飯田が井筒屋より沼田家老へ渡っている金子の書付を入手したらしいということがわかったのじゃ」

 儀三郎の顔が曇る。徒目付の飯田は儀三郎の剣友で、蔵田道場で腕を競った仲である。その飯田は三日前、役宅付近の路上で何者かに斬られ、冷たくなっているところを発見されている。

 察するに柴村中老は、その飯田と儀三郎との仲も知っているのだろう。

「飯田は己の役目をよく心得ておった。その書付が刺客に奪われぬよう、あらかじめ帯と一緒に腰に巻いておったのじゃ。刺客は飯田の死体からついにその書付を見つけられず、それが儂の手元に大目付から届いたのはつい先刻のことだ」

 説明する柴村の横で、祐筆の石川がひどく傷んだ紙切れを懐から取り出す。ところどころ斑点が残っているそれは、読みにくくはあるが確かに井筒屋から沼田家老へと渡された金子の証文であった。

 斑点として残った剣友の血に、儀三郎は何かこみあげてくるものを感じていた。

(この俺に……)

 役目を引き継げ、と飯田が訴えかけてくるような錯覚を覚え、儀三郎は緩く頭を振った。

「事は御家の大事、騒ぎになるようなことは避けねばならぬ。故に儂はこの石川に書付を持たせて殿のご判断を仰ぐことにした。殿のご帰国まではあと四月もない。今を除けば、ご家老が帰国した殿に何か吹き込まぬとも限らぬのだ。これは飯田への弔いともなろう。行ってはくれぬか」

 柴村中老の真摯な眼差しが儀三郎を見据える。儀三郎にはもともと、藩内の派閥争いにかかわるつもりなどなかった。今宵の呼び出しについても、まだ友人の喪も明け切らぬうちからといささか迷惑に思っていたぐらいである。

 しかし、藩主嫡男の命が狙われるところまで来ているうえに、ほかならぬその相手こそが飯田の命を奪った者たちであるというならば。

「承知いたしましてござりまする」

 儀三郎は手をつき、頭を下げた。ほかの何者にも、この役目を譲るつもりはない。

 ここへ来たときに抱いていた暗澹たるものは鳴りを潜め、代わりにひしひしと闘志のようなものが儀三郎の心には浮かんでいた。


 その夜のうちに城下を抜け出した儀三郎と祐筆の石川は、まだ暗い町を抜けて両脇に田畑の連なる街道へと差し掛かっていた。幸い、季節はまだ寒くない頃である。これから峠に差し掛かる時分にはもう陽が昇っていることだろう。

「家のことは心配するな。お母上には人をやって伝えさせる。しばらく病で寝ていることにいたそう」

 そう言って路銀となる十両を手渡してくれた柴村中老は、こうも続けた。

「昼のうちに早飛脚を仕立てて、江戸屋敷の岸井には事情を知らせるようにしてある。そなたらへ迎えを寄こすよう頼んでおいたから、それまでの辛抱じゃ」

 岸井とは、江戸上屋敷にいる側用人岸井善兵衛のことである。儀三郎は会ったことがないが、石川は何度か江戸へ出府した経験があり、岸井のこともよく知っていると言っていた。

 その石川もさすがにここまで急ぎの旅をしたことはないらしく、道が峠に差し掛かったところでだんだん息を切らせ始めていた。

「大事ござらぬか」

 儀三郎が声をかけると、石川はか細い声で問題ないと答えた。しかし、双眸の鋭さこそ保っているものの、その顔には濃い疲労の色が浮かんでいる。

(寝ずにそのまま……)

 柴村中老の屋敷からここまで休みなく急ぎ足で歩いてきたのである。日頃道場で鍛えている儀三郎であっても、決して平気なわけではない。

 どこか休める場所はないか、と辺りを見回したところで、不意に儀三郎は殺気を感じて身をひねりながら、石川を突き飛ばした。

 木陰から飛び出してきた男の剣が、もんどりうって転んだ石川の脇で空を切る。

 その一撃を皮切りに、他の木陰からも続々と抜き身を下げた男たちが現れた。黒い布で顔を覆っており、その表情を伺いすることはできない。

「石川殿!」

 儀三郎は石川に声をかけながら刀を抜いた。全部で七人もの刺客である。儀三郎の腕を以てしても守り切れるかどうかは心許なかった。

 黒覆面の男たちは一言も発しないままに立ち向かってくる。儀三郎は石川を道祖神の影に押し込みながら一太刀を受け止め、荒々しく弾き返した。

「貴公ら、ご家老の手の者か」

 問いかけてみるも無言である。そしてそれこそが、答えでもあった。儀三郎は腹をくくるほかないと知り、手にした刀を握りしめ直すと、落ち着いて正眼に構えた。

 真典流の心得はまずその打ち込みにある。必要最小限の動きで間合いを掴み、上から振り下ろすのではなく前から押し斬ることにこそ一念を置く流派である。基本にして神髄の型でもあった。

 道は狭く、同時に七人もの人間がわずかな数の相手に斬りかかれるほどのゆとりはない。自然、儀三郎が真正面に対峙するのは精々一人か二人となる。背後に石川をかばったまま、儀三郎はするすると敵のいない方向へ後ろ下がりに歩を進めた。

 と、そこへ一人が鮮烈な気合とともに打ちかかってくる。儀三郎は落ち着いてその刀を受け、跳ね上げると同時に前へ一歩踏み出した。

「ぎゃっ」

 肩を鋭く切り裂かれた刺客が短い悲鳴を上げる。それをまるで合図とするかのように、また別の覆面男が飛びかかってきた。今度は儀三郎も後ろへ飛び退り、続く第二撃を放とうとする刺客の腕を切りつけた。

「ぐうっ」

 低く呻いた刺客がその場に刀をぽとりと落とし、早くも濃い色の血が流れ始めた右腕を押さえて蹲る。だが儀三郎にはそこへとどめを刺す余裕などない。

 残る五人と対峙しながら、儀三郎は石川をかばって立ちふさがる。肩越しに様子を見てみれば、石川は顔面蒼白となりながら肩を震わせていた。どうやら剣の腕はからきしのようである。

(これは少々……)

 厄介な旅路になるかも知れない、と思った。無論、この場を切り抜けられたらの話である。柴村中老が護衛をつけるのは至極当然のことだったのだ。

 儀三郎は正眼の構えを崩さないまま、刺客たちが打ちかかって来るのを待った。この状況では、こちらから攻勢に出ることは難しい。幸い、地の利は得られている。彼らは儀三郎に対し、正面からしか攻めかかれないのである。

 するとその時、遠くから荷車を引く音が聞こえてきた。誰かがこの街道を使って荷を運ぼうとするものらしい。刺客たちの様子に動揺が見られ、儀三郎はしめたと思った。

 果たして、刺客たちの頭目らしき人物が踵を返すと、彼らはそれに合わせて一目散に逃げだした。人に見られるのを嫌ったものと思える。儀三郎は刀を握る手を緩め、大きく安堵の息を吐いた。

「大事ござらぬか」

 後ろの石川に声をかけながら振り返ると、果たしてこの剣も握れぬ祐筆はその場にへたり込んでいた。その石川の向こう、江戸へと続く道の先から、大きな荷車を引いた百姓が進んでくるのが見える。

 あれに助けられたのだ、と、儀三郎は心の中で首を垂れた。


 すっかり足腰の立たなくなった石川を背負い、儀三郎は荷車の百姓に教えられた荒れ寺に辿り着くと、彼を比較的綺麗な板の間に座らせたあと、その傍らに腰を下ろした。

 まだまだ陽は天頂へと差し掛かる頃である。本当ならば明るいうちにもっと人通りの多いところまで進みたかったが、石川の顔色はまだ良くはない。

(それにしても……)

 と、儀三郎は思った。刺客の襲撃が早すぎるのである。

 闇夜に紛れて城下を抜け出したはずだが、そのことを察知されていたということは、あらかじめ柴村中老の動きを読んでいた者がいたということになる。そもそも、柴村中老が飯田の掴んだ書付を手に入れたということが相手方に漏れていたのだとするならば、中老自身も危ないのではないだろうか。

 相手は自藩の者を躊躇なく切り捨てるどころか、次期藩主となる新明丸の命すら狙う者たちなのである。

(ご無事であってくれれば良いが……)

 そこに赤坂家が守られなくなる危険性を思う打算がないわけでもなかったが、それよりも儀三郎は、噂通りの清廉さを持つ柴村という人物のことを好意的に見始めていた。

 実際に会ってみて思ったことだが、柴村は下級藩士に過ぎない赤坂儀三郎という男を決して軽んじないどころか、志半ばで倒れた友である飯田のことも悼んでくれていた。そこに儀三郎は、ある種の信念のようなものを感じつつあったのである。

 自分は自分で、その期待に応えねばならないだろう、と儀三郎は気持ちを新たにした。何としても、この予想外な貧弱さを持つ祐筆を江戸屋敷まで届けねば、と考えながら石川を見た儀三郎はしかし、おや、と思った。

「相済まぬ、赤坂殿。今少し休ませてくださらぬか」

 自分を見ていると気づいた石川が情けないことを言いながら、懐から竹の水筒を取り出して水を口に含んだ。儀三郎はどうも、その石川が自らの掌を見られないように隠したように思えてならなかった。

「いや、陽のあるうちは歩きましょう。この先には宿場もあります。そこでなら、ここよりもゆっくり休めますぞ」

 言って、儀三郎は立ち上がった。何はともあれ、急ぐに越したことはない。いざとなれば石川を負ぶってでも宿場まで辿り着く気分でいる。

 しかし、と石川は食い下がる様子を見せたが、儀三郎の立つ姿を見て諦めたか、やがて重い腰を上げた。

 そのまま二人は峠の街道を抜け、人通りの多いところまで辿り着く。

 そこはもう今まで歩いてきた支街道とは違い、五街道の一つと言われる中山道である。昼の間は人通りの動きに合わせて進み、夜は宿場で旅籠を使えば、刺客が襲い掛かってくる危険性はぐっと低くなるだろう。

「何とかなりそうでござるな」

 疲労の抜け切らない顔で石川が呟いた。儀三郎はそれに頷きながらも、荒れ寺で胸中に芽生えた不信を拭えずにいる。

 それでも儀三郎の懸念とは裏腹に旅程は恙なく進み、あと二日も歩けば江戸というところまでやってきた。既に武蔵国である。

 国元の支街道でしか襲撃がなかったのは、追手が諦めたということだろうか。儀三郎にはどうしてもそうは思えなかった。それ故に、江戸へ近づけば近づくほど、彼の疑念は膨らみつつあった。

 それでも急ぐ旅路である。儀三郎はここから、宿場で休みをとらないまま江戸へ一気に駆け込む気になっていた。幸い、初めての長旅であっても儀三郎の足取りは意外に軽い。こんなところに日々の鍛錬が響いたか、といささかの感動すら覚えたほどである。あとは石川の体力だけが懸念材料であったが、無理を通してでもここは歩き続けてもらうつもりだった。

 上尾宿、浦和宿を通り過ぎたところで、果たして石川がそろそろ休みたいと言い出した。

「もう江戸は目と鼻の先でござる。慌てる必要はないのではござらぬか」

 石川はそう言って、わざとらしくその場へ座り込んで見せた。その様子が、儀三郎の疑念をますます強くさせる。

「いや、着くならば早いほうが良い。この辺りは道が険しいこともない。目と鼻の先なればこそ、気も足も緩めるのは如何なものかと存ずる」

 儀三郎はそう言って、石川に立つように促した。

 彼の脳裏には、あの荒れ寺でちらと見た石川の掌が浮かんでいた。手の内側に見えたたこ、あれは儀三郎にも見覚えのあるものだ。最初はひたすら書き物をする祐筆なればこそ、筆でたこができたものとも思えた。しかしあれは、やはり違うのだ。

「さあ、立たれよ。それとも誰かを待っておられるのか」

 あえて儀三郎は、ここでその疑念をぶつけてみる気になった。岸井用人に会う前に、不安を払拭しておきたいという思いがあった。

「何を申す。江戸屋敷からの迎えが来てくれる手筈ではないか。その者らを待ってからでも遅くはあるまい」

 果たして、石川は自然に開き直った。その様子が太々しく見え、儀三郎は石川の襟首を掴み上げてやろうと手を伸ばす。

 そこへ、幾人かの男たちが声を出しながら駆け寄ってきた。

「来た! 来たぞ!」

 石川が意外なほど笑って手を振り返す。駆け寄ってきた男たちはどうやら、江戸藩邸の者たちらしかった。

「石川殿、お久しゅうござる。道中難儀でありましたでしょうな」

 男たちの先頭に立つ者が、石川に手を差し伸べながら挨拶した。

「紹介しよう。拙者をここまで護衛してくれた、馬廻組の赤坂儀三郎じゃ」

 手を借りて身を起こしながら、石川が儀三郎を示す。

「これはこれは。それがし、岸井様に命ぜられて石川殿とそこもとを迎えに参った、御納戸役の寺崎甚内と申す。貴殿の剣名は江戸屋敷にも届いておりますぞ」

 寺崎と名乗った男は愛想のいい顔で儀三郎に笑いかけると、ささ参りましょう、と道を指し示した。

 儀三郎は身を固くした。この場には、どうも形容しがたい居心地の悪さを感じるのである。今度は逆にその場から歩こうとしない儀三郎に、石川が妙に軽薄な笑みを投げかけてくる。

「いかがなされた、赤坂殿。歩けぬほど疲れたか」

 そう石川がかけた言葉など、儀三郎の耳から耳へと通り抜けていった。それよりも儀三郎は、自分たちをいつの間にか囲むように立つ、江戸藩邸から来たという男たちの動きに注意を払っていた。彼らの動きにはどこか張り詰めたものがある。まるでその身の内に沸き立つ鋭い殺気を隠そうとしているかのように静かなのである。

 儀三郎はゆるゆると足を肩幅に開き、左手で腰の鞘を押さえ、右手の力を抜いた。

 ざわり、と、気が揺らめいた。

 儀三郎は身体の動くまま、その場に翻ると同時に剣を抜いた。

「ぐえっ」

 短く叫んだ男がたたらを踏んでその場へと転がるように倒れこむ。背後から儀三郎を襲ったはいいが、抜きざまの刀に胴を斬られたのである。それを皮切りに、殺気がまるで爆発するかのような広がりを見せた。

 儀三郎を囲む男たちはみな一様に抜刀し、退路を断つように儀三郎の周囲に一定の距離を保ってじりじりと動いている。正面には寺崎と名乗った男が、そしてその寺崎の後ろに石川が立っていた。

「……なぜ気づいた?」

 短く寺崎が問いかけてくる。その声は、先ほどまでの愛想のいい様子とは打って変わって低い。

 石川が狙われている様子はないことから、儀三郎は確信めいたものを得ていた。最初から、この男は柴村中老の敵だったのだ。

 儀三郎は答えなかった。この刺客たちは江戸藩邸の者ではない。先ほど最初に駆け寄ってきたとき、寺崎は右手を上げかけてすぐに左手を上げ直していた。だがそんなどこかで負った右腕の傷のことなど、儀三郎にはもうどうでもいい。今は少しでも、どこか有利な地形へと身を置きたかった。先ほどはうまく反応できたが、そう何度も死角である背後からの攻撃を防げるものではない。

 なるべく隙を見せないよう摺り足でじりじりと動きながら、儀三郎は少しずつ寺崎への間合いを詰める。だがそれに合わせて周囲の殺気もまた動き、少しずつ獲物を追い詰めていく。

 儀三郎の背筋に冷たいものが走った。見たところ、この刺客たちの誰もがそれなりに腕に覚えがあるものらしい。流派はおそらく、国元にある蔵田道場とは別の、一刀流立花右門道場か。

 到底気の抜ける相手ではない。しかもすっかり取り囲まれているのであるから、もはや儀三郎の命運は決したも同然の状況であった。一か八か、捨て身の技で以て血路を拓いたものか……と考えた時である。

 ひゅっ、という風を切る音がして、儀三郎の左側に詰めていた男がわっと叫んだ。どこからともなく飛んできた礫が、男の頭に当たったのだ。

 その隙を見逃す儀三郎ではなかった。すぐさまよろめく男に斬りかかると、全力で駆けて囲みを突破する。追いすがる男たちに向き直りながらも、儀三郎はようやく背後に壁を得た。商家とみられる建物を囲む塀を使い、刺客たちを正面だけに見据える。

「あ~あ、たった一人によってたかって見ちゃいらんないねぇ」

 そんな緊張した場にあって、気の抜けるような明るい声をかけてきた者がいる。

 それは町人態の若い男だった。右手には礫をもてあそんでいて、背後にはもう一人、刀を帯びた人物を連れている。

「なんだ、貴様は」

 寺崎が不機嫌そうに叫んだ。先ほど礫を投げた男であることは明白だった。自分たちの仕事に水を差され、ともすれば報復に斬り捨ててやろうとせんばかりに身構える。

 しかし町人態の男は、そんな殺気を向けられても飄々としていた。

「あっしらはね、お宅の藩の岸井様に頼まれて、そちらのお方を迎えに来たんですよ」

 言って石川を指し示す。

「でもどーも様子がおかしいもんだから、さっきからずっと見てたんですがね。お侍さん、あんたハメられましたねぇ!」

 声をかけられ、儀三郎は改めて町人態の男のほうへと向き直った。

「助力かたじけないが、さがれ! ここは危険だ、巻き込まれるぞ!」

 そう叫ぶ端からまた別の男に斬りかかられ、慌てて儀三郎が剣で受け止める。いくら多少位置取りが有利になったところで、多勢に無勢は変わらないのである。このままでは、迎えに来たという町人態の男を守るどころか、自分の身すら危うい。

「へッ、巻き込まれるだって? 冗談じゃない、こっちゃもう巻き込まれてんですよ。岸井様に前金もらっちまってますからね」

 不思議なほど、その町人態の男は動じなかった。彼は背後に引き連れた人物にも声をかけている。

「おい蓮、やっちまってくれよ!」

 蓮と呼ばれた人物が、前に出てくる。白い着流し姿で腰には大刀一本のみ。顔を隠す三度笠を取り払った下から現れたのは、山吹色の髪を尼削ぎに揃えた、色の白い女の顔だった。

 それを見ていた男たちが気色ばむ。

「異人の女が侍の格好だと!?」

 それが寺崎の最期の言葉だった。

 一瞬、ほんの刹那に閃いたと見る間に、蓮と呼ばれた女は腰の大刀を抜き、すでに振り終わった残心のまま、寺崎の脇を通り抜けていた。正直なところ、その太刀筋は儀三郎にとっても目で追うのがやっとである。

 だが、これで切り抜けられる。

「とうッ!」

 気合を発し、傍らの刺客を胴薙ぎに斬る。浮足立った刺客たちは改めて儀三郎を囲み直そうとするものの、儀三郎をも上回ると思しき尋常でない技を持つ蓮の存在により、思ったように動けないでいるようだ。

 その隙を見逃してやれるほど、今の儀三郎に余裕はない。剣を受ける技に揺らぎがあるその刺客の肩口を深々と斬り下ろして、次に斬りかかってきた剣を儀三郎は跳ね上げざまに鋭く突いた。そのままぐいぐいと押し進んで刺客たちの陣形を乱し、抜きざまに振るってまた一人を斬り倒す。

 その間にも、蓮は閃くがままに三人の刺客を斬り捨てていた。気づけば残っているのはあと一人である。

「きええぇぇぇぇぇっ!」

 残りの一人に儀三郎の意識が向いた瞬間を狙って、怒涛のような殺気が背後から襲い掛かってくる。儀三郎はその場で身を捻り、ほとんど相手を見ぬままに剣を振り下ろした。確かな手ごたえと共に、右肩に痛みが走る。

「うっ」

 背後から斬りかかってきた男が倒れると同時に、儀三郎はその場に膝をついた。全身が総毛立つような感覚が、今もまだ残っている。それほどまでに恐ろしく感じた剣は確かに、儀三郎の右肩を浅く斬りつけていた。

「やはり……」

 倒れ伏している男の顔を見下ろしながら、儀三郎は肩で息を激しくしていた。見間違いではなかった。あの荒れ寺で見た掌にあったたこ、あれは剣の修練を積んだ者の手だ。左手の袖で額の汗を拭い、ふと顔を上げると、蓮が最後の刺客を悠々と斬り捨てているところだった。

「危ないとこでござんしたね」

 凄まじい斬り合いの一幕を落ち着いて眺めていた町人態の男が、そう言葉を投げかけてくる。

「かたじけない。命拾いをした」

 刀を腰に収め、立ち上がって頭を下げる。そんな殊勝な儀三郎に様子に、男は笑って言った。

「いえいえ、礼ならあっしよりも蓮のやつに言ってやってくださいましよ」

 その蓮もまた、既に刀を収めて三度笠をかぶり直していた。儀三郎はその白い姿に向かっても、深々と頭を下げた。


 五郎佐と名乗った町人態の男と蓮を連れ、儀三郎は改めて江戸へ向かって歩いていた。

 道すがら聞いた話では、五郎佐は江戸で失せもの屋を商っており、しばしば岸井用人からも仕事を頼まれることがあるのだという。国元からの早飛脚が持ってきた柴村中老の書状を読んだ岸井は、石川と儀三郎の迎えを寄こすにあたって、藩邸の者は動かせないと判断したのだ。

 ずっと国元にいる柴村中老と違い、岸井用人は江戸藩邸内の中にも沼田派が潜んでいることを突き止めていた。迂闊に人員を動かせば、それは沼田派に動きを察知されることになると考えたのである。そこで、日頃から縁のある五郎佐に、誰か剣の腕の立つ知り合いはいないかと訊いたのだ。

「こう見えてもあっしは顔が広いんですよ。ちょうど生計の道にあぶれてた蓮がいたんで、声をかけて一緒に迎えに来たってわけです」

 五郎佐は言いながら胸を張ったものである。

 一方、話に上った蓮はと言えば、特に話に加わるでもなく無言でてくてく歩いている。その静かな様子は何か思いつめているようでもあり、あるいは何も考えずただ感じたまま動いているようでもあった。まるで修行僧か何かのようである。

 この二人の道連れのおかげもあり、儀三郎は迷わず江戸藩邸へと辿り着くことが出来た。

「それじゃ、あっしらはこれで」

 儀三郎を岸井用人に引き合わせた二人は、あっさりと藩邸を去っていった。

 見送った後、儀三郎は岸井と共に藩主伊予守と面会し、石川の死体から取り上げた書付を披露した。。

「赤坂儀三郎。話は内々にこの岸井より聞いておる。大儀であった」

 伊予守は冬が来る前に帰国するという。これで、沼田派は一斉に大打撃を被ることだろう。

 役目を終え、一足先に帰路に就く儀三郎の胸には、かつて剣を交わした友の顔があった。

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用心棒 浅香 広泰 @hiroyasu_asaka

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