第4話:助け合う人々

 エナムの名前を知らぬ者は、きっと居ない。何せ国を東西に分けて戦っている、敵側の最重要都市の名だ。

 しかしその軍隊が、どうしてこんなところへやってくるのか。メアリには、想像もつかなかった。戦場は遥か五百マイル以上も南のはずだから。

 国土の北側は農地ばかりで、軍事的に押さえる要衝などない。現在の戦局さえ月に二度、まとめて持ち込まれる新聞で知るような土地だ。

 興味のない者は、それも読まないだろう。だが、のどかに安穏としているからではない。

 ここでまず戦うべきは、金品や食料を奪いに来る暴漢。それに猛獣。何より、開拓すべき新たな大地そのものだから。


「さあ、名乗り出るんだ。妻と、娘が二人居るのは分かっている。他の誰かが、教えてくれてもいい。田舎町の英雄だ、知っているだろう?」


 誰も、声を上げない。

 目をつけられないよう、顔を俯け。咳払いひとつ、誰がしたのか分からないように。

 沈黙が続き、説教台から長靴ちょうかを踏む音が聞こえ始めた。最初は小さく、間を置いて。しかしすぐに、荒ぶるキツツキが姿を見せる。


「なぜ黙っている。それで済むと思っているのか! 夫の居る者以外を、全て集めさせた。必ずこの中に居ると、分かっているんだぞ!」


 ――だから女だけなのね。

 母もメアリも、それから姉も。三人ともが結婚している。ただしこの町に夫と暮らしているのは、姉だけだ。

 おそらく人数だけを知って、娘に夫や子があるのは想定していない。何ともずさんな計画と言えた。

 だがそれだけに、一時の感情で極端な行動に出るのでは。そう思うと関係のない人々を、この緊張下に置くことが堪らなく申しわけなく思う。

 名を知らぬ者など、一人も居ない。誰もが助け、助けられた経験を持つ。町の全てが親戚のようなものだ。


「私が」


 母の袖をつかみ、キツツキのそれより小さく、声を潜めて言った。自分が一人で名乗り出ると、身振りで示す。

 危害を加えられるものと、決まったわけでない。母はもう亡くなったとか、森に入って行方不明とか。ごまかしようはいくらでもある。連れてきた男は、ここに居ないのだから。

 しかし。母は小さく、首を横に振った。


「もう、あなたしか残ってないのかもしれないわ」


 細く鋭い杭が、胸に刺さる。

 言われてしまった。気付かないふりでいようと思ったのに。

 集められた中に、姉の姿はない。夫の居ない女だけを集めさせた。この二つを合わせると、彼女の今を想像したくなくなる。

 姉の名はマリア。いつも黙々と、自分のやるべきことを最初から知っているように動く人だった。

 結婚してからは中央に住み、夫の仕事を手伝っていた。


「姉さん……」


 口に出したつもりはない。あるいは涙が出そうで、鼻をすすってしまったのかも。


「誰だ、何を話している!」


 男は腰から拳銃を抜いた。銃口の向きを何度か変え、「誰だ!」と繰り返す。

 これはいよいよ、黙っていられない。立ち上がろうと、腰を浮かす。が、その肩を押さえられた。


「お前か! いや、お前が縁者なのか?」


 メアリの肩を借りたていで、立ち上がったのはステラ。その名に似合った、瞬く星の色の髪が流れ落ちる。

 自然な所作で向きを変えると、臙脂のスカートにメアリは隠れた。


「いえ、違いますわ。紳士の――」

「ブースだ」

「ではブースさん。質問をしたいのです」


 堂々と。小さな子に発音を教えるほど丁寧に、ステラは話した。ブースのほうも、面倒くさげな顔をしながら「何か」と聞き返す。


「ご気分を損ねるつもりはないのですが。問われている田舎町の英雄とは、誰のことですの?」

「何だと?」

「いえ、バートという方なのは分かります。きっと、戦争で名を上げた人なのでしょう。ですが見ての通り、何もない町です。ほとんどの住人は、新聞さえ読めないのですわ」


 南で起こっていることを、北に住む者は知らない。ならば北で常識となっているもの、いないものを、南の人間は知るまい。

 どうやらステラの思惑は、そうやってとぼけきることだ。


「お集まりの皆さん、バート=エイブス? という名をご存知でしょうか」


 年若い自分では、知らぬこともある。そんな思いを装い、ステラは意見を乞う。

 数瞬の後、「知らないわ」と返事があった。すると他の数人も「知ってる?」「さあ」と意見を合わせる。


「森の中に住んでる人なら、名を知らないけど。ほとんど会うこともないしねえ」


 ステラの母も、ウインクしながら言う。街の女のほぼ全員が、メアリとその家族を庇ってくれた。


「なるほど、お嬢さん。言いたいことは分かった、座っていい」


 望む答えがなかったろうに、なぜかブースの声に苛つきがない。先ほどより怒り心頭でもおかしくないのに、と不審に思う。

 ステラが座ると、向けられたままだった拳銃も収められた。


「つまり、こういうことだ。我慢比べがしたいと。この狭い部屋で食事もとらず、水も飲まず、小便にも行けない。どこまで耐えられるか、自分を試したいと」


 想定外ではあるようだ。脅し文句を一つずつ、考えながら話している。

 だがそれが、逆に恐ろしげでもあった。何人かの、小さな悲鳴も漏れ聞こえた。


「よろしい。これは私とあなたがたの、精神的な戦争だ。とは言え、私は待っているだけでいい。気楽なものだがね」


 スタートの合図か、ブースは両手を強く打ち合わせる。それから部下に見張りの指示をいくつか与え、奥の扉の向こうへと姿を消す。連れていた二人もだ。

 女の一人が扉に這い寄り、聞き耳を立てる。「行ったわ」と親指を見せ、当人が一番にため息を吐く。

 女たちの多くはそれに釣られ、母とメアリは「みなさん、ありがとう」と声を揃えた。


「ありがとう、ステラ」

「うるさいわね、一つ貸しよ。必ず返してもらうわ」


 抱えた膝に顔を埋め、震えている。メアリは知っていた。ステラは誰より優しいのだ。

 それがどうして嫌われてしまったのか、たしかなことは分からない。

 けれどもまた、仲良くできる。迷ったが、肩に触れてみた。良ければ背中をさすろうと思って。

 しかし「やめて」と冷たく拒絶された。悲しいが、仕方がない。


「それにしても、男どもは殺されてしまったのかね。情けない」


 恰幅のいい老女がこぼした。怒っている風でなく、惜しむように。メアリと同じく、誰かを目の前で殺されたのかもしれない。


「神父さまが縛られているのは見たわ」

「うちの旦那もよ」

「ああ、それならどこかに閉じ込められてるんだね」


 神父だけならともかく、他にも縛られた男が居る。殺してしまうなら、そんな手間はかけまい。

 夫や息子には、もう会えない。そう思い込んでいた者には、救いだろう。


「でもこのままだと、同じことだよ。今は待ってくれてるけど、一人ずつ殺されるかもしれない」

「そうだねえ。女は殺されないと思うけど、男たちはまずいね」


 最後に答えたのは、ステラの母だ。「どうして?」と、女は殺されないという意味が問われる。


「誰がバートの家族なのか、脅して喋らせようってことでしょう? でもそれで、当たりを引いたら意味がないわ」


 当たりとは、母とメアリのことだ。女たちの誰がそうなのか、分からないから殺されない。

 つまり共謀して知らぬふりをしたのが、ここに居る誰もの命を守ったことになる。気付いていた者は頷き、いま知った者は息を呑んだ。

 しかしそれなら、男たちを殺す分には問題がない。そうして脅されれば、黙っていられるはずもない。


「すぐにそうしないってことは、それほど焦ってないのね。その間に、何か出来ることがあるかしらね」


 今度はメアリの母。それはそうだと、皆が同意する。だが後半については、声が出ない。

 建物の外には、見張りが居るだろう。この部屋にも、また誰か来るかもしれない。逃げるなりなんなり、今が唯一の好機かもしれなかった。


「あれ? 何の音かしら」


 ひそひそと話す声に紛れるほど、それは小さな音だ。気付いたメアリ自身、よく聞こえたものと驚いた。

 木の板を叩く乾いた音が、二度続けて。それがいくばくかの間を置きながら、繰り返される。

 全員で動けば物音がするので、メアリと母で探した。するとどうも、説教台の下から聞こえてくる。


「誰?」


 床板に向け、囁く。しかし返事がない。


「軍の人は居ませんよ」


 もう一度。今度は床下で、何ごとか作業をする音と気配があった。

 十を数えるくらいで、音は止んだ。察するにここが、秘密の出入り口になっている。そっと場所を空け、待つ。

 やはり。すぐに床板は、真ん中から二つに開いた。そこから顔を出した人物に、メアリも母も驚きを隠せない。


「姉さん――」

「マリア!」


 救出の女神は、静かにと指を唇に当てる。

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