エピローグ


 エピローグ



 ボスポラス海峡の金閣湾に架かるガラタ橋を窓から臨むアパートメントの最上階の一室に、どこか近くのモスクから神の言葉であるアラビア語によるアザーン、つまりムアッジンと呼ばれる男性が発するイスラームの礼拝の時間を告げる声が届いた。


 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は唯一である事を証言する《أشهد أن لا اله إلا الله》

 神は唯一である事を証言する《أشهد أن لا اله إلا الله》

 ムハンマドは神の使徒である事を証言する《أشهد أن محمدا رسول الله》

 ムハンマドは神の使徒である事を証言する《أشهد أن محمدا رسول الله》

 いざや礼拝に来たれ《حي على الصلاة》

 いざや礼拝に来たれ《حي على الصلاة》

 いざや繁栄に来たれ《حي على الفلاح》

 いざや繁栄に来たれ《حي على الفلاح》

 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は唯一である《لا إله إلا الله》


 そんなアザーンの声を聞きながら、寝間着代わりの下着姿のままクイーンサイズのベッドの上に寝転がったバーバラとエマ、それに黒猫のスィヤフの二人と一匹は、遅い昼食後の怠惰な時間をそれぞれのやり方でもって自由気ままに過ごす。

「ねえバーバラ」

 スマートフォンでお気に入りの動画を鑑賞しながら、エマがバーバラの名を呼んだ。

「何だ、エマ?」

 トルコ語で『ナルギレ』と呼ばれる器具を使って水煙草を吸っていたバーバラが用件を問うと、そんな彼女にエマは問い返す。

「今日はこれから、何か用事あるの? 出来れば暗くなる前に、スタジアムまでバイクで送って行ってほしいんだけどさ」

「ああ、そうか。今日はフェネルバフチェの試合の日か」

「そうだよ、忘れてたの? それで、スタジアムまで送って行ってくれる? 駄目?」

「いや、構わないさ。ちょうど今日はこの後、夜から仕事の予定が入ってるからな。そのついでに、スタジアムまで送って行ってやるよ」

 水煙草を吸いながらそう言ったバーバラは、天井でくるくると回転するシーリングファンに向かってネクタリン味の紫煙を静かに吐き出した。そして暫しの間、気怠い午後の一時を何をするでもなくだらだらと暇を持て余した末に、彼女ら二人は寝室のクローゼットの前へと移動して外出の準備を始める。黒いレースの下着姿だったバーバラは黒い革のライダースジャケットとブーツカットのデニムジーンズに着替え、白いレースの下着姿だったエマは空色のキャミソールとデニムのショートパンツに着替えると、二人はどちらからともなく抱き締め合って唇を重ねた。

「ん? エマ、お前少し太ったか?」

 未だ幼さの残る少女の唇の感触と唾液の味を堪能したバーバラが指摘すると、その指摘をエマは真っ向から否定する。

「太ったんじゃありません、成長したんです! あたし、ほら、今がちょうど成長期だもん!」

「ああ、そうだな。ごめんごめん、そんなに怒るなよ。悪かったってば」

 平身低頭のバーバラは臍を曲げてしまったエマにABS樹脂製のジェットヘルメットを投げ渡し、彼女自身もまた自分のジェットヘルメット小脇に抱えながら寝室を後にした。そしてアパートメントの階段を駆け下りるバーバラの足元には踵に拍車が取り付けられたカウボーイブーツが、目元にはメタルフレームのサングラスが輝いている。

「じゃあね、スィヤフ。しっかりお留守番しておいてよ」

 彼女がサポーターを務めるフェネルバフチェSKのタオルマフラーを首に巻いたエマは寝室のベッドの上で丸くなっている黒猫のスィヤフに向けてそう言い残すと、バーバラと共にアパートメントの階段を駆け下り、やがて玄関の脇のガレージへと辿り着いた。

「バーバラ、今日はどのバイクにするの?」

 エマが尋ねると、バーバラは一台の大型バイクのハンドルを握る。

「そうだな、今日の気分はこいつかな」

 その大型バイクは黒を基調とした車体に鮮やかなライムグリーンのラインが踊る、日本のカワサキ社製のNinja1000であった。そして電動式のシャッターを潜ってガレージの外に出たバーバラはNinja1000に跨るとイグニッションキーを回して並列四気筒のエンジンを始動させ、ジェットヘルメットを被りながらエマに命じる。

「エマ、後ろに乗れ」

 命じられたエマがタンデムシートに腰を下ろし、バーバラが革のタクティカルグラブを穿いた手でクラッチレバーから指を離そうとしたちょうどその時、エマのスマートフォンがメッセージの着信音を奏でた。

「あ! バーバラ、ちょっと待って!」

 制止を求めるエマの言葉にバーバラはクラッチレバーを握り直し、発進直前だったバイクを急停車させると、メッセージの送信者を問い質す。

「ん? 誰からのメッセージだ?」

「アルゼンチンのアデーレから。ついさっき、小学校の入学式が終わったんだってさ。ほら、写真も一緒に送られて来てるよ」

 そう言ったエマがこちらに向けて差し出したスマートフォンの液晶画面には、フォーマルなドレスで着飾ったアデーレの眉目秀麗な立ち姿が写し出されていた。

「そうか、アデーレももう小学生になるのか。それでエマ、他に何か書いてあるか?」

「えっとね、クンツと屋敷の使用人だった女性との結婚が決まっって、来年の春には彼とそのお嫁さんの子供、つまりアデーレの従弟か従妹が生まれるから、今から楽しみだって書いてあるよ」

「へえ、あの童貞の早漏包茎インポ野郎に子供が生まれるって事は、とりあえず童貞とインポは卒業したって訳だな。だったらこれからはクンツの事を、使用人を孕ませたスケコマシの早漏包茎野郎って呼んでやるか」

 クンツの新たな蔑称を提案しながら、バーバラは意地が悪そうにほくそ笑む。

「それじゃあ、そろそろ出発するか」

 タンデムシートに腰を下ろしたエマがスマートフォンをポケットに仕舞うのを見届けたバーバラは、改めてクラッチレバーから指を離し、アパートメントのガレージからバイクを発進させた。そして今日も『肉屋』の称号を頭上に冠しつつ、褐色の肌のバーバラはイスタンブールの街を疾走する。


                                    了

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肉屋のバーバラ 大竹久和 @hisakaz

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