第66話:新しい朝
無意識に、まぶたを閉じた。それでも肉を裂く感触が、刃の深く埋もれたことを伝える。
元凶を倒した、達成感。
感じていた重圧からの、解放感。
そんな気持ちからは、甚だ遠い。ひたすらに不愉快な。むしろ自分がカンザスと入れ替わったような、罪悪感を想う。
この重苦しさから、最低最悪の人間を救ってやったのでは。そんな風にさえ感じる。
「くっ――!」
漏れ聞こえた、息を堪える呻き声。はっと気付いて、力をこめ続けていたナイフから手を放す。
声の主は、カンザスでない。愛する夫のものだ。
「ロイ、どうしてこんなことを!」
眼を開くと、やはり目の前にロイの腕がある。大佐の心臓に突き立つはずだったナイフを、彼の手のひらが受け止めていた。
当然に刃が根元まで刺さっている。突き抜けた刃先からは、鮮血が滴り落ちていく。
痛みにしかめられた顔が、ひきつりながら笑う。
「まいったなあ――どうしてか、メアリの邪魔をしたくなっちゃったよ」
たくましい腕。互いに成長したはずなのに、幼いあのころと変わらず大きく見える。
反対から串刺しになっていない左腕もやってくる。メアリの細い身体は、ロイの両腕と胸板に包み込まれた。
「僕はメアリが好きだ。気に入らない奴は引っぱたいて、楽しいことをいつも探す君が好きだ。やり過ぎて失敗したり、叱られて落ち込んだり、寂しいと元気がなくなるところもね」
絵本を読み聞かせるようにゆっくりと、ひと言ずつを丁寧に。それでいて抱き締める力は強まっていく。陽だまりの牧草へ、潜り込んだときのように。
「メアリのことを全て知ってるわけじゃない。君だって、何もかもじゃないだろう。でもきっとそれでいいんだ。知らないから、知ろうと思う。離れていても、またメアリに会いたいと思う」
――私もよ。だから会いに来たの。
答えようとして、声にならなかった。胸が詰まって、しゃくりあげるようにしか息ができない。
「ずっと知らないことがあったっていい。理解できないところがあっていいんだ。全く僕と違うから、メアリを好きになったんだもの」
頼りない兄貴分から、尊敬する夫へ。
おてんばな妹分から、気弱な妻へ。
立つ位置は変わっても、互いの距離は変わらない気がした。
トウモロコシは好きだが、食べたくないときはある。比べるものでないかもしれない。だがやはりロイの居てくれることは、夫として生きていてくれることは尊い。
「だから間違っているかもしれない。メアリが心から、この人を死なせたいと思うなら止めない。でもきっと違うと思う。僕は夫だから、君のナイフを受け止める権利くらいはあると思う」
何が違っているのか。心から大佐を殺めたいと思っているのか。あらためて問われても分からない。
ただ感じるのは、止めてくれてありがとうと。最愛の夫へ、感謝の気持ちだ。
「馬鹿ねロイ。危ないからこんなことをするなって、叱ってくれればいいのよ」
「だってそれじゃあ、メアリは聞かないじゃないか」
とても。
とても悲しかった。
たくさんの人が死んで、そのうえ共に旅立った仲間まで失くした。だのに自分には、こんなにも温かく包んでくれる相手が居る。
それがとても哀しかった。
泣いているはずなのに、耳に届く自身の声が笑っているようにも聞こえる。酷い人間だ。ブースやカンザス。憎んだ誰よりも醜い、利己的な人間だ。
皆が失くしたものを、メアリはまだ持っている。改めてそうと認めて、ほっとする。これこそ最悪の罪だと思った。
「メアリ。あんた、いつまで甘えているつもり?」
視界の総てが、ロイに覆われていた。その外からステラが呼びかける。
「そうしてたって、もう大丈夫そうだけど。メアリとロイはずっといちゃついてたって、みんなそう覚えてしまうわよ」
それでもいい。後の評判より、今の安堵を。そうでなければ、胸が潰れそうだった。
いやしかし、ロイはどうだろう。
仮にも。いやれっきとして精鋭の指揮官なのだ。その評判を落とさせるなど、望むところでない。
「いちゃついてなんか」
「いたわ」
ロイの腕に顔をこすりつけ、声のするほうを睨みつけた。ステラは倉庫の屋上から降りて、たった二歩先に居る。
デニスの連装銃を持つ姿が、とても凛々しかった。
「もうやめよう」
「え?」
「ドロレスが言った。そう言って、カンザスに飛びかかった」
もしもステラが疲労に倒れるとしたら。そこだろうという位置に、アナは立つ。頭巾もかぶりなおして、明けかけた夜に僧服が浮かび上がる。
「もうやめよう?」
「誰も殺すな。ってことでしょう?」
「ええ、きっとそう」
メアリの問いにステラが答え、アナが同意する。こうやって話すと、どんなこともたちまち理解できる気がした。
二人が立っているのに、メアリはロイに抱えられたまま。慌てて離れ、ナイフを抜く。一人では足らず、ステラが手伝ってくれた。
「そうね。あなたがもういいって言うのに、私が何を言うこともないわ」
すぐ先にドロレスは寝かされている。ノソンの女たちが、どこかから大きな布を持ってきてかけてやるところだった。
同じ視界にカンザスも入る。デニスもだ。
大佐は市民たちに囲まれ、観念した様子でいる。武器を奪われ、兵士たちも銃を捨てた。
ベンは他の誰かに助力を求め、デニスを運んでいった。視線は一瞬たりとも弟から外れず、メアリたちのことも忘れてしまっただろう。
「もうすぐ朝ね」
東の闇が、太陽に駆逐され始めた。
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