Break time
第6話:幼き日のメアリとロイ
メアリが九歳のとき。隣の家に住むロイが、軍学校へ行くこととなった。陸軍の士官になるため。彼が十八の年だ。
「ロイが軍学校へ? 三日も持つかな」
「待て待て。行って帰ったら、それだけで三日を越えちまう」
「だからそういうことさ」
ロイの悪友たちは、手荒い洗礼で彼を送り出そうとした。
ニヤニヤと笑い、彼らなりに気弱な友人を励ましているつもりなのだろう。
「バートみたいになりたいんだ」
こうしたい、と。ロイが言うのは珍しい。もしかすると、人生で初かもしれない。
少なくともメアリには、そう思える。二人で食べる昼食のパンも、彼のはいつも半分で、自分には一つ半あったのだ。
「バートみたいに?」
このころ父は、存命だった。肩に銃弾を受けて、後方勤務ではあったが。
「田舎町の英雄になるのかよ!」
「弱虫ロイが?」
「まいったなあ。でも本気なんだ」
悪友たちは声高く笑う。
いつものことだ、ロイがからかわれるのは。彼らも心底バカにしているのでないと知っている。
――でも許せない。ロイは本当に頑張って、軍学校に合格したのよ。
「どうしてそんなことを言うの! ロイはたしかにお人好しだけど、やってみなくちゃ分からないわ。決まっているのは、彼が軍学校に合格したことだけ。それ以上でもそれ以下でもないでしょ!」
ふわり。透き通る金色を浮かせて、意気込む。幼いメアリは、かなりのお転婆娘だった。
すると彼らは、後退りしながら囃し立てる。
「弱虫ロイ!」
「学校でもメアリに守ってもらえ!」
ロイの悪友たちが悪漢でないのは、そうやって引き下がるところだ。
いくら少年と見紛う風体でも、メアリは十ほども年下の女の子に違いない。
二人を置き去りに、勝ち誇った風で去っていく。追いかけるほどでない引き際が、また歯痒い。
「ロイ、父さんもお祝いしたいって。夕食はうちに来れるでしょう?」
「もちろん。うちの両親も、そのつもりだったよ」
「――それが終わったら、すぐに行っちゃうのね」
寂しい。抱いた感情の名を、メアリは正確に理解していた。
「いや? まだ何日かは居るよ、もう身分は軍属だけどね。しばらく自由もなくなるし、入校までは存分に羽を伸ばせってさ。早く一人前になりたいのに」
知っている。試験を受けに行って、ようやく戻った昨日のうちに聞いたのだ。
だがメアリの言う「すぐ」とは、出発までのたった数日で埋め合わせるものでない。それを彼は、もう心を学校へ置いたように言う。
ロイは畑を手伝っても種をばら撒いたり、要領が悪い。沼へ釣りに行けば、メアリが三匹上げても彼はゼロだ。
それでも彼は「まいったなあ」と、いつも笑っていた。今と同じに。
――私の気も知らないで。
「大丈夫だよ」
「え?」
「心配してくれてるんだろう? 僕が頼りないから。いつもメアリには、助けてもらってばかりだもんな」
「そんなことっ!」
そんなことはない。彼の居る毎日は、暖かな陽だまりのような心地だった。
そうでなければ自分がおばあちゃんになった妄想へ、ロイを登場させたりはしない。
「そんなこと?」
「そんなこと、どうでもいいわ。まだ挨拶に行くんでしょう? 夕食を遅らせないでね」
住人の誰もが、互いに親戚のような町。挨拶というほどでない。行けば皆が「頑張れよ」と言ってくれる。その気持ちを受け取りに行くのだ。
囃す悪友たちは去った。メアリの役目は終わった。
「遅れないよ。それから――」
家に戻る方向へ、脚を向けた。背中にロイの声がかかる。
言い出せば聞かない、強い意志を持っている。だのに人を傷付けないよう、言葉を選ぶのに時間がかかる。
そんなロイを。頼れない兄貴分を、メアリは好きだ。恋などと偉そうなものでない。ただずっと、傍に居たいと思っていた。
すぐ隣で寝起きして、同じ畑を耕して。遠く繋がる道の先など、ずっと知らずにこの町へ住むのだと思っていた。
「手紙を書くよ。毎日、は難しいかな。なるべく書くよ。だから困ったことがあったら、メアリも手紙を書いてよ。そうしたらすぐに。いや半年は帰れないけど、きっと助けになるから」
「そんなときに、ロイを思い出せるかしら。思い出せたら書くわ」
首を竦めて言うと、彼は笑って「まいったなあ」と。手を振るので、行ってらっしゃいと手を振り返した。
駆けていく背を見送って、字の練習をしようと誓う。
「……でもやっぱり、なんだか収まらないわね」
呟いて、帰宅の脚を止めた。
百歩を歩くくらいまでは、家に戻るつもりだった。しかしロイが遠くへ行ってしまう。それを思ううち、彼らのせいだと行きついた。
あの悪友たちが、からかうから。この町を離れるのに、躊躇がなくなったのかもと。
それならさっきの分も合わせて、少しばかりのお礼が必要に違いない。
「ステラ! アナも居る?」
針路を変え、イモ畑を挟んだ向こうへ。隣家とは言え半マイル以上を離れた、友人の家だ。
「い、居るわ。どうしたのメアリ」
ステラは、かなりの引っ込み思案だった。あがらずに話せるのは家族とメアリと、もう一人アナだけ。
二人はほぼ常に、と言って良いくらい一緒に居る。このときもいつの間にか、ステラの後ろに立っていた。
「あなたのお兄さんが、またロイをからかっていたわ」
「そ、そうなの? ごめんなさい」
「謝ってほしいんじゃないの。手伝ってもらいたいだけ」
ステラの兄ハロルドは、悪友たちのリーダー格だ。父親の酒を掠め、自慢気に飲んで見せる。ただしそれが継ぎ足されるところなど見たことがない、と妹は言う。
「い、いいけど。でも、兄に怒られるのは嫌よ」
「大丈夫。こっちから何かするわけじゃないから」
「それならいいわ」
ステラの庇護者として振る舞うアナも、メアリには何も言わない。親友に嫌がる素振りでもなければ、赤毛を揺らして微笑むだけだ。
「そ、外に行くの? 帽子をかぶらなきゃ」
ステラはそばかすを気にして、つばの広い帽子をぐいぐい引っ張って結ぶ。外と言っても、物陰なのだが。
家の裏や物置きなどを回り、目当てを調達した。あとは、うまく引っかかってくれるか。
「ね、ねえ。いつ渡すの?」
「ちょっと静かに。内緒にして、ロイを驚かせるんだから」
ステラの両親が、午後の畑仕事をする近く。メアリはさも大切そうに、木箱を抱えて歩いた。
二人には、はしゃいだ風で話すよう注文をつける。
やらせてみると、はしゃぐというよりコソ泥の内緒話だ。兄がどこから見ているか、周囲を窺う様など特に。
「アナ、物置きを貸して? プレゼントを隠しておきたいから」
「いいわ、内緒だものね!」
ふくよかな喉から、アルトが膨らんで響き渡る。
聞き心地は良くとも、演技力まで要求するのは酷だった。その代わりハロルドが何をしていても、聞こえたはずだ。
やはり。トウモロコシの林から、覗く姿が見えた。
知らぬふりで、木箱を隠す。背伸びして届く棚に置き、あった袋を目隠しにしただけだが。
それから一旦、ステラの家へ。と見せかけて、こっそりと戻る。
壁の節穴から覗くと、ちょうどやってきた。開け放しの扉を遠慮なく通り、棚を見回す。するとすぐ、木箱に目を留める。もう一度辺りを窺い、さっと引き寄せた。
もしかして、獲物を仲間と共有するのだろうか。そうなれば驚く様子を見物できない。
――ひとりを驚かすより、そのほうがいいかもね。
しかし彼は、どうやら独り占めするつもりだ。躊躇わず、蓋を開けた。
板の表面を擦る乾いた音が、意外に大きい。出てきたのは、大小五匹の蜘蛛たち。
「……ひ、ひいぃ!」
臆病と評された兄は、木箱を放って一目散に逃げていく。彼の両親が畑から、その背中を怪訝な顔で見送っていた。
「あはは、やったわ!」
「す、すごいわ。こんなに思い通りいくなんて」
「ステラ、まだ見つかるかも」
いたずらを楽しんだのではない。と内心で釈明をしても、笑ってしまう。ステラは褒めてくれたし、アナも文句をつけなかった。
◆◇◆
二人と別れ、自宅に戻る。夕食の支度をする母と姉を手伝って、時間が過ぎていく。
そろそろロイたちが来るかというころ、父に問われた。
「物置きにプレゼントを取りに行かなくとも良いのかね?」
「プレゼントは、やめたの」
少し前に、ステラの父親が来たのは知っている。終始、笑いあっていたのも。
苦情ではあるまい。蜘蛛くらいで、うちの息子は情けない。きっとそんな話だ。
「そうか。小さな生き物に、むやみなことをしてはいかんよ」
「分かってるわ。いじめたりしてないもの」
「ならいい。誰だって、自由に生きたいのだからね。それを邪魔するなど、許されることではないんだ」
軍人の父がそれを言うのは、矛盾している。だがメアリには、まだ分からない。お小言は終わりと、胸を撫でおろしただけだ。
父は揺り椅子で、細長い何かを丹念に磨いていた。メアリの身長と同じくらい、四フィート半ほど。黒光りする金属の筒が、木製の服を着込む。
触れたことはないが、マスケットだろうと察した。父の仕事道具だ。
しかし今まで、持ち帰った試しはない。どうしたのか聞こうと思った。しかしちょうど、ロイと両親が訪れる。
「やあ、お招きを感謝するよ」
「何だね、かしこまって」
「息子を人質に出すのだから、神妙にもなるさ」
「まあまあ。
グラント夫妻と父は、若い頃からの付き合いだ。こんな田舎町から、六百マイルも離れた首都の軍学校まで。一人息子を送りだす寂しさを、そんな風に分かちあった。
しかしそれも、宴の始まりだけだ。二つの家族が食事を共にしたのは、数知れない。神に祈り、乾杯で祝福したあとは、いつもの賑やかな食事となる。
やがて酒が進み、料理もあらかた片付いた。グラントおじさんはうたた寝を始め、双方の母親が皿を集めていく。マリアは毛布を取りに、奥へ。
「バート、僕はあなたみたいになりたい。どうしたらいい?」
「俺みたいに?」
僅かに残った料理を前に、父はまだ酒を飲んでいた。大人たちが馬鹿話をする間じゅう、愛想笑いをしていたロイが問う。
「あれやこれや押し付けられて、終いに腕を動かなくするのか? やめておくがいいさ」
息子は無事に過ごせるだろうか。グラントおじさんが尋ねたときと同じに、父は笑う。
「僕は要領が悪い。たぶん頭もそんなにだ。だからアドバイスをもらえないかな。あらゆることで負けても、それだけは負けないように」
英雄に教わったと、自慢をするためでなく。上達が遅くとも、何か一つをやり遂げる。それはきっと自信になる、と。
ロイがそんなことを言うとは思わなかった。何度からかわれても、気にしているようには見えなかったから。
熱を持った口調に、父は目を細めた。どうしたものか困っているようにも、懐かしんでいるようにも見える。
「それじゃあ。頑張らないこと、かな」
「ええ?」
ロイが訝しむのも無理はない。頑張ることを教えろと言われたのに、頑張るなとは。
だが父は、それさえフフッと笑う。
「そう。そうやってすぐに結果を得ようとすれば、命がいくつあっても足らない。若いうちは、仕方がないがね」
「なるほど――でもそれじゃあ、僕は軍学校で何を学べばいいんだろう」
頑張らないと聞いて、毎日昼寝をする姿を想像した。そんなでは、さすがに追い出されるのではと思う。ロイが帰ってくれば嬉しいが、情けない気持ちにさせたくもない。
「周りの連中を、手助けするのさ」
「周りを助ける?」
「誰しも得意がある。それを発揮できる場面、道具を用意してやる。お前ならできると励ますのもいい」
「難しいことは、他人にやらせろと?」
メアリにも、そう聞こえた。しかし父は首を横に振る。
「お前が何かの専門家になったとして、できることはその一つだけだ。それでは、たかが知れている。先んじる奴も、いくらだってな。だから手伝ってやれと言うのだよ」
今度は何だか、まともな話だ。それでもメアリには今ひとつだが、ロイはしばし考え込んだ。
「友人をたくさん作れと?」
「誰が何を好きで、何が嫌いか覚えるのさ。そうすれば馬鹿話も、からかって楽しむことも出来るからね」
冗談にしてしまったが、違うとは言わない。父は立ち上がって、壁に向かう。食事の前に磨いていた銃だ。それを取り、戻ってくる。
「あいつめ、先に偉くなって驕ったか。生意気に昇進祝いなんぞ寄越してきた」
「あいつ?」
「軍学校の同期でね、エールという。腐れ縁というやつだ」
憎まれ口をききながら、また丁寧に布を擦り付ける。どうやら新品らしいその銃が、鈍い艶を増していった。
「ありがたいが、こんな物では大切な何も守れない。同期はもう、あいつ一人になってしまった」
「大切な物? その人が?」
「いや、俺にとってはここだよ。この家には妻も娘も居る。お前たちもな。しかしエールは、来たことがない」
父は長期の休暇が取れるたび、この家に帰ってきた。しかし揺り椅子でのんびりしているだけで、愛していると言われた記憶はない。
――ああ、でも。おままごとを断られたこともなかったわ。
「それがあれば、面倒でも仕方ないと思える。しかし自分で決められもしない。いつの間にか、そうなっている」
「分かったよ、宝物を探すんだね」
「そう。それが自分を長生きさせるコツだ」
――長生きの話なんて、ロイはまだ十八歳なのよ。
陸軍に入ることが、死と隣り合わせとは知らなかった。父は三十七だが、大きな怪我を一度したきり。それも瀕死とは聞かされていない。
しかしロイには、何か感ずるところがあったようだ。納得して、礼を言う。
それから半月後。彼は馬車の荷台に揺られ、バッグ一つを手に首都へと旅立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます