旦那様は魔王様⁉
シヴァはテーブルの上に広げたピンク色の包みを見つめていた。
中に入っていたチョコチップクッキーの大半はシヴァの胃袋におさまって、あと数枚が残っているだけである。
シヴァはソファに高く足を組み、視線をピンクの包みに据えたまま言った。
「余計なことをしやがって」
文句の相手は、真向かいで珈琲を飲んでいるアスヴィルである。
アスヴィルとは旧知の仲だが、外見に似合わず乙女思考のこの男は、たまに余計なことをする。
「なぜですか。味は保証済みですけど」
確かに美味かった。だが、シヴァはそういうことを言いたいのではない。
「……また持ってくると言っていた」
「いいことじゃないですか。好きでしょう、それ」
「あれを安易に俺に近づけるな」
「なぜ。あなたが連れてきたんでしょうに」
シヴァは渋い顔になった。
「……どう扱っていいか、わからん」
アスヴィルは奇妙なものを見たような顔をした。
「普通にしていればいいでしょう」
「普通? 普通とはなんだ」
「今こうして俺と話しているように、ですよ」
「無理だ」
即答されて、アスヴィルはため息をつく。
「生贄と言ったそうですね」
アスヴィルの声に非難するような響きが混じり、シヴァの渋面が濃くなる。
「ミリアムが怒っていましたよ」
ミリアムの名前を出すと、シヴァはアスヴィルを睨んだ。
「二言目にはミリアムだな」
「ええ。愛していますから」
臆面なく答えられ、シヴァは沈黙する。
ミリアムはシヴァの実の妹だが、数年前にこの厳つい顔をした男と結婚した。
それは、長い年月をかけ口説き落としたアスヴィルの勝利だった。
結婚して以来、この男が結婚前とは比較にならないほどミリアムを甘やかしていることをシヴァは知っているが、そのせいで以前にも増して強気の妹に、昨日の夜は乱入され追い払われる羽目になったことを、この脳内花畑男はわかっているのだろうか。
「扱いを間違うと、嫌われますよ」
アスヴィルの言葉には、いやに実感がこもっていた。
それはそうだろう。扱いを間違えてミリアムに毛嫌いされ、大変な思いをしたのはほかでもないアスヴィルなのだから。
「悪いが好きとか嫌いとか、そういう感情とは無縁だ」
「そうでしょうか?」
アスヴィルの視線が、静かに残りのクッキーに落ちる。
アスヴィルはシヴァが警戒心の強い男であることを知っていた。その男が、いくら好物とはいえ、他人の作ったものを安易に口に入れるとは思えない。
この男が、ミリーの言葉を借りるなら「暇つぶし」にそばにおいている女たちが―――あり得ないだろうが―――、もしも沙良と同じように菓子を作ったとしも、おそらくシヴァは口に入れず捨てるだろう。
そういう男だ。
この部屋にだってそうだ。
シヴァがこの部屋に「暇つぶし」の女を入れたところを見たことがない。
扉の前まで来たとしても、そこで追い返していることをアスヴィルは知っている。
厄介な性格の男だな、とアスヴィルは心中で苦笑して、ソファから立ち上がった。
「聞き流しても大丈夫ですが、俺から一つ助言です。あなたが言った生贄ですけどね、沙良はその意味をはき違えていますよ。そこを正すかどうかは、あなた次第ですけどね」
そう言って、部屋を出ていこうとするアスヴィルを、シヴァは呼び止めた。
「待て。そもそも、お前は何しにここに来たんだ」
問われて、アスヴィルは「あ」と今思い出したように立ち止まった。
「忘れていました、沙良を迎えに来たんです。どこですか?」
「は? あの女なら―――」
ばたぁああん!
シヴァが言いかけるのと、シヴァの部屋の扉が開かれて、怒髪天を衝く勢いで怒り狂っているミリーがあらわれたのはほぼ同時であった。
「あの女ぁあああ! どこ行きやがりましたあああああっ!」
※ ※ ※
ぴちゃん、とどこかで水が落ちるような音がする。
抱えた膝に額をつけて、沙良はその音を数えていた。
松明が消えかかり、地下牢の中はほとんど闇に包まれている。
もともと寒かったが、灯りが乏しくなると余計に気温が下がったように感じられ、沙良は小さく震えていた。
ぴちゃん、と数えはじめてから二百五十九回目の水音がする。
金髪の美女が言った通り、誰も来る気配がない。
本当にこのままここで干からびて死んでしまうのだろうか。
シヴァに連れてこられた昨日は、死ぬのもあんまり怖くないかもと思った。
それなのに、わずか一日で、死ぬのが怖くなっている。
それはきっと、この一日で、たくさんの優しさをもらったからだろう。
無自覚なうちに、沙良の心の中には、このまま、もっともっと優しくしてもらいたいという願望が産まれてしまっていた。
人間は欲張りだ。
知らなかった幸せを知ったら、もっとそれがほしくなる。
ぴちゃん、と二百六十回目の音がした。
もっと、ミリーとお話ししたかった。
もっと、アスヴィルにたくさんお菓子作りを教えてもらいたかった。
もっと―――
(シヴァ様と、お話し、してみたかった、かも……?)
そこだけ疑問形なのは、まだ「怖い」という気持ちが大半を占めているからだ。
けれど、このまま誰にも見つけてもらえなかったら、それも叶わないだろう。
ぴちゃん―――
二百六十一回目の水音を数えたとき、ギイィと蝶番がきしむ音がして、沙良はぼんやりと顔を上げた。
カツンカツン、と足音がする。
やがて、薄暗い闇の中に、背の高い黒い影があらわれて、沙良は息を呑んだ。
「シヴァ様……」
仏頂面のシヴァが、鉄格子を挟んだ目の前に立っていた。
※ ※ ※
ミリーは目の前の温室の扉を蹴破った。
慌てて追いかけてきたアスヴィルがそれに続いて、壊れた音質の扉をくぐる。
「見つけましたよぉ、この性悪女ぁあああああ!」
ミリーが乱入するまで、優雅に温室で午後のティータイムを楽しんでいた女は、ミリーの鬼のような形相に「ひっ!」と悲鳴を上げてのけぞった。
「待て、落ち着け!」
今にも目の前の金髪の女に飛びかからんばかりのミリーを、アスヴィルが背後から羽交い絞めにする
「なにすんですか! 離しなさいっ! いくらあなたでも許しませんよ!」
背の高いアスヴィルに背後から抱きかかえられるように持ち上げられて、ミリーは手足をバタバタとばたつかせて暴れる。
アスヴィルは暴れるミリーを肩に担いで、目の前で顔を引きつらせている金髪の女に向き合った。
「邪魔をしたな。だが、今回はやりすぎだ。シヴァ様も黙ってないぞ」
淡々とアスヴィルが言ったが、女はすっとぼけた。
「な、なんのことですの?」
「沙良を閉じ込めただろう」
「存じ上げませんわ」
「……今、シヴァ様が迎えに行っている」
それを聞いて、女は大きく目を見開いた。
「なんですって……?」
とぼけていたことも忘れて立ち上がる。
その拍子に紅茶のカップが下に落ちて割れたが、小刻みに震えはじめた女は気にも留めなかった。
「なぜ……。なぜ、シヴァ様が迎えに行くんですの? あんな貧相な小娘を、どうしてシヴァ様が直々に迎えに行くんですの!?」
相当腹が立ったのか、女は温室の椅子を蹴飛ばした。
「なんなんですの、あの女! 地下牢に閉じ込めるなんて生ぬるいことをせずに、この手で引き裂いてやればよかった……っ」
忌々し気に吐き捨てる女に、アスヴィルが「あ」と思ったときは遅かった。
肩に担ぎあげられて一時はおとなしくなったミリーであるが、女のその一言にブチ切れた。
アスヴィルの腕を振りほどいて肩から飛び降りたミリーは、悪鬼のような形相で、パキポキと指を鳴らした。
「いい度胸だ、この性悪女ぁああああ!」
もはや、ぎりぎり保っていた敬語もかなぐり捨てている。
止めることを諦めたアスヴィルはそっとため息をついた。
「もういい、満足いくまで好きにしろ」
ややして、女の絶叫が温室中にこだました―――
※ ※ ※
ガシャン、と鉄格子が開いた。
しかし、沙良は立ち上がることもできずに、鉄格子を開けてくれたシヴァを見上げていた。
シヴァも無言で沙良を見下ろしている。
「立てないのか?」
シヴァが言った。
相変わらずの冷たい声だったが、沙良はひどくほっとして泣きそうになった。
シヴァは沙良のそばまで歩み寄ると、両手を伸ばして、ひょいと沙良の体を抱き上げた。
「―――っ」
横抱きに―――俗にいうお姫様抱っこいうやつだ―――抱え上げられて、沙良の体は硬直する。
「軽いな」
ぼそりとシヴァがつぶやいた。
沙良は恐る恐るシヴァの顔を見た。
端正な顔がすぐ目の前にある。不機嫌そうで、冷たい印象の顔だが、どうしてだろう、今はそれほど怖くない。
シヴァは沙良を抱えたまま鉄格子をくぐり、地下牢の階段を上りはじめた。
カツンカツン、と音が響く。
「悪かったな」
ぼそり、とシヴァが言った。
「え?」
聞き間違えだろうか? 今、シヴァは「悪かった」と言った気がする。
「体が冷えている。部屋に戻ったら、温かいものを飲ませてもらえ」
ついに耳がおかしくなったのだ。
シヴァの口から、優しい言葉が聞こえてきた。
沙良は何も言えずに、ただじっとシヴァを見つめていた。
沙良がいつまでも無言だったからだろう。シヴァは怪訝そうに足を止めて、沙良の顔を覗き込んだ。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
ぐっと整った顔が近くなって、沙良は慌てて首を振った。
「……怖かったのか?」
訊かれて、沙良は息を呑んだ。
少しだけだが、声が、優しい。
つん、と鼻の奥が痛くなった。
緊張の糸が切れたのだろうか―――。急に涙があふれてきて、沙良にはどうすることもできなかった。
突然ぼろぼろと涙をこぼしはじめた沙良に、シヴァの瞳が揺れた。
「お、おい……」
焦ったように言って、胸元からハンカチを取り出すと、沙良に握らせる。
沙良はそのハンカチに顔をうずめて、しゃくりあげた。
シヴァはしばらく茫然と立ち尽くしていたが、ややして、ぎこちない手つきで沙良の背中をぽんぽんと叩きはじめた。
その手は、子供をあやすように優しかった。
沙良はハンカチを放り出して、シヴァの胸に顔をうずめた。
ぎゅうっとしがみつくと、困ったような声が降ってきた。
「そんなに怖かったのか……?」
シヴァは上り途中だった階段に腰を下ろして、沙良を腕に抱えなおした。
背中を撫でていた手が移動して、頭を撫でられる。
「……アスヴィルに言われた」
ぽつり、とシヴァはつぶやいた、
沙良が少しだけ顔を上げると、涙でぐしゃぐちゃの顔に苦笑して、シヴァが続けた。
「生贄と呼んだのは、まずかったらしい……」
自嘲するような声だった。
「お前が違う意味に捕えている、と。……悪かった」
沙良は首を傾げた。
「違う、意味……?」
生贄に、違う意味など存在するのだろうか?
悩んでいると、シヴァは指の腹で沙良の頬を伝う涙をぬぐった。
「お前を殺すつもりはない」
「え……?」
「お前に選択肢はなかったから、生贄と呼んだが、正確には―――」
シヴァは手の甲で沙良の頬を撫でた。
「お前は俺の、花嫁だよ」
沙良は、脳天に雷が落とされたような気がした。
―――お前は俺の、花嫁だよ。
聞き間違いでなかったのなら、シヴァは確かにそう言った。
(花嫁……)
驚きすぎて、涙は引っ込んでしまった。
沙良はぽかんとシヴァを見つめる。
(生贄じゃなくて、花嫁……。妻……、奥さん?)
信じられないが、沙良はいつの間にか人妻になっていたらしい。
その相手は、目の前にいる恐ろしくキレイだが冷たい顔をした魔王様のようだ。
シヴァは沙良が泣き止んだのを知ると、沙良を抱えたままゆっくり立ち上がり、再び階段を上りはじめた。
シヴァに横抱きで運ばれながら、沙良は混乱する頭の中を整理しようと試みた。
つまり、あれだ。
沙良は十七歳にして、魔王様のお嫁さんになってしまったと言うことだ。
(そんな、ばかな……)
悲しい話だが、まだ生贄と言われた方がしっくりくる。
初対面の時にも言われたが、こんな「貧相」な自分を嫁にしなくても、魔王様の周りには美女がたくさんいるはずだ。
たとえば、沙良を地下牢に閉じ込めた金髪のゴージャス美女とか。
あまりに混乱しすぎて、沙良は部屋に到着するまで気がつかなかった。
「沙良様ぁああああ!」
部屋に到着すると、シヴァがそっと沙良を下におろすと同時に、ミリーが闘牛のように突進してきて沙良に抱きついた。
ぎゅううっと抱きしめられて、沙良は後ろに転びそうになる。
それを背後からシヴァが支えてくれ、どうにか転ばずに済んだ沙良は、ほっとしてミリーを見下ろした。
「よかったですぅ。もし沙良様に何かあったら、あの女八つ裂きにして、ミンチにして、ハンバーグにして、北の山のドラゴンの餌に……」
「やめておけ。これ以上はさすがに哀れだ」
忌々し気にミリーが言えば、ミリーの背後でため息まじりにアスヴィルがそれを遮った。
シヴァがアスヴィルに視線をやる。
「……何をしたんだ」
「聞かない方がいいと思うぞ」
少なくとも、もうこの城には戻ってこないな、とアスヴィルが告げると、沙良はびっくりした。
ミリーは沙良から少し離れると、勝ち誇ったようににんまりと笑った。
「沙良様を傷つけるものは、誰であろうと容赦しません」
「………」
昼も少し思ったが、ミリーはもしかしたら凄い人なのではないだろうか。
沙良はミリーを見て、次にアスヴィルに視線を向け、最後にシヴァを振りかえった。
生贄と呼ばれたり、突然花嫁になったり、まだ頭の中はぐるぐるしているが、昨日の朝まで暮らしていた部屋と比べると、全然違う。
シヴァが、冷たいけれど、ちょっとだけ優しさが混じっている双眸で沙良を見つめ返した。
沙良は、ふわっと笑った。
―――わたしは、十七歳の誕生日、魔王様の奥さんになっていた模様です。
旦那様は魔王様1 イケニエになりました!? 狭山ひびき @mimi0604
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