第39話:胸に抱えた想い
給仕姿の女性は、市長の娘と紹介された。
ベンは彼女に使いを頼む。即ちロイに昼食を運ぶ係を、今回だけ代わってほしいと。
「私に異論はありませんが。事務部長にも、そのままお伝えすれば良いのですか?」
「そうしてくれ。それと、場所を彼女に」
市長の娘は、キドニー夫人が新規取り引きの相談に訪れたことを知っている。それがどうして、捕まっている軍人に食事を運ぶのか。
――よほど信頼しているのかしら。
内心、気が気でない。細いロープを行く先々で繋ぎ合わせるような渡河だ。デニスからベンにはまだしも、この女性がどれほどの強度を持っているのか。
優しげな顔立ちだが、喜怒哀楽が読み取れない。
「ではこちらへ」
促されても、すぐには立ち上がれなかった。ベンを窺うと、目配せで早く行けと示す。
こちらが無理を言っているのだ。機会を逸するわけにはいかなかった。
「ああ、君は残って。配膳と監督役で、二人と決まっている」
同時に立ち上がろうとしたステラが、ソファーに取り残される。小さく、舌打ちが聞こえた。
「気を付けてね」
「ありがとう。どうにかするわ」
そうだ、どうにかするしかない。まさかこれが罠でもあるまいし。捕らえる気なら、素直にそうすればいい。
先に廊下へ出て、市長の娘が扉を閉める。それから彼女が先導するのは、階段だ。
「あの、大変ですね」
先を歩く彼女に、話しかける。沈黙が訪れる前に、あるいは答えられない問いのある前に、先手を打った。
「何がでしょうか」
「身分ある方のご家族でも、あれこれ言いつけられるんだなと思って」
市長の娘の歩幅は短い。動作がのろいでもないけれども、おかげで進みが遅かった。
振り返って後ろ向きに歩いたとして、長い廊下は百歩ほどもぶつかる心配はない。
もちろんそんなことをする理由もない。ただ少しくらい、意識を向けた素振りがあっても良いと思う。彼女は頑ななまでに、正面から視線を動かさず歩む。
「……女など、どこへ行ってもそのようなものでしょう。男は偉そうなだけでなく、仕事中でさえ卑猥な言葉を吐く生き物です。女はそれを受け入れるしかない。夫人のところでは違うのですか?」
急に何を言い出したのか。思い返すとカウンターの職員に何かを言われ、冷たい目をしていた。あれがそうだったらしい。
男たちも軟禁状態には変わりなかろうに、よくもそんな気になるものだ。彼女の気苦労に同情する。
「え、ええと。田舎のせいかしら、そういう思いはあまりしたことがないわ」
「そうですか。だからこんなことも出来るのでしょうか」
平たい口調に変化はない。しかしメアリの胸を、ひとつ大きく脈打たせるには十分な威力を持っていた。
メアリは偽名を使い、嘘の用件で入り込んでいる。その指摘なのは明白だ。
「――こんなこと?」
やっとの思いで息を飲み下し、問い返す。が、彼女は階段を降り始めていた。
二階はどうやら食堂になっている。等間隔に並んだ四人がけのテーブルが六つ。その奥へ、暇そうなコック姿の男たち。
テーブルにも人の姿が一つだけあった。けれども食事の代わりに鞄が投げ出され、客とは思えない。
横目で覗き見られながら、厨房前に立つ。
「彼のをお願いします」
それだけの言葉ですぐに、トレーに載せられた食事が出された。きちんとした要求に対し、返事は「ああ」だったのか「おお」だったのかさえ、はっきりしなかったが。
「私のせいではありません。鬱憤も溜まって当然でしょう」
特に険悪なわけでない。そう言ったらしい。受け取ったトレーをメアリに渡し、彼女はまた階段を上る。
半ば同意を求める言いかただったが、何のことかとしらを切れなかった。無言となってしまったが、事情を知っていると答えたも同然だ。
この町でどんなことがあったかは知らない。だが少なくとも、かなりの長期に渡って自由を奪われている。
それを知らぬと装えるほど、メアリは嘘に長けていなかった。
だからと何を付け加えるでなく、市長の娘は足を動かす。三階に戻ると、ベンが手すりにもたれて待っていた。
「やあ、ありがとう。事務部長によろしく」
「かしこまりました。何か問題がありましたら、畜産部長に問い合わせるようお伝えします」
「うん、それでいい」
彼女は上がったばかりの階段を、また降りていく。しかし五段ほどのところで「そういえば」と振り返った。
「キドニーさま。腹を空かせた人間の前に、牛が自ら火に飛び込んでステーキになる。そんなことがあるのでしょうか」
ジョークにしては、欠片も笑みが見えない。現実の仮定としては、荒唐無稽が過ぎる。
「牛が自分で? それはあり得ないと思いますが」
「そうでしょうね。でもそれを待つしか、腹を膨らませる方法がない。そんな人間は現実に居るのですよ」
戸惑いはしたが、おおよその意図が感じとれた。続けられた言葉も、補完するものだ。
市長の娘はそれ以上を求めず、踊り場を折れて姿が見えなくなった。
「彼女は、女性団体に属していてね」
ベンにも伝わったはずだが、何ら咎めることはなかった。むしろ何も聞こえなかったように、発言と関係のないことを言う。
話しながら、彼は階段を上り始めた。きっとその先へ、ロイが居るのだ。迷うことなく着いていく。
「団体名は何というんだったか。まあとにかく、女性の権利を増そうというのが目的だよ。選挙権を得たり、自由に結婚をしたりね。彼女を慕って、多くの同志が集まっているそうだ」
「それは大変なご苦労を抱えてらっしゃいますね」
「会ったばかりの君までも、勧誘をするくらいだからね」
あれは勧誘だったのか。
額面通りに捉えて、すぐに否定する。ここは思ったままを話せない場所だと。
彼女が会ったばかりの、何者かも知れないメアリに助けを求めたのは分かった。痛々しくて、胸が締め付けられる。
ベンが言ったのは、それが誰の為かということだ。彼女は己の為でなく、慕ってくれる人たち。この町の女性たちの為に、藁をも掴もうとしているのだ。
――私なんかに、できることがあるのかしら。
構ってはいられない。そう判断したはずがいつの間にか、助けたいと思い始めている。
その想いをまた、首を振って打ち消す。今はそれどころではない。
「これはウォーレンさん。今日はあなたが?」
「ええ。カンザスさんに、お聞きしたいことがあって」
板張りの見える四階の廊下。その途中、いくつもある扉の一つ。そこに小さな踏み台を置いて座る、壮年の男が居た。
他で見かけたのと同じように、作業着めいたシャツとズボン。ただしこの男だけは、腰の拳銃を隠していない。
「あの方は日が暮れるまで、帰ってきやしません。知っているでしょう」
「もちろんです。できれば急ぎで確認したかったので、行き先など分かればと思いまして」
「あいにくです」
悪びれる風なく、男はポケットから鍵を取り出した。がちゃがちゃと乱暴な手つきで錠を開け、扉を押して中を確認する。
「お早く願います」
「ああ、ありがとう」
メアリがこの建物の人間でないと、気付いたろうか。男はつまらなそうにあくびをして、目尻をこすっている。
背中をベンに押され、室内へ。
そこは窓がなく、明かりもない。真っ暗な床に、テーブルや椅子さえなかった。
おかげで広くは見える。なかなか目が慣れず、見通せなかったが。
「やあ少佐。今日の昼食は気に入ってもらえるかな」
遠慮ない足取りで、ベンが奥へ。彼には見えているのか、口許に指が運ばれた。静かにと示している。
逸る気持ちと、正体の分からぬ不安。再会できるとなったら、歓喜を抑えられるかと思っていたのが嘘のようだ。
「少佐、お食事です」
メアリも足を踏み出して、ようやく見えた。闇の中にも、僅かに光を跳ね返すトウモロコシの黄色。
会いたくて、焦がれて。幻に姿を求め続けたロイがそこに居る。
床に座っていた夫は、ゆっくりとした動作で顔を上げた。
「メアリ?」
届いた音は、極めて小さなものだった。けれども聞き違いでないのなら、ロイは名前を呼んでくれた。
どれだけ。時間と場所を、どれだけ隔ててきたことだろう。
嗚咽に震える喉を、メアリは必死に黙らせた。
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