第16話:幼き想いの実った後

「断ることはできないの? ロイがそんな場所へ行くなんて、死にに行くようなものだわ!」


 神父さまが取り寄せる新聞を、メアリも読み始めていた。そこには毎回、北西戦線の惨状が書かれる。まるで連載小説のように。

 戦力に乏しいその地域の住民は、正規の軍人たちが寝静まった夜を狙う。若しくは昨日の夜に酒を酌み交わした町の人々が、今日の昼間に背中を撃つ。

 悪夢のような騙し討ちにも、平定を掲げた軍人たちは正々堂々と立ち向かうしかない。記事は陸軍の兵士を、英雄として描く。

 ――英雄になんてならなくていい。ロイが死ぬのだけは、絶対に嫌。


「辞退の希望は出せると思うよ」

「そうなの? それじゃあ――」

「でも通らないと思うし、僕も出すつもりはないよ」


 危険な任地を避け、安全な場所へ。首都で父の部下にでもなれれば、理想的だ。メアリのそんな願いを、ロイはきっぱりと否定した。

 どんな我がままも「まいったなあ」のひと言で、その通り叶えてくれた。そのロイに初めて、寸分も譲らず断られた。

 あまりのことで「なぜ?」とも、声を出して聞くことができない。


「ねえメアリ。軍人はね、戦うのが仕事なんだよ。どうしてか、分かるかい?」

「わ、分からないわ」


 父は軍人だが、もうしばらく戦っていない。怪我のせいとはいえ、父がそうできるならロイも。と、そうならない理屈がメアリには分からない。


「僕たちが戦うのは、話を聞いてくれない相手ばかりなんだ。彼らはいきなり殴りかかってきて、大切なものを壊していく。そうならない為に軍人は戦うんだ」


 学校へ行った四年間で、そう教わったのか。ロイはメアリを真っ直ぐに見つめ、彼らしい柔らかな口調で語る。

 いつの間にか彼の両手が、自分の両手を握っていた。目と目の距離は、一フィート。こんなにも近寄ったことが、かつてあったろうか。

 ロイが何を言いたいのか、まだ分からない。けれどもどうしても知ってほしいのだと、それだけは伝わってくる。


「戦う時間と場所を選んでいたら、軍人にはなれないんだ。僕が守りたいものの為に、戦うことが出来ないんだ」


 正直なところ、明確な意味は捉えられない。だが選り好みをしてはいけない、と。規則などでなく、ロイ自身が決めたらしい。

 それから、守りたいものもできたらしい。


「守りたいもの、って?」

「メアリと、その家族。もちろん僕の家族も。バートと同じだけど、これは真似じゃない」

「そう、私だけじゃないのね」


 聞く直前まで、メアリだけを挙げてくれると期待があった。しかし聞いてすぐに、そうは言わないと予想がついた。

 思った通り、周りの人たちみんなだと。きっと言葉にしなかっただけで、町の全員を思い浮かべているに違いない。

 メアリが好いたのは、そういう男だ。

 だから拗ねたふりをしてすぐに、笑ってしまった。もう少し、困った顔を見たかったのに。

 その代わり、繋いだ手をぎゅっと離さない。「まいったなあ」と、頭を掻かせなかった。


「じゃあ、私がロイを守るわ。いつ、どんな所に居ても、私が助けに行ってあげる」

「メアリが?」

「ロイを守る人も居ないと、不公平でしょう? 他にも居るかもしれないけれど、私が一番に言っておくわ」

「嬉しいよ。僕もメアリの居場所を守る、一番になるからね」


 未だお転婆の抜けないメアリにとって、一世一代の告白となった。自分でもそれと気付いていなかったが、ロイと別れた後に気付いた。

 ――ロイが察してなくて良かったわ。

 彼が気付けば、居場所を守るなどと気の利いたセリフはなかったろう。それが証拠と安堵して、火照った頬を冷ます。

 北西戦線に赴いたロイから、手紙が来ることはなかった。ひと月が経ち、ふた月が過ぎても。


「あそこは司令部さえ、転々としているらしいわ。こちらから手紙を書いても、届け先が決まっていないようよ」


 父に聞いたのだろう。母がそう教えてくれた。ただし戦死すれば、訃報がグラント家に届く。それがないのだから、無事だとも。


「会いたいの。声が聞きたいの。あの真面目くさった字を見るだけでもいいの。ロイを傍に感じたいの」

「待つのよメアリ。彼を好きで居るのは、ずっとその気持ちが続くってこと。母さんが泣いているのを、あなたも見たことがあるでしょう?」


 夜な夜な、マリアに泣きついた。姉は迷惑がることもなく、毎日毎晩、話を聞いてくれた。


「私は耐えられない。やっぱりメアリは強いわね」


 ある晩、突然に。そんな風に褒めてもくれた。泣いて耐える自分が、強いものか。とも思ったが、姉の言葉で本当に少し強くなれた気もする。

 それから一年。新任地に留まる、最短期間が過ぎた。

 だがロイからの連絡はない。待ちわびるメアリに、グラントおじさんが一通の封書を持ってくる。


「軍本部から?」

「まさかとは思うんだが。でももしもってことなら、メアリが知っておくべきかと思ってね」


 はっきりとした言葉を、おじさんは口にしない。後ろに立つおばさんは不安そうに、祈る両手を組んだままだ。

 ――そんなこと、あり得ない。あってはいけないのよ。

 信じている。ロイがメアリを置いて、どこかへ行ってしまうなど。心から信じているのに、胸の鼓動が止まりそうになった。


「姉さん、封を開けて」


 ナイフの扱いを誤り、指先を少し切ってしまった。マリアの取り出した紙面は、どうやら一枚。四つに折られたそれを、震える手で開く。

【ロイ・グラント少尉の任官一年経過により、中尉への昇任をお知らせする】


「中尉に、昇進したみたい――?」

「それだけ、のようだね」


 頬を擦り合わせるように、グラントおじさんと。短い文面を、何度も何度も読み返した。

 戦死とは、どこにも書いていない。異動とも書いていなかったが。おばさんは、その場に腰を抜かした。

 北西戦線は、くすぶるボヤのように続く。結局ロイが任地を離れたのは、停戦交渉が成立したときとなった。

 父から聞いたところでは、そこでの功績により大尉に昇進。しかも現地士官から多数の推薦を受けて、参謀本部への転属が決まった。


「ろ、ロイ。お疲れさまでした。首都へ行けるのね。もう戦場じゃないのね。良かった、私、私……」


 久しく会ったロイは、二十七歳となっていた。北西戦線の任期は、五年に及んだ。

 彼が軍学校へ行った時点から数えれば、九年。メアリはその間、小さな胸にたくさんの想いを募らせた。

 そのせいで、と言えばロイが責任を感じよう。しかし間違いなく、メアリはおどおどと性格を一変させていた。

 不安な日々が、勝ち気を刈り尽くしてしまったのだ。


「ごめんよメアリ。ずっと、ずっと待たせてしまった」


 九つだったメアリは、十八歳になった。そろそろ結婚した同年の娘も、少なくない。

 だからと女のほうから求めるのは、あってはならなかった。メアリが云々でなく、ロイの名誉を傷付けてしまう。

 妻選びの権利は、夫にのみあるのだから。


「もしも。もしもまだ、僕の帰りを待ち続けてくれるなら。メアリ、結婚してもらえないかな」


 場所はグラント家。帰還を祝う、家族ぐるみの食事の席。雑談のさなかに、思わぬ言葉が聞こえた。

 いや。予想外ではあっても、望み続けた言葉だ。

 高く、強く、胸が鳴る。いつか感じた、押し潰されそうなあれとは違う。

 ふわと足が、床を離れそうな。驚きと不安と、当量の歓喜が胸の奥から流れ出す。

 つまり、嬉しかった。


「ええ。ええロイ、もちろんよ。私こそ。ロイこそ私でいいのなら。あなたの奥さんにしてほしいわ」


 二人の結婚式は、その翌年の春に行われた。新大陸暦三百六十九年だ。メアリにもロイにも最良の年となる、はずだった。

 同じ年の初夏。

 広大なユナイトの西海岸に所在する都市、エナム。その議会が貧困地域の解放を謳い、宣戦を布告した。相手はもちろん東海岸に首都メインを持つ、ユナイト政府。

 国家を東西に分けた、内戦が勃発したのだ。


「ロイが戦場に行くことはないのよね?」

「そうだよ。僕は全軍の作戦を考える部署だからね」


 当初、世論はメイン軍が圧勝すると考えた。新聞などもそう報じたし、生真面目なロイでさえ気軽に答えたものだ。

 だがまた、メアリにとっての不幸が状況を変える。

 メイン軍の前線総指揮官、バート=エイブス少将が暗殺されたのだ。

 メアリもマリアも。その母も、悲しみに滂沱を止めることができなかった。

 実行犯は不明。しかし当然に、エナム軍の差し金であるのは間違いがない。この事件にはロイも怒りを顕わにした。


「あの人は、自分が何をしたのか知るべきだ。出来ることなら、僕が教えてやりたい」


 あの人、とは。

 エナム軍の指揮官は、エール=エドモンズ中将。父、バートの親友であった。

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