珈琲の渦

中村ハル

第1話

「紅茶と珈琲、どっちが好き?」

 僕は、読んでいた文庫本からゆるゆると顔を上げた。

「どっち?」

 躊躇っている僕を、許してほしい。だって、満面の笑みで尋ねているのは、知らない男なのだから。

「えっと」

 首の後ろに手を伸ばす。今朝から首の付け根の辺りが痒かった。指先が、昨日まではなかった小さな膨らみを捕らえて爪で引っ掻く。今年は蚊の出没が早いらしい。

 僕は周囲をぐるりと見渡す。

 彼女と待ち合わせをしているカフェは、ランチの客が出て行ったばかりで閑散としていた。本当は、ランチを一緒にする予定だったのだが、いつも通り、今日も遅い。僕は時計をちらりと見る。机の上の珈琲は冷め、文庫本はだいぶ進んだ。

「聞いてる?」

 男はがたりと、僕の前の椅子を引いて当たり前のように腰を下ろした。混乱しつつ、もう一度、周囲を見る。相席をしなければならないほど、混んでいる様子もない。

 あまりに堂々としているので、僕は脳内の記憶ファイルを次々と開く。誰か、知り合いだろうか。いや、そうに違いない。「ん?」と返事を促す顔にはまだ幼さが残っていた。

「紅茶、それとも珈琲」

「え、えっと、珈琲?」

「そっか。俺は紅茶」

 男のオーダーを持って来たらしいウエイトレスが、元の席にいない男を探して狼狽えているのを手を振って呼び寄せている。ほっとした顔でやってきた店員がテーブルに置いたのは、男の言葉通り、香りのよい紅茶だった。

「でも、今の気分は珈琲」

「は?」

 素っ頓狂な声が出たのは、男が湯気の立つティーカップと、僕の冷めた珈琲とをするりと入れ替えたからだ。

「え、ちょっと……」

 さすがに見過ごすわけにもいかず、とはいえ頭が混乱して事態についていけない僕は、ただ情けのない声を上げて手をうろうろと彷徨わせただけだ。

「俺が誰だか思い出せないんでしょ」

 片目を眇めて、男が低い声を出した。僕は咄嗟に返事ができない。図星だからだ。

「えっと、その……申し訳ない」

 年齢から言って、同級生ではありえない。職場の同僚でもないが、会社が入っているのは大きなビルだ。ひょっとしたら、どこかで立ち話くらいはしたかもしれない。それとも、どこかの居酒屋で、酔っぱらった僕と意気投合でもしたのだろうか。あらゆる記憶をほじくり返す僕を見て、男はカップを引き寄せた。

「まあ、いいけど」

 そう言いながらも俯いて、じっと珈琲を見る。責められているわけではないのに、どこか拗ねた口調にどぎまぎとしてしまう。

 何と声を掛けてよいのか戸惑う僕を尻目に、カップが持ち上がる。

「苦い」

 一口飲んで、そう言った。

「いつもこんな苦いの飲んでるの?」

 話題が反れて、ほっとする。

「あ、深煎りが好きで……酸味のあるのは苦手だから」

「へえ、詳しいんだ」

 何をぺらぺらと答えているのか。だが、彼女が珈琲を丁寧に淹れるのを見ているのが好きだ。それを思い出すと、自然に口元が緩んでしまう。男は愛想よく相槌を打ちながら、スティックシュガーの封を裂いていた。

 温かいのを頼めばいいのに。そう思って何気なく見た珈琲のカップに、何か浮いている。

「あ、虫が……」

 告げる間もなく、砂糖がさらさらと細い紙の袋から零れ出た。冷たくなった珈琲の面、白い粒が蠢く何かを押し潰して沈めていく。

 気が付かなかったのかと思ったが、男は見開いた眼差しで砂糖の山が沈むのを眺めている。凍てついた瞳のまま、唇がほんのわずかに、ねじ曲がって笑った。

「……えっと」

 遠慮がちに発した僕の声に、男はふっと、目元を緩める。

「え、ごめん、何? 考え事してた」

「虫、入ってたかも」

「虫? そんなことないよ、見間違いだよ」

 にこにこしながら銀色のスプーンで、珈琲をかき混ぜていく。渦を巻いた琥珀の水面は、鳴門海峡の如し。

 その蟻地獄を彷彿とさせる渦の中心に、ほんの一瞬浮かんだ何かが飲み込まれて消える。

「ほら、やっぱり」

 止めようとした僕に構わず、男はカップに指をかけて、ぐっと呷ってしまった。

 上目に僕を見ながら、ゆっくりとカップを下ろす。白い陶器から薄い唇が離れるときに、やけに鮮やかな舌先がぺろりと覗いた。

「ごちそうさま」

 小さな音を立ててカップを置くと、男は唐突に席を立った。

「君さ、家に帰ったら蚊取線香焚いておきなよ」

 僕は咄嗟に首に手をやる。季節外れの蚊に喰われた痕が妙に熱を帯びていた。

「それ、放っておくと危ないからさ。つまみ食いして美味しかったから、あいつら、中から君を喰おうって魂胆だったみたいだよ。珈琲なんかに紛れたりして、健気だ」

 言いながら、ちらりと視線が店の入り口に投げられる。ガラス扉の向こうに見えるのは、朝からずっと待ち望んでいた彼女だ。

「それと、悪いこと言わないからさ、別れちゃいなよ、そんな何時間も待たせるような女となんか」

「え」

「その本、買ってきたばっかでしょ。今日発売の新刊だ。なのに、もう半分も読んでる」

 僕は反射的に、置いてあった文庫本に手を触れる。呆れた、と男は溜息を吐いてみせた。

「大方、君の珈琲好きだって、彼女に仕込まれたものだろ。珈琲は苦い。毒も薬も混ぜてしまえば判らないほどにね」

 空のカップを銀のスプーンで鳴らして、じっとこちらを見透かしてくるその目は、面白いものを見つけたと、はしゃぐようでもある。

「君は……」

「俺は平気さ、悪食だから。珈琲の苦味で誤魔化せばなんでもいける。悪意も欲も、怪しい虫も」

 手を振って僕の心配を退けるが、聞いたのは、そういうことではない。でも、そんなことは知らぬ顔で、男は僕に指を突き付けた。

「このままだと、君は内側を食い荒らされて、ぼろぼろになるよ。あいつらはそうやって増殖するんだ。中身を空っぽにしてから、自分を詰め込むのさ、破裂するまでね」

 それは、彼女のことか、それとも珈琲と共に飲み干されたあの虫に似た何かのことなのか。訊こうとした僕に、ばいばい、と背を向けて、それから男は肩越しに振り向いた。

「そうだ。俺と君は何の面識もない。だから、俺が誰か思い出さなくてもいいよ。気になっちゃってさ、君の周りを飛び回ってたアレが、カップにダイブしたもんだから」

 にやりと目を細めて、男は店を出て行った。擦れ違いざまに僕の彼女に、凍えるように美しい笑みを向けて。

「何、今の人、知り合い? カッコいいね!」

 待ち合わせ時間は大幅に遅れていた。屈託なく笑う彼女は今日も可愛らしく着飾っていたが、僕の心はもう、ほんの少しも華やがなかった。

「珈琲二つください」

 通りすがった店員に、彼女が軽やかに告げる。

「いや、ひとつで」

 彼女が訝しげな顔で僕を見た。

「話があるんだ。それが済んだら、すぐに帰るから。だから僕は、これでいい」

 一度も口を付けていなかったカップを引きせる。冷めてしまった紅茶の水面はどこまでも透明で、静かに凪いでいた。

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珈琲の渦 中村ハル @halnakamura

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