勝って兜の緒を締めよ
雑賀偉太郎
勝って兜の緒を締めよ
勝って兜の緒を締めよ、とは全国で広く知られたことわざである。その意味するところは、成功しても気を緩めてはならぬという戒めの言葉であるが、こと吉田村においてはそれとはずいぶんと違った意味合いで使われている。
当地ではこのことわざを「驕れる者久しからず」であるとか「悪の栄えた試しなし」であるとか、何であれば「無様な油断を晒すような者はすべからく悪逆の徒である」などのような言葉として用いるのである。
世に広く知られたことわざが、さして変哲もない小さな山村で、なぜかような意味へと変ずるに至ったかを説明するためには、その昔この村で起きたある事件について語らねばならない。
戦国の機運がにわかに立ち上った時代の話である。
話の主役となる者は、甚五郎と名乗る農民出の男で、この時、足軽としてとある大名に従って戦に参加していた。
人となりについては粗野で短慮、およそ人に対する情を持たぬという事で、当時の人々も、のちの世の研究者も、評を一致させるところである。腕っぷしのほどはと言えば、同時代の資料を手繰るに「武者働きのほど、二人力にて……」とあるので、まずはそれなりのものであったのだろう。
さて、この甚五郎、人品はともあれ天運についてはずいぶんと良いものを持って生まれたらしい。
勇んで臨んだ初陣で、生来の無鉄砲さのままに猪突猛進、敵陣に突き進んでいったところ、運よく敵方の大将が、彼の目の前でどさりと馬から転げ落ちて倒れた。
そんな馬鹿げたことがと呆れる諸氏も多かろうと思うが、意外なことに、勇猛果敢に切り込んだ騎馬武者が、ふとした拍子に落馬したところを槍で刺されて討ち取られるなどは、当時ままある光景であったそうだ。とはいえ、甚五郎の場合の、陣中で敵を待ち構えておった側が落馬して討ち取られるとは、やはり事例として珍しい部類であったと言ってよい。
どうあれ、当の甚五郎にとってはしめたもの。彼はこれを見て素早く槍で一突き加えて息の根を止め、まんまと己の手柄にせしめた。
この手柄によって甚五郎は、大名から直々に感状を受けて武士の身分に取り立てられ、知行地を宛がわれる大出世とあいなった。
さて、当時はまだ戦国の世が始まったばかりであったので、農民身分が、わずかばかりとはいえ所領を得るまでに成り上がるなどはまず異例。
甚五郎はこれを己が傑物たる証左と信じ込み、大いに驕った。あと少し時代が下れば、彼と同じような身分から成り上がった者の話など、さして珍しいものでもなくなり、つまるところこの荒くれ者は、一番初めの強運者にすぎないのであるが、幸か不幸か、甚五郎はそれに気が付けるほどの長生きはできなかった。
所領地から姓を取り、吉田甚五郎と名乗りを変えた彼の施す所領の統治は、一言で言って悪政であった。
家来に引き上げた旧来の悪友どもと、だんびらをさげて村をねり歩き、野良仕事に精を出す百姓の眼前に白刃をちらつかせて冷やかすなどは日常茶飯事。あれこれと難癖をつけて、戯れに領民を斬り捨てるなどの悪行にもしばしばおよんだ。
そんな有様であったので、甚五郎の悪評はまたたく間に近隣へと知れ渡った。
さて、甚五郎が今の身分に取り立てられるにあたっては、家老多屋間監物の家臣に組み込まれていた。
であるから、当然のことながら甚五郎の悪評はほどなく上役である監物も聞き及ぶ所となった。
この多屋間監物なるは、弓を取れば当代一との誉れも高く、甚五郎などとは比べるべくもない本物の傑物。気質といえばこれまた甚五郎とは真逆の、温厚で知られた人物で、その人柄を見込まれて甚五郎のごとき粗暴者を押し付けられたフシすらあるほどだ。
監物は甚五郎に、行状をたしなめる書状を再三送るものの、一向になりをひそめる気配もなく、それどころかむしろ聞こえてくる悪行は、日に日にその数を増すばかり。さりとて、大殿の差配で一度領主に沿えたものをおいそれと取り除くというわけにもいかぬ。監物は、なんとか穏便に事を収めるにはどうしたものかと頭を悩ませていた。
そんなある夜半、吉田の村の者が悲愴な面持ちで監物の元まで直に参じて、甚五郎の極めつけの凶状を訴えた。
酸鼻極まる外道の行いを聞くに、家老多屋間監物は事ここに至っては兵を寄せて討つよりほかなしと断じたのである。
監物をして、強硬手段を決意させた甚五郎の所業は、以下のごとくである。
ある時、甚五郎は酒の席で家来と口論になった。それはおなごの兵と子供の兵のどちらが強いかという、実にくだらない話であった。これだけであればまだ、酒の席の世迷言として、のちの記録になど残りもせぬ些末事で済むはずであったが、質の悪いことに、この時の甚五郎は、この益体もない試みを行える権力を握っていた。
かくして、村中から女子供がそれぞれ三十名ずつかき集められて備とされ、槍と薙刀を持たされた。甚五郎の意趣であれば当然ながら、得物は研ぎを入れた本物である。
このとき甚五郎はおなごのほうに賭けていたので、予め子供の兵のうち半数に、手足の健を斬るだの目をつぶすだのの細工をしたと言うのだから、ほとほと呆れはてるよりほかない。こうした残忍な悪知恵ばかりはやたらと働く男であったらしい。
それぞれの後ろには督戦のための弓手が並べられて、女備と子供備が向き合わされ、殺し合いの戦をせよとの下知が下された。
はじめのうちは、誰も本気で打ち合おうとはしない。さして広くもない村のことで、敵も味方も見知った者同士。中には実の母子もいるのだから、当たり前である。
業を煮やした甚五郎が、両陣後ろに控えた弓手に矢を放つよう命じ、そこから事態は一変した。
背中から矢を浴びせられ、双方の半数が悲鳴を上げて地に伏した。そして甚五郎が「命に背いて真面目に戦わぬなら、残りの者どもにも矢をくれてやるぞ」と脅すと、ついに本物の戦が始まった。みな狂乱になり、泣き叫びながら得物を打ち付け合い、辺りは血に染まった。無理やりに呼び集められて周囲で見物させられている村の衆からも、そこかしこから嗚咽が慟哭が上がった。かような地獄絵図を前にして、甚五郎は喜色満面であった。
しばらくして、血の宴もようやく終焉を迎える。女備はまだ数名残っていたが、子供備は最後の一人になった。
目をつぶされていた童が、端でただ震えておったのが運よく生き残っていたのである。
甚五郎はとどめをくれるように命じるが、みな疲れ果てて応じる者は現れない。十分に満足していた甚五郎は、弓手に童を射殺させて、この鬼畜のごとき催しを手仕舞いとした。
甚五郎が揚々と館へ引き返した後には、すすり泣く村衆たちが残されたばかりであった。
この夜、甚五郎の目を盗んで、村の使いが多屋間監物の元へと送り出された。
意を決してからの監物の動きは打って変わって迅速であった。主君に吉田甚五郎討伐の意向を伝えて上意を受け取り、当人には出頭の触れを出し、これをもって事実上の最後通告とした。
甚五郎は通告を突っ撥ねて、無謀にも一戦構える腹を決め、出世の折にあつらえさせた鎧兜を蔵から引っ張り出した。
そうして、討伐の手勢を迎え撃つべく砦に籠った甚五郎は、件の凶状において備とした女衆を親衛に置いたというのだから、これまた呆れた話である。どうやらすっかり女衆の備がお気に入りになったようなのだが、つくづく他人の心情を理解できぬ男であったようで、当の女衆からは恨み骨髄に思われていたなどとは、最後までつゆほども気付いていなかったようだ。
甚五郎は、いよいよ砦に迫った監物の手勢を確認するために物見やぐらに上がった。
その甚五郎の姿をみとめた監物は、馬上から矢を一射、射かけた。矢は、互いの距離がまだ矢の届かぬ間合いと高をくくっていた甚五郎の兜に突き刺さり、甲高い音をあげて、甚五郎の色を失わせた。
弓の名手と名高い多屋間監物は、このとき四十。まだ衰えを知らぬ膂力で引く弓は五人張りの強弓であったから、このような芸当も朝飯前であった。
甚五郎は正に面食らって慌てふためいたが、矢じりは兜を貫いて傷を負わせるには至らなかった。しかし、甚五郎の甲冑は、あつらえてからこれまで、碌に使われず手入れもされていなかったものだから、緒が腐って緩み、兜はずるりと脱げ落ちそうになった。
動転したまま兜を取り押さえようと無様にもがいているところに、次の矢が飛来した。先刻と同じ軌道で放たれた二の矢は、露わになった額に突き刺さり、甚五郎はあっけなく絶命した。
息絶えた甚五郎の身体は、前のめりに倒れ込み、手すりを越えて転げ落ち、やぐらには主を失った兜だけがむなしく取り残された。
この直後、砦内は蜂の巣をつついたような混乱に陥った。甚五郎の討ち死にを知るや、徴集されていた領民たちが、甚五郎の笠に着て自分たちを虐げてきた家来衆を狩りたて始めたのである。
ほどなくして、砦の門扉が内から開かれて、監物方が砦に引き入れられた。
それから先は、もはや語るまでもない仕儀で、甚五郎の尻馬に乗って好き放題をしていた家来どもは、残らず討ち取かられるか、捕らえられるかのいずれかであった。
一通りの始末が済まされたのち、甚五郎の骸は、当時のならいどおり、村の辻にてさらし首とされたが、一刻と経たずに村人の手によって、原形もとどめぬほどにずたずたに引き裂かれたと言うから、その怨嗟のほどが計り知れよう。
しかも、これでもまだ足りぬ、このままでは収まりつかぬと村人たちに懇願されて、首と死に別れた胴の方までもが急遽、辻に投げ放たれる次第となった。この胴体もまた、数刻のうちに、見るも無残な有様になったのだから、人の恨みとはげに恐ろしい。
そののち村は、多屋間監物の直轄とされ、悪行に疲れ果てた人心を慰撫されたが、残された禍根は根深いものであった。
件の殺し合いにて、縁者が殺し合わされた家々も数多く、その記憶が大きなしこりとして残り続けたのである。
晴れぬ怨嗟が渦巻き続ける村に心身をすり減らし、一人また一人と村を去る者が出始めた。
新たに村を預かった監物も、彼ら民草の心情をよくよく慮り、致し方なしとして立ち去る者に金子を持たせるなどして援助してやった。結局、村にとどまったのは、幸運にも殺す側にも殺される側にも縁者がとられずに済んだ数家のみであった。
現在の吉田村に残る住民は、そうした家の子孫だという。
吉田村における「勝って兜の緒を締めよ」のことわざがにまつわる、血塗られた逸話はかくのごとしの顛末である。
このことわざは、後北条氏二代、北条氏綱の残した遺言が大元の由来であるが、ことわざがこの村に入るに至っては、暴君甚五郎の所業とその死に様に強く結び付けられて、意味が変じたのであろう。
この話は、村にゆかりを持たぬ読者諸氏においては、数百年前の昔話と思われるだろう。しかし、今も村に住む人々にとって、この話は依然癒えぬ生傷に他ならない。
もし同地へ赴かれる機会があっても、ゆめゆめ無辜の村人らの傷口をえぐるような真似はなさらぬよう、この話をお聞かせした者の責として、伏してお願い申し上げる次第。
それでも、さような好奇心が抑えがたく膨らんだ折には、どうか甚五郎の骸の処遇についてを、今一度思い返していただきたく……
勝って兜の緒を締めよ 雑賀偉太郎 @Devil_kyto
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