第37話:潜入

 四隅の張り出した、威厳に溢れる建物。元は一面、真っ白であったのだろう。今は上半分が雨染みに黒く塗られていた。

 無垢の一枚板で作られた、両開きの扉。艶々に磨かれた、取っ手に触れるのも躊躇いつつ。メアリは商工会議所に足を踏み入れる。


「大丈夫よメアリ。こ、この手紙を出せばいいだけだもの」

「そ、そうよね。でもどこに出せばいいのかしら」


 同行したのは、ステラのみ。アナも行きたいと言ったが、僧服は目立つし状況に合わない。「結婚して初めて、この服が憎いと思ったわ」と、彼女。

 さておき。三十ヤード四方ほどのホールは、長いカウンターで仕切られている。

 板張りは三日ほども煮詰めたような色。待ち構える職員の顔も含め、厳粛を絵に描いたようだ。


「取り引き相談の係に渡せって、どれがそうなのよ」

「行けば分かるって言ってたけど――」


 職員以外。つまりカウンターのこちら側に、人はまばらだった。二人組が二つと、隅に一人。

 隅に立つ初老の男はメアリたちが入ってずっと、ちらちらと様子を窺っている。

 ――あれが兵士なのかしら。

 兵士は軍隊の制服でなく、スーツやシャツ姿で紛れていると聞いた。慣れぬ雰囲気と、どこに潜むか知れぬ危険。

 窮屈な板挟みにステラは、怖れを通り越して苛々とし始める。終いに「もういいわ」と、たまたま目のあった職員を睨みつけながら前進を始めた。


「何かお困りでしょうか、可憐なお嬢さん方」

「えあっ?」


 不審者ではあったろう。初老の男がつかつかと近寄り、早口に声をかけるのは当然と思う。

 にらめっこをしていたステラは、肩の辺りから妙な声を発していたが。


「あの、初めて来たのですが。取り引きのご相談を聞いてくださると」

「左様でしたか。紹介状か何かをお持ちで?」

「ええ、ここに。私の夫が農場主で、今日は代理で参りました」


 あらゆる権利は、男性が持つ。そんな世の中でも、書面を持っての代理くらいは女性にも勤まった。

 どうやら案内係らしい初老の男は、たくわえた髭を僅かに微笑ませて、カウンターの端へと二人を連れた。


「新規取り引きの相談だそうです。農場主の書面をお持ちです」


 用件を手短に伝え、案内係は元の位置へ戻った。「ありがとう」と言う暇もない。

 ――案内なら案内らしい顔をしていてほしいわ。


「書面を」

「あっ、はい。ちょっとお待ちを」


 相談係の職員も、何が気に入らないのか。先のステラよりも鋭い視線で、不躾に手を差し出す。

 着替えたとはいえ、飾り気のない服がいけないのか。畜産倉庫に転がっていた、革のバッグがいけないのか。


「お待たせしました、これです」

「拝見します。ふむ、ダン=キドニー。農場の名前は?」


 封書を手に載せると、係員はむしり取るようにして裏面を見た。署名はデニスの書いた偽名だ。


「キドニー農場です。小さなところで、ご存知ないかも」

「たしかに知りませんな。豆を栽培ですかな?」


 名も知られぬような貧乏農場が、独自に取り引きなどと笑わせるな。おおかたそんな厭味を六割ほども混ぜた冗談と共に、封書は開かれた。

 係員は首から提げた片眼鏡を当て、ため息まじりに中身を眺める。


「……失礼ですが、そちらのお嬢さんは?」


 突如。係員は声の調子を変え、音程も一つ上げる。

 デニスは手紙の文面も、きちんと書いていた。ただそれは、用件のみの簡素なものだ。

 作法を知らぬメアリでも、相談というなら事情などを書くものではと不審に思った。

 それがどんな魔法にかかったものか、今にも握りつぶしそうだった書面も、優しく丁寧に持ち替えられる。


「この子は私の妹です。田舎者の女が一人では不安なので、付き添ってもらいました」

「左様でございましたか。失礼ですが畜産部長とはどのようなご関係か、お聞きしても?」


 なるほどどうやら、名指しにした相手が重要な人物であるようだ。

 質問の間にも係員は、書面をそっと折り畳んで封書に戻した。


「申しわけありません。詳しいことはその方に話せば分かる、と。会えないはずはないからと聞いているだけでして」

「ああ、なるほどなるほど。それほどご縁の深いお方、ということでございますね」


 揉み合わせた手の一方を、係員はカウンター下へ差し込んだ。と、どこか遠くで機械で鳴らしたらしい音がする。

 それが呼び出しだったに違いない。給仕姿の若い女性が奥から現れ、自分の仕事はどこかと見回した。


「おおい、ここだよ」


 偉そうに呼びつけた係員は、封書を渡して用件を小声で伝えた。何と言ったかは分からないが、ほんの一瞬その女性の目が冷たく見下したように思う。


「疑うようで申しわけないのですが、昨今物騒でして。畜産部長に確認が取れましてからご案内を差し上げます」

「ええ、それで構いません」


 壁際のベンチを指して、係員はしばらく待つように言った。当然に断る理由はない。

 ほぼ全面に牛革の張られたそれは、座ると僅かに沈んで尻を受け止めた。不特定の人間が入れ替わり立ち替わりする場所で、贅沢な品を使うものだ。

 ――奥に行ってから捕まるとか、ないわよね。

 ここまではうまくいっている。それが逆に不安を呼んだ。相手は騙されているふりをしているのではと。

 ステラも似たような心持ちのようだ。互いに身を寄せ合い、周囲から見えない陰で手を握り合う。

 滴りそうなほど汗が滲むのは、どちらのせいか。きっと二人分であろう。


「キドニーさま。お待たせを致しました」


 やがて呼ばれたが、メアリは聞き流そうとした。ステラにわき腹を押されて、はっと気付く。


「は、はい。キドニーは私です!」


 場違いな音量で返事をしてしまった。係員の誰もが視線を向けたのに、カウンターのこちらに居る男たちは頑として見ない。


「ご案内致します」


 近付いたのは先ほどの、給仕姿の女性。「よろしくお願いします」と、ぎこちない笑みで頼む。すると女性は、驚いたように目を見張る。


「あの、何か」

「いえ特には」


 すぐに元の。いや、先に見かけた冷たい顔が表れる。表情を崩してはいけないと、意図して押し殺しているように見えた。

 カウンター脇の階段から、上階に進む。二階を過ぎ、三階へ。緋色の床が、ふわふわと柔らかい。


「先ほどは失礼を致しました」

「え? いえ何も失礼なんて」

「よろしくなどと。人間らしい扱いをいただいたのは、久しぶりでしたもので」


 息を呑む。

 ここはやはり、無法者に占拠された場所であると。

 兵士に見張られたホールでは、表情ひとつにも気を遣う。誰も居ないこの廊下でも、これが精一杯の救助信号なのだ。

 しかし。

 答えてはやれない。こちらにはこちらの計画がある。気付いたと知られれば、どこからどう狂うか分からない。


「そうなんですね。難しいお仕事、お察しします」

「……ええ、ありがとうございます」


 女性は小さく、息を吐いた。当人は密かにしたつもりのようだが、がくりと肩も落ちた。

 ――ごめんなさい。私にはどうにもできないの。


「畜産部長の執務室でございます。用件は通っておりますので、ご遠慮なくどうぞ」


 最奥に閉ざされた重厚な扉。女性はノックを二度鳴らし、扉を少しだけ押した。


「キドニーさまをお連れ致しました」

「ああ、入ってもらってくれ」


 低い落ち着いた声で返事があって、女性は戻っていく。振り返り、声をかけたかった。だができない。拳を握って堪えていると、誰かの手に包み込まれる。

 もちろんそれは、ステラの手だ。親友は十インチの距離で目を合わせ、黙って頷く。

 メアリもまた、同じにするしかない。


「お邪魔を致します」


 廊下よりも、さらに毛足の長い絨毯。室内にまた短い通路が折れて、ようやく対面する。

 年の頃は三十過ぎ。背が高く、肩幅も広い。普段どんな仕事をするのか知らないが、肉体労働に慣れた身体だ。


「やあ、ようこそ」


 両袖の付いたデスクから、彼は歩み寄る。手は既に、握手をしようと差し出されていた。


「初めまして」

「初めまして、キドニー夫人。それであなた方は、デニスとどういうお知り合いかな?」


 事情を知らぬはずの畜産部長は、俄に核心を突いた。握られた手が、逃亡を許さぬほど強く締まる。

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