第十二幕


 第十二幕



 イスラエル総領事館襲撃事件から数日後の正午過ぎ、バーバラとエマ、それにクンツとアデーレの四人の姿はイスタンブール国際空港の出国ロビーに在った。

「もうこれで、お別れだね」

 出国ロビーに並べられた簡素な椅子に腰掛けながら両脚をぶらぶらさせているアデーレの言葉に、バーバラが応える。

「ああ、残念だがこれでお別れだ。お前らがアルゼンチンに帰ったら、もう二度と会う事も無いだろう」

「そっか……残念だね」

 そう言ったアデーレは悲しそうな表情のまま顔を伏せてうつむき、必死に涙をこらえているように見受けられた。そして彼女が涙をこらえている間も、出国ロビーの通路上を多くの国や地域の様々な人種や民族の人々が忙しなく行き交い、彼らが生活するこの世界の広さと多様性を否応無く実感させて止まない。

「今回の一件では何から何まで助けていただきまして、本当に、本当にありがとうございました。あなた方お二人には、幾ら感謝しても感謝し切れません」

 バーバラとエマに向けて感謝の言葉を述べたクンツの手には、彼らナチ党の残党組織を支援するオデッサが準備した二人分の偽造パスポートと、アルゼンチン共和国までの片道の旅券が握られている。この偽造パスポートと旅券を利用して、クンツとアデーレの二人は次の便でアルゼンチン共和国へと帰国する手筈が整っているのだ。

「おい、クンツ」

 クンツの肩を煉瓦の様に固い拳で軽く殴りながら、バーバラが忠告する。

「もう二度と、薄汚いユダヤの豚どもにアデーレを拉致されるようなヘマを犯すんじゃないぞ? それにこれからはアデーレをアドルフ・ヒトラーの孫娘だとかどうだとか言う下らん色眼鏡で見ずに、一人の人間として接する事を忘れるな。もしその点を忘れて彼女を再び拉致されたなら、その時はあたしがアルゼンチンまでお前をぶっ殺しに行く。分かったな? 分かったら返事をしろ!」

「は、はい!」

 脅迫にも近いバーバラの忠告を聞いたクンツは、居住まいを正した。

「アデーレも、これでやっとおうちに帰れるね。嬉しい?」

「うん、嬉しい! でも、バーバラやエマと会えなくなるのはちょっと寂しいかな」

 エマの問いに答えたアデーレが着ているエプロンドレスの胸元には、小さな兎のぬいぐるみであるヴォーパルと、カパルチャルシュでバーバラに買ってもらった金細工のブローチとが光り輝いている。

「このブローチも、モサドの連中に奪い取られなくて良かったな。これからも捨てたり粗末にしたりしないで、大事にするんだぞ?」

 アデーレの無元に輝くブローチを指先でもてあそびながら、バーバラが命じた。

「うん! あたし、これ大事にする!」

「そうか、大事にしてくれるか。それじゃあこのブローチを見る度に、あたしやエマの事を思い出してくれよ」

 バーバラはそう言うと、美しい金色の頭髪に覆われたアデーレの小さな頭を優しく撫でて慈しむ。すると時を同じくして、クンツとアデーレが乗る便の搭乗手続きが開始されたとのアナウンスが、出国ロビーの各所に設置されたスピーカーから聞こえて来た。出国ロビー内で待機していた乗客達が旅券を手に手に、ぞろぞろと搭乗ゲートに並び始める。

「それではこれで、本当にお別れです」

 クンツが椅子から腰を上げ、バーバラに向けて手を差し出した。すると彼と同じく椅子から腰を上げたバーバラはその手を掴み、二人は固い握手を交わし合う。

「アデーレをしっかり守るんだぞ、クンツ」

「はい、これからは伯父として、また一人の男として、アデーレを守り続けます」

「童貞の早漏包茎インポ野郎にしては、いい答えだ。その決意を忘れるなよ、この童貞の早漏包茎インポ野郎め」

 下卑た表情でほくそ笑みながらそう言ったバーバラは、クンツの肩をばんばんと激しく叩いて、決意を新たにした彼を激励する。気のせいかもしれないが、軟弱な若者に過ぎなかったクンツの顔つきは、この数日で少しばかり精悍なそれに変容したようにも見受けられた。

「アデーレ、アルゼンチンに帰っても元気でね」

 そう言うエマに抱きついた金髪碧眼の幼女は、名残惜しそうに別れの言葉を述べる。

「エマも元気でね。帰ったらスマホでメッセージを送るから、ちゃんと返信してね?」

「うん、ちゃんと返信するよ。これからもメッセージで遣り取りしようね、アデーレ」

「エマ、大好き」

 まるで実の姉妹の様なアデーレとエマの二人は互いを身体を密着させ、熱い抱擁を交わし合った。そして一頻り別れを惜しんだアデーレは、今度はバーバラに向き直る。

「バーバラも、元気でね」

「ああ、あたしはいつだって元気溌剌だ。伊達や酔狂で『肉屋』と呼ばれちゃいないから、心配するな。それよりもお前は、自分の身の安全を確保する殊に気を配れ。それともし万が一、また誰かに連れ去られそうになったら、あたしやエマを呼ぶんだぞ? そうすればあたし達が、すぐにでも助けに駆け付けてやるからな」

 バーバラはそう言って胸を張り、その胸を拳でもってどんと叩いてみせた。

「あのね、バーバラ、あたしね」

「うん? 何だ?」

 身を屈めて眼の前の幼女と視線の高さを合わせたバーバラに、アデーレは宣言する。

「あたしね、大きくなったら女王様になるの! それで、一杯良い事をして、お爺ちゃまが犯した間違いを正すの! そうすればきっと、お爺ちゃまが傷付けた沢山の人達も許してくれると思うから!」

 そう宣言したアデーレの紺碧の瞳は理想の世界を展望し、その輝きは未来への夢と希望に満ち満ちていた。

「そうかそうか、アデーレは大きくなったら女王様になるのか。だったらしっかり勉強して、まずは学校で一番の優等生にならなくっちゃな。そう言えばアデーレ、お前、学校にはちゃんと通ってるのか?」

「ううん、あたしね、学校には来年の夏から通い始めるの! そうしたら一生懸命勉強して、必ず女王様になるんだから!」

 元気良く返答したアデーレを、バーバラは激励する。

「よし、その意気だ! 頑張れよアデーレ、応援してるぞ!」

「うん、あたし頑張る!」

 その美しい顔に満面の笑みを浮かべながら頷いたアデーレは、やがてクンツに連れられて搭乗ゲートの向こうへと姿を消し、出国ロビーにはバーバラとエマの二人だけが残された。そして二十分程経過した後に、クンツとアデーレを乗せたアルゼンチン共和国行きの旅客機は滑走路へと移動を始める。

「アデーレ、行っちゃうね」

「ああ、寂しくなるな」

 出国ロビーのガラス張りの壁面越しに旅客機を見つめながら、バーバラとエマがアデーレとの別れを惜しみ合っ。彼女らの視線の先で、滑走路上の旅客機は次第に加速し、やがて大空に向けて離陸する。すると大空を舞う旅客機に向けてバーバラは片手を斜め上方に挙げ、ナチス式敬礼の体勢を取った。

「ハイル・ヒトラー!」

 この敬礼と呼び声が、そう遠くないいつの日か、偉大なる女性指導者を讃える言葉とならん事を切に願う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る