第23話:立ち向かう朝

 夜明け。

 住宅地の外れに立てば、延々と続く畑が見える。その先には緑の濃い平原が緩やかにうねり、ミニチュアのような山々が空と大地を繋ぎ止める。足下から伸びる道など、その半ばで糸よりも細くなった。

 町を出て、何処かへ。

 もしもあるとしたら、首都メインだと思っていた。噂に聞く高い建物や、ガス灯に照らされた夜の都会。子どものころ、そんな物が見てみたかった。

 だが今から向かうのは、反対の方角だ。

 それもメインやエナムと比べれば、あまりに小さな都会。蒸気機関車の線路も通じていない。


「あんたたち、待っておくれよ!」


 通りを走ってくる馬が一頭。声を上げたのは、ドロレスだ。

 メアリたちも、人数分の馬を連れている。いずれもエナム軍が用いていた、軍馬が四頭。


「一緒に来る気かしら」

「まさか。あんたが旦那に会うのを手伝うなんて、そんな物好きが居るはずないでしょ」


 当の物好きたるステラが、厭味を気取って言う。その隣でアナは、やれやれと肩を竦めて見せた。


「そうね、そう思うわ」


 二人は当然のように、同行すると言ってくれた。それがどれだけ幸福なことか、噛み締める。

 デニスに誘われて否も応もなく、行くと答えた。あれから時間を置いて考えれば、軽率としか言えない。

 母と、怪我をした姉のことも頭になかった。デニスを信用するなと言ったハロルドも、もっともだ。

 しかし十分に考えを巡らせた上で、やはり結論は変わらない。ステラの言うように、もう一度だけでもロイに会いたかった。


「良かった、まだ居たね」

「ドロレスさん、どうしたの?」


 巧みに速度を緩め、馬はちょうど目の前に止まる。

 乗っているのは、ドロレスだけでない。するすると滑るように降りたのは、メアリの母だ。


「ごめんなさい。母さんのことも、姉さんのことも。私は愛してる。でも今は、ロイのことしか考えられないの」

「ええ、分かっていますとも。あなたがやると決めたのを今さら止めるほど、物忘れに困っていないわ」


 昨夜、デニスと別れた後。すぐに母のところへ行った。説得するのでも、言い捨てるだけでも良いから、自分の口で伝えよと。ステラに言われて。

 そのとき母は、間違いなく驚いた。「まあ」と発してしばらく、呼吸を忘れたように動かなかった。

 けれどもそうして、次に言ったのは。激励の言葉だった。


「昨夜、言ったのを覚えてる?」

「ええと。出来ることがあるのは何よりだから、必ずロイを連れ戻しなさい。と言われたわ」

「ええそうよ。私が言いたいのは、それだけ」


 出来ることがある。きっとそれは、父を想っての言葉だ。母にその猶予はなかった。


「今はね、これを渡しに来たのよ」


 肩掛けの袋から、母は重そうに何か取り出した。言われるまま受け取ると、それはガンベルトに収まった拳銃だ。

 同じ物をアナが腰に巻いている。するとこれはマリアが持っていた物か。

 母と同じように昨夜、姉にも旅立ちを告げた。傷は深いが、死にはしない。神父さまの言った通り、マリアは苦しげながらも話すことができた。

 母は行って良いと言ったのか。姉が聞いたのは、それだけだ。母との会話を全て伝えると、「じゃあ気を付けて行きなさい」と。

 マリアから、それ以上の言葉は聞けなかった。


「それから、これも」


 今度はポケットから、母の手にちょうど握れる小さな物が取り出された。これもマリアの持ち物と、ひと目で分かる。


「それ――」


 姉が結婚したのは、ロイがメアリに求婚してすぐだった。相手は中央に住む、木工職人。

 材料を探して森へ入るついでに、猟師も兼ねていた。母が見せたのは、その夫が使っていた折りたたみのナイフだ。


「大切な形見じゃない。そんな物、どうしろっていうの」

「何があるか分からないから、持っていくように言っていたわ」


 母が持参してくれた物を、触れもせず突き返すのも気が引けた。

 手に取って、刃を出してみる。よく研がれ、錆や欠けはどこにも見当たらない。

 木製の握りは、ひたすらに濃い飴色をしていた。獲物を解体するのに使うのを見たことがある。文字通りに、血と汗の染み込んだ道具だ。


「素晴らしい手入れがされているわ。これほどの物を、預かれない。返せないと困るもの」


 姉の夫も、自宅の作業場で殺されていた。古い教会の様子を見に、マリアが不在にしていたときだ。

 木工職人で、猟師。刃物はその人にとって、命そのものと言えるだろう。


「私が諦めたものを必ず取り戻せ、ですって」

「諦めたもの?」

「さあ、マリアが言ったの。何のことか、私には分からない。それだけどうしても伝えてと言われて来たのよ」


 幼いころのメアリは、自分のしたいことを我がままにやってきた。対して姉は、声にも態度にも出さない。

 それでもいつの間にか、誰も気付かぬ間にやり遂げている。読み書きがそうだったし、結婚もそうだ。街中の誰も、二人の交際を知らなかった。


「分からないけど、分かったわ。きっとこれを返せるように、無事で帰れってことね」

「そうかもしれないわね」


 あの姉のことだから、深い意味があるのだろう。信頼する姉を慮り、メアリはナイフをしまった。


「じゃあ、行くわ」

「ええ、気を付けて」


 鐙に足をかけ、ひと息で。馬に乗ると、世界が広がったように思う。

 町の人々には、出立を伝えていない。賛否両論あるだろうし、デニスを捕らえられては困る。


「あっ、メアリ」

「なあに、母さん」

「飲み水は持った? それに当面の食べる物も」

「ええ、準備してあるわ」


 行ってらっしゃいと手を振りながら、母はそんなことを聞いた。

 他に言いたいことがあるようで、それは言わない。無理をした笑顔で、察せたが。

 それではと行こうとすると、また呼び止められる。


「メアリ。眠るときは獣もだけど、虫も危ないからね」

「そうね、気をつけるわ」

「あ、あと。水を飲むときは沸かしてからよ」

「知ってる。母さんに教わったもの」


 そんな風に母は、更に二度呼び止めた。下着の替えはあるかと聞かれたのには、さすがに赤面してしまう。


「母さん、大丈夫。必ず戻ってくるから」

「心配なんてしていないわ。あなたはバートの娘だもの」

「そうよね。英雄の娘として、恥ずかしくないようにするから」


 何を言ったところで、互いに保証がないのは分かっている。だから最も信頼する男の名前が出た。

 それで納得できるのだ、メアリと母は。それにきっと、マリアも。


「娘さんを無事に戻せるよう、命をかけます。お任せください」

「ありがとう、あなたも気を付けて」


 メアリが馬を進め、ステラとアナも続く。ずっと黙っていたデニスが、母に告げた。

 そうして彼は、一行の先頭に出る。堂々として、使い走りにされていたデニス伍長とは思えない。


「さあ、このまま道を真っ直ぐでいいのかい?」


 青年の背中を見ていると、後ろから気楽げな声がした。物見遊山でもするように、楽しそうな声が。

 まだ馬の足で十歩と進んでいない。母もすぐそこで手を振っている。

 追いついたのは、やはりドロレス。腕を吊っていた布も取れ、相談もなく同行するつもりらしい。


「ああ、他にも来るよ」


 振り返ったメアリたちに、当然という顔でドロレスは言った。

 その宣言を待っていたように、近くの建物の陰から馬が四頭。いずれも女性だ。

 一人はパン屋の妻。あとの三人も、夫を殺された者ばかり。

 どうして着いてくるのか、理由を聞くまでもない。メアリが頷くと、加わった五人も頷く。

 総勢九人の、険しい旅が始まる。

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