第7話

 生暖かいお湯が頭上から滝のように降り注ぐ。今にも腰が抜けそうな思いで立っていた。気持ちがいいからではない。今すぐ消えてしまいたい衝動を抑えながら、無理矢理二本の足を立たせているせいだ。

 あのあと、「一旦風呂でも入ろう」というヤルキンの一声がなければ、ずっとあの場に立っていたかもしれない。ただ感情に呑まれるがままで、それに全てをもっていかれそうになった。自分だけでなく、全員そうだ。全員がそうなってしまった時――、きちんと理性的なふるまいができるか、危うかっただろう。

「……はぁ」

 息を吐くと、喉の奥から何かが迫り上がってくる。

 体にまとわりつく泥や、垢をお湯が洗い流してくれる。石鹸の泡に包まれ、湯は下水管に流れて行った。流れ出たお湯は、またどこかで回収され、洗浄され、戻ってくる。

 循環だ。

 水は、命の巡りに似ている。

 ずっと、忘れていたことだった。忘れていたほうが幸せだったことだ。中途半端に期待して、裏切られるのはもういやだった。

 確かに…………、母親だった。アランを産んだ母親その人だ。

 いやなことは、忘れかけていた頃に再びやってくる。

 望んでいないことだった。

 昔は会いたくて仕方がなかった。けれど、今は違う。

 …………置いていかれた。端的に言えば、そうなる。母は探索者だから、それを生業にしていたから、子供と一緒にいることは難しかったのだろう。それはわかる。それなら――、いらないならなぜ産んだ? 捨てるなら、最初からなにもしなければいい。それもわからないくらい、時分の母親は愚かだったのだろうか。

 育ての親は、母をことあるごとに大げさに詰った。集落から出ていく勇気がない人の戯れ言だと言い聞かせていたが、実際のところは本当に「そう」だったのかもしれない。

 子供を置き去りにする碌でなし。それは事実だ。母親は村で一番強い戦士であったらしい。一度も口答えを許さず、居候である自分にきつくあたってきた叔母がそういうのだから、それだけはきっと本当だったのだろう。

 そして、自分も母と同じように村を出た。誰も見送りなどこなかった。

 母に対する思いは…………怒り? 怒りだろうか。呆れの感情もある。母が何者であるかわからない以上、なんの感情も持つべきではないと決めたのは何年前だろう。それなのに、諦めていたはずなのに――、未練がましい。でも、子供が親を知りたいと思って何が悪い? そんな開き直りと誰に聞かせるわけでもない言い訳が頭に浮かんでは消えていく。

 きゅ、と栓を閉めた。

 湯が止まる。

 髪から滴り落ちる滴が、胸を伝い、腹を伝い、足を伝い、床へと落ちた。

 曇った鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらない薄ら笑いを浮かべていた。

 

「つまり…………私たちの院長先生は、アランの母親だったということか?」

「少なくとも、容姿は瓜二つではあった」

 装備品を預け、簡素な格好になった二人は、水場の天幕近くでアランを待っていた。

 周辺の環境は湿度が低くてからっとしているので、湯浴みの後の湿気た髪も自然に乾燥されていく。

「ほんとうに信じられないんだけど」

「…………夢でも見てるんじゃないかって感じだよな」

 まさか、探し求めていた人物がこんなところでくたばっているなんて──というのが二人の率直な感想である。きっと向こうも同じことを考えているだろうとヤルキンは思った。あの先生に息子がいるなんて、全く聞いたこともなければ、それを匂わせるような素振りもなかった。

 ただ、完全にあり得ない話ではないと思う。

 あの人が自分の話をすることはほとんどなかった。あの時は誰もそんなことを気にしていなかったけれど、確かに変な話だ。

 自分の面倒を見てくれている人の素性がわからない。

 子供のうちは気にならないだろうが、大人になった今なら、その違和感にひっかからないものがないわけではない。自分の親同然の人を疑うなんて、と訴えてくる部分が邪魔をして今まで感情に蓋をしていたが、やはりあの施設は奇妙ではあるのだ。

 どこがどうとは具体的に言うことができないが――、なにかよくない、という予感が消えることはない。

 

 院長が行方不明になってから数ヶ月、捜索願を出しても見つけられなかったのは、学術院管轄の施設にいたからだというのは、この街の派閥抗争に巻き込まれたせいである。本当に、呆れるような結果だった。

 そして、自分たちの視野狭窄ぶりにも驚かされる。必死に探していた箇所のすぐ横に、ずっと存在していたのだから。

「あれは本当に、そうだと思うか? 勘違いとか狂言とか嘘って可能性も──」

「まあ、子供がいてもおかしくない歳だったといえば、そうだけれど」

「……信じられん。なぜここであの人は死んでいたんだ? こんなところであの人を殺せるようなものはないのに」

「他殺、とか」

「本気で言ってるのか?」

「わからん。魔物相手にやられるとは思えないから、人間相手に……っていう方がまだ納得できるってだけの話だ」

「……私は、納得していない。だって、あの人が死ぬわけないしっ……」

「誰だって死ぬだろ、人間なんだから。刺されようがなにをされようが死なない不死身のやつがいたら、それはそれで怖くないか?」

 ヤルキン自身自分でそう言っておきながら、本当に院長先生が死んだという事実が、ちょっとした冗談のように思えた。あの強さの代名詞のような人間が、あっけなく、こんな近場で死んでいるなんて、あり得てしまうのが嘘みたいだ。

「なあ、先生生き返ると思う?」

「……アランに聞けばわかるだろ」

 その場にいない人間にパスを投げる。もちろん、適当な答えが返ってくるわけもない。

 …………この問題にはできれば触れたくなかった。迷宮で死んだ人間の蘇生は、死んでから時が経てば経つほど成功率が下がっていくのだ。

 院長が死んでから、季節が一つ終わろうとしていた――。この場合、成功か失敗かは五分五分、といったところだろう。

 ただの博打なら愉快だが……、人の命を天秤にかけるとすれば、先祖にでも祈って泣きたくなる。

 珍しく子供っぽい言葉遣いで助けを求めるローゼリカを見て、年長者としてどうにか安心させてやりたいという気持ちはあるが事態が事態で、イレギュラーすぎて自分でも気持ちの整理がついていないのだ。

「…………」

 二人が悩みあぐねていると、天幕の中からアランが出てきた。姿はこざっぱりとしているが、顔に張り付いたような愛想のいい笑みに、全くといっていいほど笑っていない目がくっついているので全体としては不気味であることには変わりない。

 …………先ほどの出来事を考えれば無理もない話だ。

「お待たせしました……行きましょうか」

 三人は無言で仮眠所まで歩く。流れる空気が、重い。三人とも、違う理由で苛立ち、不信感と困惑で焦っている。

 このまま探索を続けることは困難だろう。元々からの予定であったが、ここで休憩を入れるのは最適な判断であったと思う。

「……ここで寝た後、竜の巣まで行く、そうでしたよね」

「あ、あぁ……」

「計画の進捗は良好ですね。このまま行きましょう」

「…………その、なんだ、あんたは大丈夫なのかよ」

「ご心配には及びません。元々、このためにここまで来たんですから。…………まあ、死体としてご対面させられるとは思っていませんでしたけど」

 早口でそう言ってしまうと、もう何も話したくないと言いたげな目がこちらを見ていた。

 空元気で頑張っているのか、元々の仕草が外れずに無理をしているのか、どちらにしてもこの先はアランの動向をしっかり見ていなければならないだろう。いくら歴戦の勇士でも、一時の迷いや悩みが手元を狂わせることがある。自分たちルーキーなら――、なおさらだ。

 

 仮眠所は天幕ではなく、一つのプレハブでできた平家になっていた。入り口から右手は関係者用の部屋、左手は探索者用の大部屋だ。大部屋に入る間に、貴重品を預ける仕組みになっていたので、三人はそれぞれの荷物を鍵付きの戸棚にしまい込んだ。

 大部屋に入ると、釣床がいくつも並べてあるのが目に入った。商船の船室を思わせるような内装である。そのうちのいくつかはすでに人が入っており、耳を澄ませると静かな寝息が聞こえてくる。

 靴を脱ぎ、釣床に横になると、天井の木目が目に入る。その模様を数えるまでもなく、三人は眠りに落ちる。

 慣れない環境、知らない人間と一緒に雑魚寝。そんなこと、考えている余裕などないのだ。

 寝れるときに、寝る。それしかない。

 ――それに、全員死ぬほど疲れていた。


「ヤルキン、ここを出ても達者でな。辛い時は、帰ってきてもいいんだからね」

 ――一瞬で、これは夢だと気がついた。

 院長先生とヤルキンが、最後に会ったのは数年前のことだった。だから、これは走馬灯か、そうでなければ夢だろう、と。

 訓練学校の鍛治師過程を卒業し、救児院を出ていく最後の日。

 救児院の子供たち全員に見送られ、寮に入る前、彼女はそう言って彼の頭を撫でた。

 暖かい、大きな手だった。

 確か、あの中にローゼリカもいたはずだ。

 二人が救児院にいた年数はたった一年しか被っていない。たかが一年、されど一年。

 生まれてすぐに両親が死んだヤルキンとは違い、ローゼリカは両親の顔を覚えている。詳しい事情はわからないが、彼女の両親は、到底幼い娘を育てられるような環境にはいなかったはずである。彼女も彼女で、自分の親のことに関して頑なに語ろうとはしなかったので、どういう経緯で施設にやってきたかは不明だった。

 ヤルキンもローゼリカも、同じように院長先生を慕っていたが、彼女の方はあまり院長先生を母親代わりとは思えなかったようだ。その代わり、そのまま「先生」として、彼女を尊敬しているように見えた。尊敬していて、お手本にしていた。彼女を自身のロールモデルへと据えたのである。確かに、それくらいあの人はすごい人だった。英雄と謳われたどんな勇者よりも、彼女は強かった。少なくとも、あの時はそう見えた。

 今現在、同じように迷宮に挑み、敵性生物戦う身から見ても、たった一人で大剣を振り回し果敢に成果を上げるあの人は、一種の概念――強さの象徴そのものであるのように見えた。到底一人ではこなせないような数の魔物を屠り、財宝を手に入れては豪快に笑っていた。あるときは迷宮の奥底まで潜り、大物を仕留めて人々の賞賛を得た。そして、それらの報奨金で自分たちを養ってくれていた。

 探索者だった先生。優しかった先生。強かった先生。たった一人で黄金等級にまでたどり着いた生ける伝説──。

 思い出せば……、院長室には二振りの大剣が飾られていた。

 魔剣"マグニフィト"と、蒼炎剣"青薔薇"。

 どちらも間近で使われているところを見たことはなかったが、一度だけ、頼み込んで刃を見せてもらったことがある。

 呼吸をするのも躊躇うほど、その刃文は美しかった。曇りや霞みや淀みなどは一切無く、少しでも触れてしまえばそこから濁りだしてしまうのではないかと心配になるほどだった。

 鍛え抜かれた刀身は部屋の灯りに照らされ、二振りの剣は、揃いで並べると共鳴するように輝いていた。

 ヤルキンの趣味は、この名剣によって目覚めさせられたといっても過言ではない。実際に多くの好事家たちが、あの剣を見せてくれと頼み込みにきた。彼女は決して、首を縦に振る事はなかった。それを見て、自分はこの目で見たのだと、平身低頭なマニアたちを眺めながら内心優越感に浸ったこともあった。

「いつか君にも振れる時が来るよ」

 そのいつかが訪れることを先生は決して疑っていなかった。そんな瞳で、彼女はあの大剣を背負う。

 ――自分でこれを扱ってみようとか、そんな気にはなれなかった。自分は英雄ではないし、そんな器でもないし、こんな子供らしくないことを言ったら困らせてしまうこともわかっていた。

 ――だから、代わりにこう言った。

「俺がこれよりもすごい剣を作るよ」

 そうだ。使うよりも、作ってみたかった。どうすればこんな高見にいけるのかはわからない。一生かかっても無理かもしれない。あるいは、志半ばで諦めることになるかもしれないが、それでも……。

 一度見た憧れを、捨てることはできなかった。英雄は死ぬが、その手にとった武器は後世まで残るかもしれない……。そうなった時に、名前よりも美しさや造りの素晴らしさで圧倒できるような、そんなものを作ってみたいと思った。

「そうか、じゃあそれで竜一匹倒してこようかな」

 冗談でも子供を喜ばせるための嘘でもない。この人ならどんななまくらでも竜を殺すことができるだろう。

 けれど、そこらのがらくたが活躍する英雄譚など存在しない。だから、この人に恥じないものを作る。

 …………というようなことを誓った、気がする。

 曖昧な思い出だ。明細ではない。けれど、その骨格は今でも頑丈なままだった。


「……………………」

(随分と懐かしい夢だったな……)

 重い体を起こして、あたりを見回す。二人はまだ夢の中にいた。明かりが落とされているので、細かくは見えない。日の光を浴びないと、目を開けてもまだ夢の続きを見ているような気分だ。

(結局、職場も転々として、ろくに鍛治師として技術もつかないまま探索者になって――これじゃあ英雄の武器なんて、一生作れっこない)

 ──このままでいいのだろうか。

 目を覚ますと、否応にでも先ほどのことを考えなくてはいけない。

 何も解決しないまま竜の巣に行ったところで、うまく連携を取れずにもたつくことは確実だ。

 このひりついた空気をどうにかして変えなくてはいけない。

 悶々と一人で考えている間に、二人が眠りからさめていく様子が見えた。

 行かなくては。

 どれだけ現実がクソでも、歩みを止めればそこでおしまいなのだから。

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