第44話:前だけを見て

 腹の底を粘っこく混ぜ返すような、不快な音色。それは一分ほども続いた。


「このサイレンは――」

「北西地域からの侵攻を知らせるものです」


 ベンも同じく、存在を知っていても初めて聞いたに違いない。舌打ちと呻きを混ぜてさせ、直近にある北西の町を遠くに睨んだ。

 しかし視線は、メアリへと戻ってくる。


「こんな偶然があるものかね」

「言った通り、説明をしている暇はありません」


 そう言う割りに、メアリは席を立たなかった。ベンからすれば、どうしたいのかさっぱり分かるまい。

 じきに壁の向こうが賑やかになり始めた。数人がどたばたと、秩序を失って走る音がする。

 それはこのベンの執務室にもやってきた。ノックもなしに開けられた扉が、勢いに悲鳴を上げる。


「ウォーレンさん!」


 無遠慮な声が短い通路を折れ、視線の通る位置まで踏み入った。ベンはデスクに向かい、葉巻きを手に取ったところだ。


「何ごとでしょうか」

「サイレンが聞こえませんでしたか」

「それは聞こえましたが、私が責められたように聞こえたもので」

「そうではありません。緊急事態ですから、一階へ集まってください」


 葉巻きを諦め、「貴重品を揃えたらすぐに行きます」とベンは答える。にも関わらず、単発のライフルを携えた兵士は出ていこうとしない。

 ソファーの陰に隠れたメアリからは見えないが、室内を見回している風だ。


「何か?」

「客人があったはずですが」

「ああ。あの方なら条件が合わなかったので、早々に帰られましたよ。なかなか大胆な案をお持ちだったのですがね」


 引き出しから財布などを出しつつ。なんだそんなことか、という演技は堂に入っていた。これも長兄に対して培ったものだろうか。

 数拍ほど無言だった兵士も、「お早く」と出て行く。それからしばらくすると、騒がしい足音はしなくなった。


「さっそく匿ってくださって、ありがとうございます」


 向き直ったベンは、僅か目を見張った。メアリが拳銃を持ち、いつでも取り出せるようバッグの一番上に置こうとしていたからだ。


「決めたことをすぐに翻していたのでは、商売などできないのでね」

「損をさせないよう、頑張ります」

「すまない、もう一つ聞いていいかな」


 出ていこうとするのを、ベンは呼び止めた。立ち止まり、振り返る。


「なぜそうまでしてくれる?」


 そうまで、とは。単に立ち向かう姿勢を言ったものか。

 いや、おそらく違う。ずっと止まらない、指や脚の細かな震えを指してのことだ。


「私は臆病者ですが、夫の為なら何でもできる。それ以上でもそれ以下でもありません」


 説明としては全く足らない。だがこれ以上を語る余裕が、メアリの心になかった。ベンがまた何かを言い出す前に、執務室を後にする。

 階段へ向かう途中、石を砕く爆発音が響いた。北西からの侵攻が、どうやら本格的に始まったらしい。

 むろんそれは方角だけのこと。実際はデニスたちだ。カンザス連隊の隠していた、十二ポンド砲を使っている。

 兵士たちの声は、下層からしか聞こえない。四階へ上がり、廊下の角からそっと覗く。と、やはり見張りの一人が残るだけだ。

 見張りは椅子から立って、近くの窓から外を眺めている。メイン軍に居所がばれたとして、こうもいきなり攻撃されはしない。気になることだろう。


「兵士さん!」


 素早く深呼吸をして、駆け寄る。バッグの中身がこぼれないように――装って、銃把を握る。


「あん。あんた、昨日の人か」


 何日も同じ場所へ座らされた見張りは、警戒心を椅子の下へでも落としたらしい。銃を握ろうとする気配がない。

 しかし焦った様子のメアリに、身構えはした。その後ろへ向けて指をさし、悲鳴を上げた。


「兵士さん後ろ!」

「なにっ!?」


 やはり疑いもせず、見張りは背中を見せる。ただしメアリも嘘を吐いていない。そちらには、ライフルを構えた人物がたしかに居るのだから。

 不審者の正体は、執務室の前で別れたステラ。廊下を反対から回り、肩へ巻いた長いロープで銃を吊り上げ、待機していたのだ。

 けれどもまだ彼女には撃たせない。バッグに収めたままの拳銃を押し付け、発砲する。

 背中に二発。見張りは拳銃を抜きかけた姿勢のまま、絶命し倒れた。

 拳銃と弾薬を奪い、鍵を探す。幸いに余計な物は、タバコくらいしかない。ヤニに塗れた鍵束がすぐに見付かった。

 長いウォード鍵が二本。僅かな突起の付いた小さな鍵が一本。

 ウォード鍵のどちらかがそうだ。選びようもなく、触れたほうを鍵穴へ挿し込む。中で部品の擦れる感触が伝わって、錠の外れる音が重々しく鳴った。


「早く」

「もちろんよ」


 見張りの持っていた拳銃を構え、ステラは廊下で待った。部屋の中にはロイしか居ない。

 ――まさか予想して、誰かと入れ替わったりしていないわよね。

 馬鹿げた妄想も、ふと思い付いて真実と錯覚してしまう。

 ――人を殺した私を、ロイはどう思うのかしら。もう口を利いてももらえないのかもしれない。

 前を向かねばならぬのに、どうしても弱気が死角から顔を覗かせる。

 けれどもまずは、ロイを無事に助け出すこと。何もかもは、その後のことだ。無理やりに思い込んで、愛する夫の名を呼ぶ。


「ロイ!」

「めあ――メアリ」


 かすれた声に咳払いが挟まる。知っていたのに、水くらい持ってくれば良かった。

 跪き、小さな鍵で手錠を外しつつ、痛恨のミスを悔やむ。が、頼れる幼なじみはそれをもカバーしてくれる。


「メアリ、これ!」

「あ、ありがとう!」


 振り返ると同時に、何かが放り投げられた。受け取ると、見覚えのある水筒だ。中にはたっぷりと水が入っている。

 さっそく蓋を開け、ロイの口へあてがう。彼はされるがまま、喉を鳴らす。十口ほども飲んで、酒でも呷ったような息が吐かれた。


「ありがとうメアリ。生き返ったよ」


 嗄れたものは直ちに戻らない。しかし幾分か、滑らかに声が発せられる。


「ロイ。私、あなたが捕まったって聞いて。おじさんたちも殺されて、だから……」


 部屋の外には、見張りの男が倒れたままだ。ステラはライフルと拳銃を持っているし、メアリの手にもそれはある。

 何よりの現実として、ロイの手錠を外したのはメアリだ。どうしてこうなったのか。どうしてここへやって来れたのか。

 必死に言いわけをしようと思うのに、喉へ何か詰まって言葉が出てこない。


「メアリ。いま君に伝えたいのは、お礼だけだ。そしてそれは、もう言った」


 床にへたり込んだままのメアリの身体を、ロイは力強く引き寄せる。

 抱き締められたのも、いつ以来か。優しく背中が叩かれて、夫婦の包容というより子どもを落ち着かせるようだったが。


「逃げる先はあるのかい?」

「もちろんよ。でもやらないといけないこともあるの」

「分かった。君が僕の指揮官になってくれ」


 先に立ったロイは、少しよろめいた。けれどもそれだけで、メアリに手を貸してもふらつくことはない。


「自分で歩けそうね」

「大丈夫だよ、ステラ。ありがとう」

「いいのよ。じゃあ、あたしもやることがあるから」


 ロイが歩けないようなら、ステラと三人で逃げる手筈だった。問題ないことを確認した彼女は、別行動をとる。

 去り際。「あんたの銃はそこよ」と、壁に立てかけたライフルの在り処を教えた。


「これはバートの?」

「ええ、そう」


 AからBへ。刻まれたサインを、ロイはすぐに気付く。エールからバートへ、と。友から友へ贈られた祝いの印。

 思い出や悪夢のような出来事。ここまでの決意。意識するだけで、さまざまな想いが溢れだす。

 ロイにもあるだろう。メアリには想像もつかない、苦しい気持ちがあるはずだ。

 けれどもそれを思いやるのは今でない。ライフルと弾薬入りのポーチをロイに預け、メアリは下る階段へと足を向けた。

 愛する夫も、半歩と遅れず共に歩く。

 ――もう二度と、こんな場所へ来たくはないわ。

 忌むべき景色に、メアリが振り返ることはない。

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