第65話:決別の刃

 視界を夜空が流れていく。背中に地面の硬い衝撃があって、人々の脚が見える。固く絞るように回された両腕が、打ちたての鉄のように熱い。

 その中途。たしかにふたつ、銃声が響いた。

 ――ロイが。ロイが私の為に!

 愛する夫が、言った通り守ってくれた。しかし代わりに撃たれたのでは、嬉しいはずなどない。

 ――ロイが死んだら、私は何の為にここまで来たの。これからどうして生きて行けばいいの。

 夜が落ちてくる。波が土をさらうように、人々を端から闇へと溶かしていった。未来は黒く塗り潰されたのだと、絶望の世界を閉ざす音がメアリには聞こえた。


「メアリ、どこか痛むのか? メアリ!」

「えぁっ。ロイ。生きているのねロイ!」


 見合った顔に光が射す。誰かがランプをかざしたでもなく、肌の向こうへ血潮が透けて見えた。「どういうわけかね」と、当人も困ったような顔をする。困ったのは、こちらだというのに。

 ずっと抱きしめられていたかったが、そんな場合でないのもすぐに思い出した。カンザス大佐の銃弾が、次に誰を襲うのか。できるなら阻止しなければならない。

 ロイは若馬のように跳ねて立つ。同じ勢いで、メアリも引き起こしてもらった。


「カンザス大佐は!」


 数秒前に居た場所へ、あの男の姿はない。その向こうにベンが、まだデニスに視線を注いでいる。

 振り返ると、市長と娘が揃って同じ方を向く。何を驚くのか、固唾を呑む仕草さえよく似た。

 その向きに立つのは、アナ。

 右手に持った拳銃から、白煙が揺らめいている。その弾が、ロイを守ってくれたに違いない。カンザスが立っていない理由も説明がつく。

 ならば問題はないはずだ。だのに僧服の幼なじみは、痛恨に表情を歪める。

 神に許しを乞いはしても、迷うことのなかった眼。そこにありありと後悔の色が湛えられ、まだなお増した。


「どうしたの――?」


 何があったというのか。

 もみあっていた兵士と市民さえ、互いをつかんだまま動きを止めている。誰もが注ぐ視線の先に、果たして。カンザス大佐が倒れていた。

 ただ、一人でない。見覚えのある飾り気のないワンピース。愛嬌のあるふくよかな身体が、大佐を押し倒した。


「ドロレス?」


 怪我をして備品倉庫で休んでいると聞いた。手当てをしただろうアナに付いた血液も少なくはなかった。

 そのドロレスが大佐と折り重なり、うつ伏せに倒れている。どうしたらそうなるのか、理解が追いつかない。

 けれど、嫌な想像が浮かぶ。否定に首を振っても、次から次へこみあげてくる。

 ――転んだだけよ。

 説得力のない嘘を実は本当だと知る為には、ドロレスの背をさすってみればいい。そうすれば彼女のことだ、うっかりしたと舌を出すに決まっている。


「ねぇ、ドロレス?」


 歩むことを拒絶する足を引き摺り、アナの前を通り過ぎた。ライフルも拳銃も、手から滑り落ちる。


「ごめんなさい。間に合わなかったの」


 もういつもの声に戻った。アナは拳銃の残弾をたしかめ、銃把を握り直す。そのままドロレスの脇まで、隣を歩いてくれた。


「ねえ、転んだって恥ずかしくないわ。それより起きて、大佐を懲らしめなくちゃ。旦那さんの仇を討つんでしょう?」


 肩の下を揺すっても、まだ知らぬふりをする。それならこちらにも考えがあると、メアリはわき腹をくすぐった。

 ブレンダとじゃれてケンカをするとき、必ずここを攻められた。メアリは知らないが、きっと弱点だったのだ。


「ねえ起きて。ドロレス!」

「メアリ。僕が起こそう」


 叫んだ肩をロイがつかんだ。ああ、やはりこの人と結婚して良かった。自分にはできないことを、何だってやってくれる。

 心の底からそう思う。


「お願い、ロイ。ドロレスを起こしてあげて。こんな格好じゃ苦しいもの」


 場所を譲り、ロイはドロレスの腕を取った。背中にも手を添えて、まずは仰向けにするつもりだ。


「血が……」


 腕に巻いた布が赤く染まっている。ノソンで負傷したのと同じ場所だ。痛そうだが、これなら大丈夫だろう。

 抱き合うようにして、ドロレスの身体が起こされる。その態勢からロイは横抱きにした。

 体力を失っている夫には、酷だったかもしれない。少しよろめいたが、持ち直す。

 そうまでしてもドロレスは動かない。垂らした腕を胸に置いたアナは、その辺りを揉むようにした。

 ――どさくさに何てことをするの。

 そう思うのは、事実を認めぬ為の駄々に過ぎない。血に濡れていたのは、一箇所でなかった。

 豊満な胸の、鼓動を強く感じるところ。ちょうどそこを中心に、赤い染みが拡がっていた。おそらく今は、触れても脈を感じまい。


「うぅ……」


 もう一度聞きたい声は、二度と発せられない。聞こえたのは、二度と聞きたくない声。


「どうしてあなたは生きているの。これだけ酷いことをして、どうして生きていられるの」

「うぅあ……」


 大佐の腹にも血が滲んでいる。痛みでうまく声が出ないようだが、余計にメアリの癇に障る。


「あなたのせいで、どれだけ。どれだけの人が悲しんだと思うの」


 じっとしていられず、胸を掻きむしる。怒りが身体じゅうを駆け巡り、腹も太腿もむず痒いような不快感が襲う。

 と。硬い感触があった。

 ポケットに残っていたそれは、折り畳みのナイフ。姉の、マリアが持っていた形見の品。

 ――何て言ってたっけ。

 預かれないと断ったのに、どうしても持っていけと渡されたのだ。マリアが託した言葉は何だったろう。


「でも借りるわ姉さん」


 畳まれた刃を開き、滑らせぬよう両手で握る。動けずにいるカンザス大佐は、勘弁しろとでも言うように両手を出して拒んだ。


「あんたの与えた痛みを知るがいいわ」


 大きく息を吸って、高くナイフを持ち上げる。ひと息に胸を。狙いを定め、メアリは腕を振り下ろした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る