6th relate:平衡するもの
第43話:始まりの音
よく訓練された軍馬たちの、静かな息遣い。それだけを見送りに、畜産倉庫を出た。
中央通りの真ん中。大きな交差点に立つ、市庁舎前を過ぎる。壁面の大時計は、正午まであと二十分ほど。昨日と同じくステラと並び、十歩以上後ろにアナが続く。
商工会議所は、通りの端だ。厳しい扉をくぐるのに、躊躇はない。ちらと背中の先に視線を向けたが、もはや僧服は見えなかった。
案内係の男は、こちらを覚えているようだ。声をかける前に、目を合わせてくる。
「畜産部長さんと、今日も約束をしているのですが」
「承っております、少々お待ちを」
予定が共有されているらしい。初老の男はカウンターに行って、呼び出しの機械を操作した。
ものの二、三分で、給仕姿の女が姿を見せる。市長の娘ではない。
ステラと二人、また緋色の床を踏む。何だかやけに汚れて見えるが、昨日から張り替えられたはずなどない。間違いなく気のせいだ。
案内の女は、ベンの執務室まで何も話さなかった。案内してきたことを室内に告げ、「ごゆっくりどうぞ」とだけ、立ち去り際に言った。
扉を押して開け、短い通路を折れる。ベンはもうデスクから離れ、直立で待っていた。
昨日は彼の髪色と同じブラウンのスラックスだったが、今日は濃い紺色。揃いのベストも新品の艶が眩しいくらいに思える。
「今日は、お一人なのだね」
「ええ。もしもあなたが、私たちを売ったとしたら。そう思えば」
「懸命だ」
それはあるまいと、およそ確信していた。捕えるつもりなら、会議所の外にも監視くらいは居たはずだ。そうでなくとも建物に入ってすぐ、何らかの視線を感じなければおかしい。
ソファーへ導かれ、素直に座る。時間の猶予はさほどないが、互いの意思確認だけはきっちりとしなければならない。
「それで? 相談とやらは、どうなったのかな」
「協力をしてくだされば、あなたの安全を確保しながらこの街を奪い返せる。と」
「――すまない。今、奪い返すと言ったのか? この街を?」
意識してそうしたかというほど、ベンは大きく息を呑んだ。聞く言葉をいくつか言いかけて取りやめ、結局はそのままを問い返す。
耳を疑うのは当然だ。何か策を持参するにしても、どうやってロイを盗み出すのか。そういう予想をしていたはずだから。
けれども彼は「馬鹿なことを」などと、侮る発言をしない。
「そうです」
「どうやって?」
「その説明をするには、相当の時間が必要になります。一つ言うとすれば、デニスの発案というくらいでしょうか」
ごまかしたわけでない。計画をただ並べるだけならすぐだが、どういう判断と狙いがあるのか。納得させるまでとなれば、一時間や二時間はすぐに経ってしまう。
「ダンの……」
納得したかは知れず、ともかく異議は出ない。ただし、しばしの沈黙が訪れる。
浅く座ったソファーの革が、何度かの呻きを上げる。そのたびに、頭を掻いたり抱えたり。五度目のため息で、ようやく次の言葉が捻り出された。
「一つだけ教えてくれ」
「何でしょうか」
「私が協力しないと言ったら、君はどうする」
執務室に入るまで。正確にはこのソファーに座り、ひと言目を発するまで。妙に落ち着いた気分だった。
何もかも。やることは計画され、その通り実行していくだけ。
当てがないように見えて、望むことに答えてやればその通り育ってくれる作物を相手にしている気分だった。
だが思った通りにいかないものもある。天候や動物などの害は、毎年同じでない。そのことを、ベンと話して思い出した。何とも不甲斐ない。
けれども獣になら、立ち向かう手段はある。柵を拵え、落とし穴を掘り、最悪は狩ってしまうのだ。
「協力がなければ、あなたの安全を確保せずにこの街を奪い返します」
本気の度合いを計っているのか、ベンは睨むように覗き込む。女ならまだしも、男にそうされるのには免疫がない。
けれども睨み返した。彼の協力など関係ないと言いはしたが、事実はそうでないのだから。
それがまた二分ほど。ベンは分かった、と小さく失笑する。それでは判断がつかない。
――協力してくれるの? くれないの?
「私の兄は。当然にダンの兄でもあるわけだが、かなりの自信家でね。内戦を利用したとはいえ牧場を大きくした手腕は、口先だけでなかったという評価になる」
「お兄さん?」
唐突に、なぜそんな話をするのか。
隠す意識もなかったが、顔に出たのだろう。ベンは「まあまあ」と宥めるように、視線と顔を上下させた。
「私は次男の立場を、うまく利用しただろう。兄の言い分を弟二人に伝え、結果を取りまとめる位置に立った。兄の気に入るものであれば便乗し、そうでなければ自分のせいだと謝った。兄は正しかったが、弟や働き手がまずかったのだとね」
まだもう少しだけ時間はある。が、この話の先も全く見えない。焦る気持ちが、思わず口を滑らせた。
「酷い話ですね」
「そうなんだよ、私は酷い兄だ。おかげで次にいつ、故郷へ帰れるのか分からない身となってしまった」
「あ、いえ」
訂正しようとしたが、「いいんだ」と。ベンは取り合わない。
「でもダンは、会いに来てくれた。私を探したのでないのは知っている。だが勢力圏を跨いだ愚かな兄を、匿ってくれた」
マナガンが占拠された当初のことに違いない。何があったか知らないが、デニスならそうだろうと理解できる。
「でしょうね。と答えられる程度には、彼と話してきました」
「そうか。それならやはり、私の答えは変わらない」
「それは?」
さも安心したと、大きく頷いた。そうしてベンは、デニスの兄らしい優しい笑みで続ける。
「私は君たちの為に、あの少佐の為に、この街の為に。そして弟の為に、何をすればいい?」
言いつつボタンが外され、袖が捲られる。力仕事だとは言っていないはずだが。
――奮起の仕方は、人それぞれだものね。
「これから何が起ころうと、この建物を出ないでください。できる限り、あなたの同僚の方たちもです」
「それだけでいいのか?」
「もしも知っていれば、電信室の場所も」
ベンは快諾した。地図を書くのにデスク上の書類を汚し、また何かあれば何でも言えと付け加えて。
略図だが分かりやすい地図を受け取り、礼を言った。
その後すぐに、聞いたことのない音が街に響く。初めての音色は独特で、なるほど何があったかと危機感を駆り立てる。
知らぬものだが、それが何かをメアリは知っている。北西にある貧困地域から攻め手がやってきたと知らせる、警戒のサイレンだ。
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