彼女は嘘をつくのがとても上手だった
國枝 藍
金木犀の君へ
私が死ぬまでを書いてほしいの。
突然の手紙が届いたのは四月のある日、満開の桜が僅かに散り始めた頃のことだった。
差出人は、中野
ブルーの絵の具を薄く溶かしたような淡い色の便箋には、あの頃と変わらない流れるような筆跡で、丁寧に文字が綴られていた。
* * * * *
お久しぶりです。お元気ですか。
頼みたいことがあって、手紙を書きます。連絡先も変わっていたようなので。
手紙を書くなんて、もっと簡単なことだと思っていました。でも、いざペンを手にとると、どう書き出したものか、と思いのほか迷ってしまう。
誰かのことを思い浮かべて、その人のために言葉と思いを割いていく。仕事柄、涼にとっては慣れたものでしょうが、私に関していえば、こういう時間は随分と久しぶりのことのような気がします。
私は変わらず、女優の仕事をしています。
あの頃は憧れでしかなかったこの仕事も、最近は少し軌道に乗ってきて、嬉しいような、照れくさいような、まだ信じられないような、なんだか不思議な気持ちがしています。
涼はどうですか。変わったことはありますか。変わらないことは何ですか。どこで、誰と、何をして生きていますか。
私は今の涼のことをなんにも知りません。
お願いがあります。
私が死ぬまでを書いてほしいの。もし、涼の仕事が変わっていなければなのだけれど。
私はあなたの書く文章が、紡ぐ言葉の一つ一つが、とても好きでした。
詳しいことは直接会って話せたら。都心から少し離れたところに、知り合いのお店があります。名刺を入れておくので、良ければそこで。週末であれば私はずっとそこにいるので、いつでも、涼の都合のいい時間に。
急な手紙を最後まで読んでくれてありがとう。あなたに会えることを祈っています。
中野小夜
* * * * *
名刺の住所にあったのは、住宅街の路地にひっそりと佇む喫茶店だった。
京王線の限りなく果ての駅。ほんの小さな街だ。少し古びていて、でも整然としている。
街にしっかりと溶け込んだ建物の外観は、とても喫茶店には見えなくて、土地勘のない僕は見つけるのに少し苦労した。
扉の前に申し訳程度に下げられた小さな看板には、朝焼けのような美しい色のインクで店名が書かれていて、なんだか不釣り合いな印象を受ける。
狭い入口を身を屈めるようにして通ると、風鈴のようなベルの音が軽やかに鳴る。昔、小夜と繰り返し観たジブリ映画に似たようなシーンがあったことを、僕はふと思い出す。
古民家を改装したようなレトロな雰囲気の内装。流れるジャズミュージックが耳を攫い、深いコーヒーの香りが鼻の奥を刺激する。差し込む自然光は昼間の照明には十分な明るさで、店内の電燈は夜に向けてひっそりと休んでいる。
カウンターの奥で豆を挽いていた店員が僕に気付くと、微笑みながら会釈をした。
土曜日の昼下がり、思いのほか広かった店内に、人の姿はまばらだ。
窓際の小さなテーブル席に、小夜は頬杖をついて座っていた。
机にはハードカバーと花柄のカップ。視線は窓の外へと向けられている。
「久しぶり」
声をかけると、小夜は店内に目を戻す。僕の姿を認めると、ふっと口元が緩んだ。
「久しぶり」
注文を取りにきた店員に、ブレンドを、と告げてから、僕は木の椅子に浅く腰掛ける。対面で少し困ったように笑っている小夜は、驚くほどあの頃のままだった。
袖口から覗く細い腕と淡い色の腕時計。華奢な肩。陶器のように白い首元。絵画のように整った輪郭。綺麗に通った鼻筋とどこかあどけなさを残した二重の大きな瞳。
服装は、淡い緑のブラウスに白のフレアスカート。飾り気のないシンプルな格好がよく似合っていて、かえって洗練されている印象を受けさせる。
「相変わらず綺麗だね」
「思ってもないくせに」
軽口の一往復が、いとも簡単に僕たちを五年前へと巻き戻す。
「でも、すごい活躍だね。もうすっかり有名女優じゃないか。ドラマや映画で観る度に、この人は僕が知っている小夜と本当に同じ人なのか、不思議な気持ちになる」
「そんなことないよ」
謙遜した小夜の口調があまりにも記憶の中のそれと同じで、僕は一瞬息が詰まる。
「涼は? 少し痩せた?」
「うん。そうかもしれない。去年会社を辞めてフリーになったんだ。それから自分でやらなきゃいけないこともだいぶ増えたから」
「仕事は変わっていないの?」
「うん。ライターってやつなのかな。エッセイやらコラムやら小説もどきやら。幅広く、なんて言うと聞こえはいいけど、つまりは文章の何でも屋だね」
出てきたブレンドコーヒーにミルクと砂糖を少し入れて、一口すする。
「手紙をありがとう。これは仕事の依頼、ってことでいいのかな?」
「うん。もし受けてもらえるものであれば」
「内容について聞かせてもらっていい? 正直まだ分からないことだらけなんだ」
「そうだよね。ごめん」
小夜は申し訳なさそうに笑った。
「私ね、もうすぐ死ぬの。この間、久しぶりに検診を受けたら、少し大きな病気が見つかって。もちろん日本の医療はすごいから、早く見つかれば治らない病気ではないし、進行を遅らせるような薬もあるんだけど、私の場合は、もう段階が随分進んでしまっていて」
重い内容とは裏腹に、引っかかりのない小夜の口調に、陰鬱さは感じられない。
「死ぬまでを書いてほしい、っていうのはそういうこと?」
僕もなるべく深刻な声にならないように努める。
「うん。ちょうど今週で受けていた仕事とか撮影が全部終わって。ここから残りは自分で使える時間なの。途中になってしまうと迷惑をかけることになるから」
「どうしてこの依頼を?」
そう訊くと、小夜はふっと息を洩らす。
「私がよく言ってたことを覚えてる?」
「誰にも忘れられない女優に、ってやつ?」
「そう、それ。私は、誰にも忘れられない女優になりたい。誰かの心の中に、いつまでも図々しく居座ってやりたいの。そのための手伝いを涼にしてほしいんだ」
「僕にできることならなんでも」
少し改まって言った僕を見て、小夜はふわりと笑った。
「そんなに難しく考えないで。昔みたいな感じでいいんだよ。私と話して、私が思っていることとか考えていることとか、そういうことを言葉にしてもらうだけで。そして私がいなくなったら、その原稿を世に出してほしいの。どういう形でかは全部涼にお任せするけど、なるべくたくさんの人の目に触れると嬉しいかな。人から忘れられてしまうのって、他の何より悲しいことだと思うから」
「なるほど。分かった。依頼を受けるよ」
「ありがとう。お願いします。あと、報酬の額は涼が決めて。そんなにたくさん持っている訳ではないけど、もうすぐ私には必要なくなるものだから」
壁にかけられた古い時計が、くぐもった音を鳴らして、三時を告げる。
肩で切り揃えられた小夜の薄茶色の髪が、差し込む光に透けながら揺れている。
「最後に一ついい?」
「もちろん」
「なんで僕に? 出版関係の知り合いなんて他にもたくさんいただろうに」
「一番信用できると思ったから」
小夜はしばらく考えて、少し含みのある言い方をした。
「それは仕事に関して、ってこと?」
「あらゆることに関して、だよ」
その日から、元恋人への取材が始まった。
僕は受けていた他の依頼や仕事を全てキャンセルして、小夜に話を聞く時間をなるべく多くとるように努力した。小夜の予定に合わせて、僕はいつでも、どこへでも行った。
小夜の望みを叶えてあげたい、と思ったのだ。誰にも忘れられない女優になりたい、という夢を。情かと訊かれたらそうだと答えるしかなかったし、公私混同だと言われたらまさにその通りだった。
小夜の口から出る言葉の全てを僕は記録した。要約も省略もしない、そのままの形で。
「小夜はどうして女優になったの?」
長い梅雨がようやく開ける頃には、僕たちの会話は仕事と呼べるものよりずっと砕けていて、ほとんど昔に戻ったようだった。
「子どもの頃からの夢だったから」
「もちろんそれはそうなんだろうけど、僕たちが通っていたのはそれなりの大学で、周りは教師になったり公務員になったり、あるいはどこかの企業に就職したり、そういう進路を選ぶのが一般的だった。その中で女優という道を選ぶのは、そうだな、何ていうか」
「大丈夫。言葉を選ばなくていいよ。そうだね、現実的ではなかった」
「じゃあ、どうして?」
改めて言うのは恥ずかしいんだけど、と小夜は少し下を向いて笑った。
「小夜は演技で誰かを救える人だ、って言ったの覚えてる?」
「僕が?」
「ほら、やっぱり忘れてる」
「ごめん」
「ううん、いいの。こういうのって言った側はすぐに忘れてしまうものだから。でもね、私はそれが本当に嬉しかった。それはもう涙が出るほど。嘘じゃないよ。ほんとに。私がやりたかったことって、まさにそれだったから。私はね、演技で誰かの心を救える人でいたかった。人の心にかかった呪いを解いてあげられる女優でいたかった。そんなふうに誰かの心に関われたなら、見ず知らずの誰かの胸の内に住めたなら、誰にも忘れられない女優になれたなら、そんなに素敵なことって、きっとないと思うから」
ここまで言うと、真面目なインタビューみたいだね、と小夜は笑った。
「いいんだよ。これは取材だから」
「うん。ただ、あの頃の私にあったのは女優という仕事への漠然とした憧れだけで、それに見合った覚悟も実力もなかった。でもね、涼の言葉を聞いた時、自分のことは信じられなくても、私の演技を信じてくれる、あなたの気持ちを信じてみようと思ったの」
「知らぬ間に僕は小夜の将来を決めてしまっていた訳だ」
怖いね、と僕が冗談めかして笑うと、小夜もおんなじ顔をして笑った。
「そうだよ。きっと人はね、出会った誰かに影響されずに生きることはできないの」
訊くことは尽きなかった。僕はあんなに深く小夜の内側に入ったつもりでいたのに、まだまだ知らないことだらけだったということを、思い知らされていた。
小夜はよく食べて、よく話して、よく活動した。朧げな大学時代の記憶と比べても明るくなっていると錯覚するほどで、病気は快方に向かっているのでは、などという希望すら僕は抱き始めていた。
入院が決まった、という連絡が来たのは、記録的な暑さが東京で観測された、八月の初めのことだった。
「ねえ、涼」
九月のある日、面会時間の終わりに僕が立ち上がった時、小夜は窓の外を見ていた。自由に出歩くことができなくなって、小夜は外に目をやることが多くなった。
「ん?」
「少し外を歩きたい」
僕もつられて窓の外を見る。
ため息が出るような美しい夕焼け。その上に覆い被さるように広がる藍色の星空。遥か先の地平線で夕方と夜が混ざり合う。
「怒られるよ」
「別にいいよ。怒られるのは病人を連れ出す涼でしょう?」
小夜は愉快そうに笑った。最近思わしくなかった体調も、どうやら今日はいいらしい。
僕はそれからしばらく粘っていたけど、
「まあ後のことは後で考えようよ」
という小夜の言葉に最後は頷かされた。
昔からこうだった。小夜がどうしてもと望むなら、結局僕はそうするしかないのだ。
外に出ると、昼間の暑さの面影はなくて、心地よい風が僕たちの輪郭をなぞっていく。
秋は特に色濃く夜のにおいがする。懐かしくて温かいのに、少しだけ湿っぽくて、どこかさみしさが付き纏う、そんな夜のにおい。
「月が綺麗だね」
小夜は東の空に手を伸ばしていた。ほとんど満月だった。
「告白?」
僕はおどけてみせる。
「さあ。お好きに」
小夜も笑う。
じゃれるような冗談と共に吐き出された息が、ゆっくり空へと溶けていく。
中身なんてない話、屈託のない笑い声。
お見舞いの品が甘いものばかりで食べ切れないとか、担当の新人看護師が同い年だったとか、今日が終われば忘れてしまいそうな報われない会話が、細いアスファルトの道の上に、ぽつりぽつりと落とされる。
「金木犀のにおいがする」
ふいに小夜が顔を上げた。
「もうそんな季節?」
「ちょうど今頃だよ。もう秋だもん」
「東京にもちゃんと金木犀ってあるんだね」
当たり前のことを口にした僕に、そりゃ東京にもあるよ、と小夜は笑った。
「この道をもう少しまっすぐいくとね、小さな公園があってね、その公園は道路から隠れるように金木犀の木に囲まれているの」
「すごい。小夜にとっては楽園だね」
「そうなの。その公園には、古いジャングルジムと、短いすべり台と、大人だとすぐ足がついちゃうくらいの雲梯があってね、それから端の方にある街灯の下には、間を詰めればやっと二人が座れるくらいの小さなベンチが一つだけ置いてあるの」
小夜は楽しそうに、それからとても丁寧に、一枚の絵を描いていくみたいに話した。
「素敵な公園だね」
「でしょう?」
「うん。じゃあ今日の散歩の目的地はそこにしてみようか」
「それはちょっと無理かな。そんな公園がもしあったらいいな、って思っただけだから」
小夜は横目で僕を見て悪戯っぽく笑った。
「やられた」
僕もつられるように笑ってしまう。
昔のままだった。こういうことがよくあった。小夜はどんなことでも自信満々に言うものだから、僕はいつだって簡単に騙されてしまった。小夜はそんな僕をしばらく泳がせた後、嘘だよ、と楽しそうに笑うのだった。
「よくあったよね。こういうの」
心の中を読んだかのように小夜が呟く。
「そうだね。よくあった。小夜にはたくさんいい嘘をつかれた」
「いい嘘?」
「うん。誰も傷つけない嘘。小夜は昔からそういう嘘をつくのがとても上手だった」
「それはいいことだと思う?」
「そりゃもちろん」
「ならよかった。嘘はね、たくさんの本当の中に、一粒だけ混ぜるんだよ」
小夜は一瞬、遠くを見て笑った。
大通りに出たところでタクシーを拾った。
別にすぐだし歩けるのに、と駄々をこねる小夜を後部座席に乗せて、多摩病院まで、と行き先を告げる。
運転手は病院着の小夜と私服の僕を交互に見て、一瞬訝しむような顔をしていたけど、何も詮索はしてこなかった。
久しぶりの外出に余程疲れたのか、タクシーが走り出すとすぐに小夜は寝てしまった。
あっという間に通り過ぎる街灯の明かりに照らされて、すっきりしたうなじの白さが暗闇の中に浮かび上がる。
目をそらすように窓を開けると、ふわりと夜のにおいが飛び込んできて、それだけで僕は、なぜか泣きそうになった。
二、三十分かけて歩いた道のりもタクシーでは一瞬で、ものの数分で病院に着く。
腕を回すようにして抱き抱えると、小夜の小さな体はびっくりするくらい軽かった。
階段を上がり病室を目指す。リノリウムの床を打つ僕の足音だけが夜の病院に反響する。
ベッドに寝かせて布団を掛けると、ありがとう、と小夜は口元を緩めた。
「起こした? ごめん」
「ううん。いいの」
「疲れたでしょ?」
「少しだけだよ」
常夜灯。紺のカーテン。少し萎れた花瓶の花。深夜に片足を踏み入れた病室は、とてもゆっくり時間が流れていく。
「私が死んでもさ」
小夜がふいに呟いて、その言葉の意味を確かめるようにゆっくりと息を継いだ。
「私が死んでもさ、世界は何一つ変わらないんだろうなあ。私の代わりは世界中に溢れているし、問題なんて何も起こらない。そんなの当然のことなのに、悲しいことでも何でもなくて、そうやって世界は正しく回っていくはずなのに、どうしてそれをさみしく思ってしまうんだろう。どうして人は誰かにとっての唯一になりたがってしまうんだろう」
僕は何も言わなかった。言えなかった。慰めも励ましも、他のどんな言葉も、きっと口にするべきではないような気がした。
「何も言わないでいてくれてありがとう」
しばらくして小さく息を吐くと、小夜はそっと僕の頬に触れた。
「何も言えないだけなんだ」
「ううん。それでいいの。あなたはとても優しい人だから」
狭い病室の中にじんわり夜が満ちていく。部屋中が藍色に染まって、僕たちは光の届かない深い海の底へと沈んでいく。冷たくも苦しくもなかった。まるで世界にふたりぼっちになったような、静かな静かな夜だった。
季節は巡る。葉が鮮やかな色を付け、やがてそれを地面に落とし、街には初雪が舞う。
僕は変わらず足繁く病室へと通った。小夜は寝ている時間が次第に長くなっていて、僕の問いへの答えも少しずつ短くなっていた。
時間は限られていたけど、僕は変わらず取材をした。用意してきた質問をして、他愛もない世間話をして、時には昔の出来事を思い出して。その一つ一つを丁寧に記録した。小夜がそれを望んでいたし、僕もそうすべきだと思った。そして今の僕が小夜にしてあげられることは、それ以外に何もなかった。
「ねえ」
十二月。急な電話。いつもとは少し違う小夜の声の雰囲気に、僕は一瞬身構える。
「今夜は今年1番の冷え込みとなるでしょう」
付けっぱなしのテレビでは、天気予報士が曇った声で告げている。
「会いに来てくれる?」
「それはもちろん」
天井の電気に繋がる紐を引いて、壁に掛かった時計を確認すると、休日は終わろうとしていた。
「八時くらいになるかな。すぐに向かうよ」
「ごめんね。ありがとう」
疲れたように微笑む気配を残して、短い通話は切れた。
帰宅ラッシュの電車を乗り継いで病院に着いたのは、八時を少し過ぎた頃だった。
明かりの消えた受付では中年の看護師が何かの書類を整理していた。僕に気付くと軽い会釈をして、また仕事に戻る。
微かに聞こえる電子音、消毒液のにおい。一年中じめじめしている病院特有の空気が肌にまとわりつく。
一段飛ばしで階段を上がって、暗い通路の先に見える非常口の光を頼りに病室を目指す。
そっと扉を開けると、横になっていた小夜は気配に気付いて薄く目を開けた。
「ごめん。遅くなった」
「ううん。ありがとう。こんな時間に」
「気にしないで。予定なんて何もないから」
ベッド脇の椅子に僕が腰掛けると、懐かしいね、と小夜が呟く。
「あの頃もこんな感じだったよね。涼はいつでも来てくれた。休日でも、友達といても、もう電車なんてない時間でも。私が呼んだらほんとにいつでも。どこにいても」
「懐かしいね。ほんとに」
「たくさん振り回してごめんね」
「ううん。僕はそれが嫌じゃなかったから」
ありがとう、と微笑んで、小夜はゆっくり起き上がろうとする。僕は手を貸す。もうほとんど身体に力は入らないようだった。
「寝たままでいいのに」
「ううん。顔をしっかり見ておきたいの」
小夜はまっすぐ僕を見つめる。窓の外の星空をそのまま映すような、綺麗な瞳。
「話があるの」
大切な箱の中からそっと言葉を取り出すような注意深さで、小夜は言った。
「うん。だと思った」
「私ね、涼に手紙を書いた時から、ずっと嘘をついていたことがあるの」
「それは大事なこと?」
「うん。それはそれは大事なこと」
小夜は少しおどけてみせた。
「私ね、本当は誰にも忘れられない女優になんて、なれなくたっていいの。涼が書いてくれている私についての原稿が世に出されるかどうかも、本当はどうだっていいの」
ここまで言うと、呆気にとられた僕の顔をゆっくり味わうように見た。ごめん、と膝の上でだらしなく組まれた僕の手に触れる。
「もうすぐ死ぬんだ、って分かった時、頭に浮かんだのは涼のことだった。涼と一緒にいた、大学時代のことを思い出した。日当たりの悪いワンルーム、毎週観ていた音楽番組、コンビニまでの細い路地。飲み会終わりの深夜のタクシー、いつの間にか兼用になっていたサンダル、隣で笑うあなたの横顔。近所の定食屋さんはただ安いだけで、そこまで美味しくはなかったよね。目的地もなく適当に電車を乗り継いで、遠くの海まで行ったよね。二人で眠るシングルベッドは狭すぎたけど、あんなに幸せな場所を私は他に知らないよ。あの頃の私はどうしようもなく子どもで、世間知らずで、無防備だった。憧れだけで夢を見ていて、現実からは目を背けていて、でも、私を信じてくれる涼の気持ちだけで、本当に何だってできるような気がしていた。愛していて、愛されていた。今でも涼のことが好きかと訊かれると、正直よく分からないの。誰かを愛しているという気持ちは、本当に一瞬のものだと思うから。でもね、一つ確かなのは、あの時間が私にとっては特別だったということ。あの頃の何でもない毎日とあなたの言葉に支えられて、私はこうして生きてこれたのだということ。私はね、あなたに覚えていてほしい。他の誰でもなく涼に手紙を書いて、依頼をして、私の最後の時間を預けたのは、涼だけには忘れられたくないと思ったからなの」
「全然、気付かなかったよ」
「女優だもん。それにね私、どうやら嘘をつくのは上手らしいから」
小夜は目だけで悪戯っぽく笑って、それから、ふう、と大きく息をついた。
「苦しい?」
穏やかに首を振る。
嘘かもしれないし本当かもしれなかった。
本当だといいな、と僕は思った。
「それにね」
繋がれた指先に小夜が微かに力を込める。
「それにね、私は涼ならきっと覚えていてくれるような気がするの。なぜか信じてしまえるの。引き摺ったり落ち込んだり、過去に囚われる必要は少しもないよ。でもどうか、私が生きていたことをなかったことにしてしまわないで。私にとってあなたと過ごした時間がどんなに輝いていて、かけがえがなくて、幸せなことだったのか、あの頃の私がどれだけまっすぐな思いであなたのことを愛していたのか、それを忘れてしまわないで。それが私があなたにしたかった、本当の依頼なの」
「約束するよ」
かろうじて言えたのは、それだけだった。何かを伝えなくては、と思えば思うほど、言葉はどこかへ消えていってしまうようだった。
でもそんな僕を見て、小夜は微笑んだ。それで十分だよ、というふうに。
それが僕たちの最後になった。
それから数日後、身を切るような寒さの早朝、小夜は静かに息を引き取った。
お亡くなりになりました。病院からの電話はもう終わったことを告げるものだった。
連絡を受けた僕が病院に向かう途中、笑ってしまうくらいに世界はいつも通りだった。タクシーではラジオが流れ、サラリーマンが道を急ぎ、駅前のロータリーでは潰れた大学生が眠りこけていた。すべてがどうしようもなく無機質で、乾燥していて、淡々としていた。
死に顔は穏やかだった。でもそれがつくられたものなのか、本当のものなのか、相変わらず見分けはつかなくて、喜んでいいのか、悲しんでいいのか、僕には分からなかった。不思議と涙は出てこなくて、自分の感情も今の状況も、本当のところは何ひとつ理解できていないような気がしていた。
通夜、葬式、告別式、そして火葬。小夜を向こうへと送りだす儀式はあっという間に進んでいった。初めから準備されていたような自然さで、滞りなく。
多くの人が彼女の死を悼み、理不尽に嘆き、涙を流した。連日報道がなされて、親交のあった芸能人がコメントを寄せた。明るくて優しくて、誰に対しても裏表のなかった小夜のことだ、芸能界でも多くの人に好かれていたであろうことは想像に難くなかった。
全てが終わると、それからはとてもゆっくり時間が流れた。時計の針はそれでも動き、一日は何度でも夜になり、朝を迎えた。そんな色を失ったような日々をひたすらに繰り返していると、気付くと一年は終わっていて、新しい年が始まっていた。
その間、僕はずっと家から出ずに、小夜との会話を思い出し、さらには大学時代の記憶にも手を伸ばし、それをただただ文字に起こし続けた。それは小夜のためというより、自分のための作業だった。
一月。初めての月命日。僕は書き上げる。
普段はデータとして保存する原稿を、僕は紙に印刷した。きちんと文字として世界に存在していることを確かめたかったのだと思う。
印刷漏れがないか、パラパラめくりながら流し見る。途中で手が止まった。
小夜が何度も何度も、繰り返し口にした願いを書き記したページ。
ふいに外を見ると、薄い雪が舞っていた。
僅かに窓を開けると、締め切っていた部屋の中に、凛とした静かなにおいが流れ込み、それが冬のにおいだと気付くまで、少し時間がかかった。
もうすぐ冬が終わる。冬が終われば春が来て、今年も綺麗に桜が咲く。懐かしい筆跡の手紙が届いて、あの喫茶店の窓際に、小夜は頬杖をついて座っている。
夏が過ぎて秋になれば、どこからか金木犀のにおいがして、僕は辺り一面を金木犀の木が囲む、楽園みたいな公園を探す。
きっと小夜は、そんな僕をしばらく見てから、嘘だよ、と楽しそうに笑うのだろう。
些細で、普通で、ありふれていて。
そんな小夜との特別を、きっと僕はいつまでも思い出す。
そっと窓を閉めて分厚い原稿に目を戻す。
文字が少しだけ遠くなって、波打つようにぼやけて揺れていた。
私、誰にも忘れられない女優になりたい。
彼女は嘘をつくのがとても上手だった。
彼女は嘘をつくのがとても上手だった 國枝 藍 @willed_ai
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