第69話:人に優しい国を
仲間の声を聞いて、開き直った。そう思われてもいい、訂正するほどの誤りでない。
事実として騒ぎが近付くにつれ、凍えるようだった全身が暖かくなる。
「あたしは主を賛えているだけよ。どうして邪魔をするの」
「一人の信仰を妨げるのは、人民すべての祈りを疎かにし貶めることです」
メアリの居る部屋に通ず長い通路へも直接、賑やかな声が響き始めた。
――みんながすぐそこに居るわ。
ますます力が湧いて、正面をぐっと見据える。そこに居る判事は、視線を避けた。騒がしくて気が散る、と言われればそれまでだが。
「何ごとかな?」
ひと足ごと、床へ擦り付けるように。ゆっくりとした歩みで、通路から姿を見せた人物があった。
ステラたちが来るのとは反対。建物の奥のほうから。
「は、判事長!」
「資料読みをしていたのだが、こう賑やかではな。何ごとかな?」
「は、はあ。私どもにもよく分かりませんが、軍律裁判の対象者に縁故の者たちかと。お食事中でしたか、申しわけありません」
長と付くからには上司なのだろう。判事が慌てて扉の位置まで駆け、問いに答えた。
年のころは六十前後。魔法使いのような黒いローブに身を包み、手には分厚い本を。反対の手には食べかけのパンを握る。
顎にわざと残しているらしい白いものが、山羊を思い起こさせた。細面ということもなく、引き締まった印象だ。
「つまり傍聴希望ということかね? ならば入れてやればよろしい」
「いやこれは正規の裁判でなく、軍律裁判でして――」
「軍の者以外に聞かせてはまずいことがある。そう聞こえたのは、儂の歳のせいかな」
「そのようなことは決して」
判事長は自ら「傍聴させてやりなさい」と騒ぎに向かって声をかける。するとすぐに、誰の声もしなくなった。
「さ、可憐なお嬢さん。あなたが何か発言をしていたのだろう? 続けるといい」
パンを齧りながら、判事長も部屋に足を踏み入れる。これを慌てて、判事や審議員が取り囲んだ。
「判事長も同席されるので?」
「まずいのかね? 食事がいかんと言うなら、そちらを我慢するが。その場合、今日は残業になるな」
「い、いえ。良いように」
囲みが解かれ、判事長の尻はメアリの真後ろの席に置かれた。
この建物には陥れようとする人間しか居ないと感じていた。しかしどうやら、そうでない人も居るようだ。
そう思って見る目は、物珍しい風であったか。
「ん。儂の顔に何か付いているかね? それともこのパンかな? 分けてやりたいが、そうもいかん。トウモロコシ入りのこれは、儂の好物だ」
ジョークを言っている様子ではなかった。これ以上の助けをする気もないらしい。
だが言って最後に、またひと口食べて笑う。それだけで十分だ。
メアリも微笑みを作り、同士への賛辞を贈る。
「いいえ、紳士の判事長。トウモロコシ入りのパンなんて、他の何よりも最高ですわ。それはお一人で楽しむべきです」
騒動に興味を覚えたらしく、無関係の者まで傍聴席を埋めた。席が足りず、扉を開けたまま通路で聞くことも許された。メアリが同意し、判事長が認めたのだ。
「先ほどの質問をもう一度。あなたがたは、どうして真実を見ようとしないのですか」
「すまないが、その真実とは何を指すのかね?」
数分前まで、泥沼に杭を打つようで手応えがなかった。それが一変、判事の応答は人同士の対話と感じられる。
この現象自体が、問いの答えではあった。けれども言ってはいられない。
「この内戦は、貧困地域に政府が介入するか否か。というのが発端でしたね」
「そうだが」
「田舎者の私に、難しいことは分かりません。でもきっと、その人たちが自力でどうにかするのを待とう。そうではなく、すぐにでも援助をしよう。そういう争いだと思っていました」
出稼ぎに来ていた若者たちは、顔ぶれが変わっていった。人もよく、機転も利いた。
たぶんそれは緩やかにだが、生活が良くなっていたからだろう。出口の見えない闇の中では、どうしたって心が荒み、動けなくなるものだ。
「訂正の余地はあるが、おおよそで合っているだろうね」
何を言い出したんだ、と訝しむ表情ではあった。しかし発言は遮られない。
「違いました」
「何だって?」
「住む人の全員に聞いたわけではありません。でも私の見たこの国は、ユナイトはそんな優しい争いをする国でなかった!」
名を、顔を知った人々でさえ何人が死んだだろう。知らない人々が知らない場所で、どれだけ死んだだろう。メアリや仲間たちが、何人死なせてしまっただろう。
一人ずつの顔を思い浮かべるのは不可能だ。仮に名簿があったとしても。
逆に中のいくらかは、思い出そうとしなくとも頭に浮かぶ。
どうして死なねばならなかったか。考えると、胸が張り裂けそうになる。その想いが、語気を強くした。
「強い者が弱い者を、都合の良いように従わせる。それがこの戦いの有り様です。貧困地域だけじゃない。男が女を、大人が子どもを、暴力を振りかざす人がそうでない人を」
手が震えるのは、怖れでなくなった。怒りとも違う。哀しくてやるせなくて、どうして良いのか分からぬ感情が全身に溢れゆく。
「どうして女というだけで、苦しい人生を歩まなければならないのですか。たった一つの属性だけで、蔑ろにされるのですか」
スカートを握り、前屈みに堪えた。荒くなった息を、ひとまず整える。
「発言の内容は理解したが、この場とどう関わるのかね? 真実とは何か、まだ聞かせてもらってないのだが」
多少、窺うような態度があったのは判事の良心に違いない。だがこの期に及んで、まだそんなことをと落胆も見る。
「私は自分の行いを、やっていないとは言いません。そのあれこれが罪だと言うなら、罰を受けます。でもあなたがたは、法なんて見ていない。私が女だから、騒動の責任を負わせようとしているだけ」
誰が悪いか論じるなら、カンザス大佐の名で良いはずだ。それなのにメアリが悪人にされようとしている。
その理由を理論的に考えられるほど、ものを知ってはいない。だから言ったのは、そうとしか思えないという当てずっぽうだ。
ただ、実際にはもっと酷い話ではとも考えていた。
それはメアリが女だから、存在しない責を問うているのでは。さらに言うなら、カンザス大佐の非道に対したのが女という事実が気に入らないだけでは、と。
真実がそんなものでは悲しすぎる。だからそこまでは口にしなかった。
「そ、それは断じて違う」
「ならどうして、証明してくれる人が居るというのに呼んでくださらないのですか? それこそ真実など欠片もない、市長の手紙だけを信じて」
判事は返す言葉を失った。目を逸らし、判事長の顔色を窺い、傍聴者の目を気にした。
誰かが咳払いをするまで沈黙があって、思いきったように審議員が口を開く。
「分かりきったことを。一つの市を預かる男と、何も持たない女の意見と、比べる必要もないことだ」
聞いた誰もが、一斉に審議員を睨み付けた。一人、判事だけは頭を抱えたが。
「今の言葉が、この場所を表しています。私は仲間たちと一緒に、生まれた町を初めて出ました。そして知りました、この国の真実を」
何がいけなかったのか、審議員はまだ理解しない様子で周囲を見回す。並んだ他の者も、判事も、余計なことを言った当人を睨むしかできない。
「聞かせてもらえるだろうかな。儂は職業柄、真実というのに大変な興味を持つ。どうやらそうでない判事も、世の中には居るらしいが」
判事長に促され、メアリは謳った。この国が変わればいいと。地獄を目にして感じたことを。
「軍人も民間人も、男も女も関係なく。すべての人民が、すべての人民に優しい国を、すべての人民によって創る。そうなるべき時を迎えています」
「……分かった」
パンを食べ終わった指を舐め、判事長は何度も頷いた。
それで何だか、終わった気持ちになる。だが現実に引き戻す声を、判事は発した。
「い、いや。その意見はともかく、現状では市長の意見書や現地部隊の報告書しか証拠がない。証人を探すことはするが、それまで裁判は延長される」
「そうですね。もっともだと思います」
歯がゆいが、なし崩しに出来ないのも当然だ。次はきちんと証人があって、意見も聞いてもらえるのを祈るしかない。
「その必要はありません」
否定の声が上がった。またかと思いかけて、聞こえた方向に気付く。発せられたのは、傍聴席からだ。
「メアリさんは、マナガンの為に戦ってくれました。私人の財産に傷が付かないよう、公の建物だけを使うことにも同意してくれました」
振り返ると、マナガン市長の娘が居た。席から立ち、見つめるメアリの視線をあえて無視し、判事を睨めつける。
その隣に背の高い男も立つ。「私からも」と、発言したのはベンだ。
「マナガンの男たちは、諦めていた。いつかも知れない、奴らが立ち退く時まで待とうと。その間にどんな非道や辱めがあっても、見て見ぬふりをしようと。その旨の指示書もある。市長の名でね」
このままではいけないとメアリを焚き付けたのは市長の娘だとベンは言った。そうでなければ、今も苦しんでいただろうと。
「焚き付けたなんて。メアリさんは――メアリは、とても優しくて怖がりでした。最初は何のことか分からないと、知らんぷりもされたくらいです。でも私たちを導いてマナガンを救った英雄は、メアリに間違いありません!」
今度こそ、否定の意見は出なかった。判事は観念したように書類の再確認を始め、限りなく真実に近い事実確認がなされていく。
それから三日後、メアリとその仲間たちは自由の身となった。
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