第十一幕


 第十一幕



 対峙するバーバラとベレルマン大佐の二人は、まさに一触即発の物々しい空気を醸し出していた。するとバーバラが不意に肩の力を抜き、猶予を求める。

「悪いが、ちょっとだけ時間を貰おうか。こうも荷物が重くっちゃあ、まともに戦えやしないからな」

 そう言ったバーバラは吊紐スリングで肩から吊っていた二挺のOA98機関拳銃、同じく二挺のモーゼル拳銃が納められた腰のホルスター、それに脇の下に吊るした超大型拳銃『ディンズデール』が納められたホルスターを、ライダースジャケットを一旦脱いでから地面に置いた。

「徒手空拳で俺に挑むつもりか? 銃を使うくらいのハンデは認めてやるぞ?」

「お前だって素手じゃねえか、強がってんじゃねえぞ? それにちょうど弾が切れたところだから、こっちの方が身軽でいい」

 ベレルマン大佐の問いに答えたバーバラはタクティカルグラブを穿いた両の拳を突き出し、腰を落として膝を緩やかに曲げ、肉弾戦に備える。

「ほう、いい度胸だ。ならばこちらも手加減はいらんな」

 カランビットナイフを手にしたベレルマン大佐もまた両の拳を突き出し、腰を落として接近戦に備えると、睨み合う両者は共に一分の隙も無い。

「!」

 まず先に仕掛けたのは、ベレルマン大佐であった。彼は地下駐車場の路面を蹴って素早くバーバラに接近すると右腕を大きく横に振り、ボクシングで言うところのフックの要領でもって、手にしたカランビットナイフが獲物の首を狙う。しかしナイフの切っ先がバーバラの喉元を掻っ切る寸前で、彼女はやはりボクシングのスウェーバックの要領で上体を後ろに逸らすと、まさにギリギリのタイミングでそれを回避してみせた。

「させるか!」

 攻守逆転し、今度はバーバラが仕掛ける。彼女はぐっと脇を締め、ベレルマン大佐に接近すると、煉瓦の様に硬い拳による神速の突き技を繰り出した。これを予期していたベレルマン大佐はカランビットナイフの鋭利な刃でもってバーバラの拳を敢えて受け止め、彼女の指を切断せんと企図する。だがしかし、バーバラの突きはベレルマン大佐の注意を上半身に集中させるための囮であった。彼女は自らの拳が敵のナイフに触れる直前に身を引くと、素早く腰を捻り、打って変わって足技である下段蹴りをベレルマン大佐の無防備な膝頭に叩き込む。

「くっ!」

 膝頭を蹴られたベレルマン大佐が苦悶の声と共に体勢を崩すと、その一瞬の隙を逃す事無く、バーバラが彼の間合いに足を踏み入れた。そして有無を言わさずベレルマン大佐の左の頬に抉り込むような右ストレートを叩き込んだかと思えば、決して増長せずに、反撃を警戒して一旦距離を取る。しかし彼女の意に反してベレルマン大佐の身に生じたダメージは深刻なレベルに達していたらしく、予期していた反撃の気配は無い。

「おっと、わざわざ警戒する必要も無かったか? 見たところ、もうグロッキーじゃないのか、ナルシストの腐れユダ公さんよお? ん?」

 茶化すような口調のバーバラに、ベレルマン大佐は鮮血混じりの唾をぺっと地面に吐き出しながら抗言する。

「ほざけ、邪教徒が! この程度の痛みなど、物の数ではない!」

「だったらアッラーの名に懸けて、本当にグロッキーになるまでお前の顔面にこの拳を叩き込んでやる」

 バーバラがそう言い終えるのとほぼ同時に、彼女とベレルマン大佐とは互いの間合いを一気に詰めて、再びの肉弾戦に備えた。そして長身かつ筋肉質の比類無き体格を誇る両者は呼吸を整えると、その拳と足回りに全身全霊の胆力と膂力を込めながら、改めて激突する。

「!」

 重く、それでいて鋭い突きに蹴り。そしてそれらを紙一重のタイミングでもって回避してみせる、人間離れした体術。バーバラとベレルマン大佐の二人は互いの持てる技能の全てを出し尽くし、常人ならば近付いただけで瞬殺されてしまうであろう熾烈かつ苛烈な攻防戦を、地下駐車場の一角で繰り広げる。カランビットナイフの有無と言うハンデを考慮すればいささかバーバラが不利であったが、彼女はそんな事など意に介さず、しかも両者の実力は拮抗していた。

「面白くなって来たなあ!」

 やがてボルテージが最高潮に達したバーバラは、猟奇的にほくそ笑みながら声高らかに歌い上げる。


 デニス・ムーア♪ デニス・ムーア♪ 剣の波を馬でくぐり抜け♪

 デニス・ムーア♪ デニス・ムーア♪ 愛馬コンコルドに跨り♪

 富める者から奪い♪ 貧しき者に与える♪

 義賊ムーア♪ 義賊ムーア♪ 義賊ムーア♪

 デニス・ムーア♪ デニス・ムーア♪ 闇を駆け抜け♪

 国中のルピナス♪ 手中に収め♪

 富める者から奪い♪ 貧しき者に与える♪

 義賊ムーア♪ 義賊ムーア♪ 義賊ムーア♪

 デニス・ムーア♪ デニス・ムーア♪ フンガフンガフンガ闇♪

 デニス・ムーア♪ デニス・ムーア♪ ランラララーンラ誓う♪

 盗み……ランランランラン♪ ランラランラーン♪

 デニス・ラーン♪ デニス・リー♪ ランランランっと♪

 デニス・ムーア♪ デニス・ムーア♪ 森を駆け抜け♪

 デニス・ムーア♪ デニス・ムーア♪ 大きな袋を携え♪

 貧しき者に与え♪ 富める者から奪う♪

 義賊ムーア♪ 義賊ムーア♪ 義賊ムーア♪

 デニス・ムーア♪ デニス・ムーア♪ なんとか……かんとか……♪

 デニス・ムーア♪ デニス・ムーア♪ 荒野を駆け抜け♪

 デニス・ムーア♪ デニス・ムーア♪ 追われる如く♪

 貧しき者から奪い♪ 富める者に与える♪

 単なる馬鹿♪


 陽気で能天気なその歌はやはり、英国放送協会BBC製作の往年のコメディ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』の挿入歌の一つである、『デニス・ムーアの歌』であった。そして徒手空拳のバーバラとカランビットナイフを手にしたベレルマン大佐との格闘戦は、互いの力が拮抗した状態を経た後に、次第に両者の力量の差が顕現し始める。

「おらぁっ!」

 一撃必殺のカランビットナイフによる斬撃を掻い潜って放たれたバーバラの右フックが、再びベレルマン大佐の頬を捉えた。無防備な頬を殴られたベレルマン大佐は苦悶の声を上げながら体勢を崩し、一瞬とは言え意識が飛ぶ。格闘戦の最中に意識を失う事は、彼らしくない致命的な失態と言わざるを得ない。

「隙あり!」

 この一瞬の好機を逃す事無く、バーバラは持てる力の全てを出し切って、一気呵成の猛攻撃を仕掛ける。まずは右フックの反動を利用した返す刀の左フックを眼前の敵の右の頬に、更にその反動を利用した左右二連続のボディブローを鳩尾みぞおちに叩き込んでから、全身の体重を拳に乗せた渾身の右ストレートでもって呼吸が止まったベレルマン大佐の顔面を叩き潰してみせた。

「ぷおっ!」

 鼻っ柱を叩き潰されたベレルマン大佐の喉からは悲鳴とも嗚咽ともつかない奇妙で頓狂な声が漏れ、鼻骨が砕けた両の鼻腔からは真っ赤な鮮血が飛沫しぶきとなって周囲に飛び散り、地下駐車場の路面を濡らす。

「糞! 糞! 糞!」

 ベレルマン大佐は悪態を吐きながら数歩ばかり退き、バーバラから距離を取った。鼻骨が砕けた彼の呼吸は荒く、溢れ出る血の塊が鼻腔を塞ぎ、満足な量の酸素を全身の筋肉に行き渡らせる事が出来ない。

「どうしたユダ公、もう降参か? 今なら未だ全裸土下座で命乞いをすれば、命だけは勘弁してやらない事もないぞ?」

 挑発するバーバラをじろりと睨み据えながら、ベレルマン大佐は罵倒し返す。

「ほざけ、このレズビアンの邪教徒め! 誰が貴様なんぞに命乞いをするものか! 貴様に命乞いをするくらいなら、俺自らがこの喉を掻っ切って死んでくれる!」

「そうか、なら死ね」

 事も無げにそう言ったバーバラは一旦膝を落とすと、次の瞬間には落とした膝を伸ばす際の反動を利用して飛び掛かり、ベレルマン大佐との距離を一気に詰めた。そして眼前の敵に腕を上げて防御を固める猶予も与えないまま、眼にも止まらぬ神速の右ストレートでもって彼の鼻っ柱を再び殴り抜いた。

「がはっ!」

 しかもバーバラの煉瓦の様に硬い拳による殴打は、一撃だけでは終わらない。ベレルマン大佐の頭髪を左手で掴み上げながら、彼の顔面を右の拳で二発、三発、四発、五発と執拗に殴り続ける。そして殴られる度にベレルマン大佐の顔面は風船の様に腫れ上がり、皮膚が裂けて鮮血がぼたぼたと滴り落ちるのと同時に、内出血によって皮下組織が紫色に染まり始めた。

「どうだ、ナルシストの腐れユダ公! 富の再分配ってのは難しいもんだろ?」

 もはや抵抗する気力も失せたベレルマン大佐の無防備な顔面を、興奮が最高潮に達したバーバラはそれでも延々と殴り続ける。鼻骨が完全に潰れた彼の鼻はまっ平になり、前歯は全て折れ、なんであれば下顎と頬骨ももはや原形を留めてはいない。

「どうした、もうお終いか? 今すぐに立ち上がらないと、殺しちまうぞ?」

 顔面を完全に叩き潰され、地下駐車場の路面に力無く横たわるベレルマン大佐に、バーバラが忠告した。しかし腫れ上がった皮膚によって耳が塞がれてしまっているベレルマン大佐からの返答は無く、その事実が彼の運命を決定する。

「そうか、もう立ち上がれないか。それなら、今すぐここで死んじまいな」

 冷淡な口調でもってそう告げたバーバラは、横たわるベレルマン大佐のこめかみにカウボーイブーツの踵を乗せると、彼の頭部を全体重を乗せて踏み抜いた。頑丈な筈の頭蓋骨が真っ二つに割れて大脳の前頭葉が砕け散り、血まみれのおぼろ豆腐の様な脳髄が鼻の穴から漏れ出る。

「あの世でルピナスの花でも食ってな!」

 意味不明な勝鬨かちどきの声を上げたバーバラの足元で、頭部を踏み潰されたベレルマン大佐は絶命した。一度は苦渋を飲まされた相手に完全勝利したバーバラの興奮は絶頂に達し、その鼻息は荒い。

「根無し草、そこまでだ!」

 不意に何者かが、勝利の余韻に浸るバーバラを遠回しな蔑称で呼んだ。見れば彼女が行く手を遮ったベンツ社製の高級車の脇に立つイーライ・ヤコブソンが、背後から襟首を掴み上げたアデーレの頭にモサド御用達のベレッタ拳銃の銃口を押し当てながらこちらを睨んでいる。皺だらけの老人であるイーライの指は、今にもベレッタ拳銃の引き金を引いてしまいそうだ。

「アデーレ!」

 金髪碧眼の幼女の名を呼んでその身を案じるバーバラに、その幼女を人質に取ったイーライは警告する。

「そこを動くなよ、根無し草! 動けばこの娘、アデーレの命は無いものと思え!」

「糞! 汚ねえぞ、このユダヤの豚の鼻デカ爺いが!」

 バーバラは悪態を吐くが、幾ら百戦錬磨の彼女とは言え、この状況ではイーライの言葉に従う他に選択の余地は無い。

「何とでも言え、根無し草! 要は最終的に勝利すればそれで良いのだ! さあ、この娘を殺されたくなければ両手を挙げて頭の後ろで組み、その場にひざまずけ! こちらにお前の動きがはっきりと見えるように、ゆっくりとだ!」

 渋々ながらイーライの言葉に従い、バーバラは両手を頭の後ろで組むと、膝を折ってその場にひざまずいた。こうなってしまっては敵の虚を突こうにも、素早く立ち上がる事が出来ない。

「よし、それでいい。すぐに楽にしてやるから、そのままそこを動くなよ」

 そう言ったイーライは人質であるアデーレの頭に押し当てていたベレッタ拳銃の銃口を、今度はバーバラへと向けた。そしてゆっくりと焦らず慎重に、バーバラの眉間に照準を合わせる。

「死ね」

 イーライが引き金に掛けた指に力を入れた次の瞬間、パンと言う一発の乾いた銃声が轟き渡り、イスラエル総領事館の地下駐車場の空気を震わせた。バーバラは自分が撃たれたものと思い、死を覚悟する。しかし彼女の予想に反して、撃たれたのはバーバラではなくイーライであった。

「ぐあっ!」

 どこからともなく飛んで来た銃弾によってイーライの右手の甲に穴が穿たれ、その手から取り落とされたベレッタ拳銃が地下駐車場の路面を転がる。そして苦痛に喘ぎながら膝から崩れ落ちたイーライが銃声の聞こえて来た方角に眼を遣ると、そこに立っていたのは護身用のグロック拳銃を構えたプラチナブロンドの髪の少女、つまりバーバラの恋人たるエマに他ならない。

「動かないで! アデーレを放しなさい! 放さないと、今度は頭を撃つからね!」

 グロック拳銃を構えたエマが警告すると、右手を撃ち抜かれたイーライはアデーレの襟首を掴み上げていた左手の力を抜いた。すると自由の身となったアデーレは「エマ!」と命の恩人の名を呼びながら、彼女の元へと一目散に駆け寄る。その一方でひざまずかされていたバーバラはと言えば、彼女は立ち上がると同時にイーライの元へと素早く駆け寄り、彼の足元に転がっていたベレッタ拳銃を一足先に回収した。

「形勢逆転だな、鼻デカ爺さん」

 バーバラはそう言うと、地面に尻餅を突いたまま右手の痛みに耐えているイーライにベレッタ拳銃の銃口を向けながら、勝利の美酒に酔い痴れるかのようにほくそ笑む。彼女にしてみれば九死に一生を得ただけでなく、その一生を与えてくれたのが愛するエマなのだから、これ以上痛快な事は無い。

「これで勝ったと思うなよ、この根無し草め!」

 イーライは強がってみせるが、頼みの綱のベレルマン大佐を失った彼には虚勢を張る以外に取るべき手段が何も無く、言うなれば完全に万策尽きた格好である。

「何とでも言うがいいさ、鼻デカ爺さん。お前が負けを認めようが認めまいが、どっちにしろこの状況は変わらないからな」

 ベレッタ拳銃を構えながらそう言って勝ち誇るバーバラの元に、アデーレを抱きかかえたエマが駆け寄った。そして彼女らは三人揃って、地下駐車場の路面に腰を下ろしたままこちらを睨み据えるイーライを頭上から見下ろす。

「エマ、よくやったぞ。お手柄だ」

 駆け寄って来たエマを褒め称えたバーバラは、命の恩人である愛しき恋人の腰に手を回して抱き寄せると、感謝を気持ちを態度で表さんとばかりに唇を重ねた。人目もはばからず唇を重ね合い、舌を絡め合うバーバラとエマの姿を、同性愛と言う概念を理解するには未だ未だ人生経験が足りないアデーレは物珍しげに凝視する。

「あたしはただ、バーバラが教えてくれた通りによく狙って撃っただけだってば」

「なるほど。だったらきっと、あたしの教え方が上手かったんだな」

 謙遜するエマに対して自画自賛するようにそう言ったバーバラは、手にしたベレッタ拳銃の銃口を改めてイーライに向けた。すると銃口を向けられたイーライは痛む右手を押さえつつ、バーバラを懐柔せんと口を開く。

「分かっているのか、根無し草。その娘はアドルフ・ヒトラーの孫娘なのだぞ。そんな世紀の独裁者の孫娘の存在と生存が公になれば、世界の政治情勢に、そして民衆が掲げるイデオロギーにどれほどの畏怖と衝撃を与えるのか、その影響力は計り知れないものになるだろう。勿論、その娘の人生に与える影響も計り知れない。只生きているだけで始終マスコミに追い回され、満足に外出する事も出来なくなり、ネオナチや反ネオナチ組織に命を狙われるであろう事は明白だ。その時お前は、今から下すべき決断の責任が取れるのか? 自分の行いは間違っていなかったと、胸を張って言い切れるのか? 世間に顔向け出来ない行為に手を染めてはいないか? さあ、もう一度考え直せ。今なら未だ間に合う。その娘をこちらに引き渡し、ヒトラーの血統をこの世から永遠に抹消するのだ!」

「うるせえ!」

 イーライの説得には一切耳を貸さず、バーバラは罵声と共にベレッタ拳銃の引き金を引いた。乾いた銃声を従えながら.22LR弾が射出され、イーライの右耳を撃ち抜く。

「いっつ!」

 右手の甲に続いて右耳にも穴を穿たれたイーライが、苦悶の声を上げた。

「責任がどうだとか世間に顔向け出来るかどうかだとか、そんな下らない理由なんて知った事か! あたしはただ、小さくて可愛い女の子を助けたいだけだ! それに鼻デカ爺さん、お前だって心の底からの本心は口にしていない、そうだろう? 違うか?」

「……何の事だ?」

「お前の言い分は、どうにも筋が通り過ぎている。そんな綺麗事が、薄汚い生身の人間の本心な筈がない。どうせ心の奥底では世界のファッショ化を食い止めるだとか言う大義名分はどうでもよくて、自分を収容所送りにしたヒトラーへの個人的な復讐が目的なんじゃないのか? あ?」

 ベレッタ拳銃を構えるバーバラの言葉に、イーライは鮮血が滴る右耳を手で押さえて止血しながら口篭る。どうやら彼は、図星を突かれてしまったらしい。

「……そうだとも、お前の言う通り、私が口にした大義名分の数々は決して私の本心ではない! 私は、私と我がユダヤ人同胞達を収容所送りにして絶滅を図ったヒトラーが、憎くて憎くて堪らないだけだ! しかもそのヒトラーに隠し子が居たと聞かされた私の心は掻き乱され、何故奴が子孫を残せてこの私が一人寂しく死なねばならないのかと思うと憤死しそうになり、嫉妬に燃えた! だがそれでも、ヒトラーの息子のアダムが重度の白痴だと知った時には、地獄に落ちた筈の奴を鼻で笑ってやったさ! 障害者を迫害した張本人の一人息子が障害者なのだから、これ以上痛快な事は無い! 親の因果が子に報いるとは、まさにこの事だ! 因果応報だ! ざまあみろ!」

 秘めたる胸の内を大声で吐露しながら、イーライは両の瞳からぽろぽろと涙を零して咽び泣き始める。

「それがどうだ、白痴のまま老いさらばえて惨めに一人ぼっちで死ぬ筈だったアダムに、よりにもよって娘が生まれたと言うじゃないか! そんな事が許されて堪るものか! それではヒトラーの遺伝子が後世に残されてしまう! この私ですら子孫を残す事が出来なかったと言うのに、よりにもよってあのヒトラーが子孫を残すとは! 許せん! そんな羨ましい事が許せる筈がない! そんな、そんな羨ましい事が……」

「なんだよ、結局お前はヒトラーが羨ましくて嫉妬していただけかよ。とんだ食わせ者の狸爺だな、お前は」

 年甲斐も無く咽び泣くイーライを、バーバラが端的な一言でもって断罪した。彼女の足元にうずくまるイーライの小柄な身体が、なんだか見た目以上に小さくみすぼらしく感じられる。

「とにかくアデーレも無事に救出出来た事だし、これでようやく、全ての面倒事が終わったな。それと、いいか、鼻デカ爺さん。もう二度と、アデーレとその仲間達には手を出すな。もし万が一手を出したら、今度は躊躇無くお前もお前の部下達も全員ぶっ殺してやるから、そのつもりでいろ。……さあ、それじゃあエマもアデーレも、皆であたしのアパートメントに帰ろうか」

 バーバラはそう言うとベレッタ拳銃の弾倉マガジンを抜き、その中の銃弾を全て抜き取ってから、銃本体と空になった弾倉マガジンとをそれぞれ別の方角へと放り捨てた。しかし彼女が用心するまでもなく、地下駐車場の路面の上にうずくまったまま咽び泣き続けているイーライに、放り捨てられたベレッタ拳銃を拾って反撃しようとする素振りは見られない。

「さあ、行くぞ」

 エマとアデーレに向けてそう言うと、バーバラはその場を立ち去るべく踵を返す。しかしその時、アデーレが「ちょっと待って」と言ってイーライに近付いた。そして一介の幼女に過ぎない筈の彼女はイーライの皺だらけの頬を撫でながら、慰めるような、そして説き伏せるような自愛に満ちた口調でもって語り掛ける。

「いつだって、人生の輝ける側面に眼を向けなさい《Always look on the bright side of life》」

 その言葉を聞いたイーライは愕然と、もしくは呆然自失とした驚愕の表情をアデーレに向けた。すると彼の両の瞳からは、滝の様な涙が滂沱の如く溢れ出し始める。

「……私は、私はホロコーストを生き延びたんだぞ……」

 焦点の合わない虚ろな眼をしたイーライは、ぼんやりと虚空に視線を漂わせながら呟いた。その言葉は誰に語り掛けるでもなく、また彼自身に言い聞かせているようにも見受けられない。

「エマ、アデーレ、もたもたするな。警察が踏み込んで来る前にさっさと立ち去るぞ」

 改めてそう言ったバーバラは一度は取り外したOA98機関拳銃や超大型拳銃『ディンズデール』などの装備を拾い上げると、イーライらが乗っていたベンツ社製の高級車の運転席側のドアを開け、身を屈めて車内を覗き込む。覗き込んだ運転席にはイスラエル総領事館に雇われたトルコ人の運転手が乗っていたが、バーバラがドスの効いた声でもって「退け」と言うと小さな悲鳴を上げて足をもつれさせながら逃げ出し、どこか遠くに姿を消した。

「さあ乗れ、二人とも」

 バーバラに促されたエマとアデーレの二人が高級車の後部座席に乗り込むと、アデーレが周囲をきょろきょろと見回してから尋ねる。

「ねえバーバラ、クンツは?」

「あ」

 たった今思い出したとでも言わんばかりに、運転席のバーバラは頓狂な声を上げた。どうやら彼女はクンツの動向も彼の身の安全の確保も、それら全ての事を今の今まで完全に失念してしまっていたらしい。そこでバーバラはデニムジーンズの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、事前に交換しておいたクンツの電話番号をタップすると、受話器の向こうの彼に命令する。

「もしもし、クンツか? 今どこに居る? 何? 警察が来たから逃げたい? ああ、それはもういいから、今すぐ地下駐車場の出口まで走って来い。早くしないとこのまま置いて行くぞ。ほら、早く早く! 急げ急げ!」

 そう言って無責任に急かし終えたバーバラは、スマートフォンの液晶画面をタップして通話を終えた。そして彼女ら三人を乗せた高級車はその場にイーライを残したままアクセルを解放して急発進し、地下駐車場の出口付近で暫し停車する。すると数分後、グロスフスMG42汎用機関銃を胸に抱えたクンツがロビーの方角からこちらへと駆け寄って来るなり膝から崩れ落ち、バーバラらが乗るベンツ社製の高級車にもたれ掛かった。どうやらこのまま総領事館に置いて行かれては堪らないと焦りに焦った結果、虚弱な彼はここまで全力疾走して来る間に、全ての体力を使い果たしてしまったらしい。

「遅えぞ、この童貞の早漏包茎インポ野郎が!」

 運転席側の窓から顔を覗かせたバーバラが罵倒すると、疲労困憊で息も絶え絶えのクンツはエマの手を借りつつ、ぜえぜえと喘ぎながら高級車の後部座席に転がり込んで気を失う。

「よし、準備はいいな! 行くぞ!」

 バーバラの言葉を合図に、四人を乗せたベンツ社製の高級車は再びアクセルを解放して急発進した。運転席でハンドルを握るバーバラの、ややもすれば乱暴とも言える荒い運転に翻弄された高級車はタイヤを軋ませながら地下駐車場を後にし、イスラエル総領事館の前を走る市道を駆け抜ける。市道には通報を受けて駆けつけた警察車輌が行く手を遮るような配置で停められていたが、当然ながら無法者であるバーバラは、そんな些細な障害物は意に介さない。

退退退け! この税金泥棒の腐れポリ公どもが! そんな所をうろうろしてっと轢き殺すぞ!」

 総領事館を取り囲む警察車輌と、その警察車輌の周囲で警戒待機していた制服姿の警察官達を蹴散らすようにして包囲網を強行突破しながら、バーバラが罵声を浴びせた。すると総領事館から少し離れた進行方向上の路肩に、一台のセダン型の乗用車が路上駐車されているのが眼に留まる。つまりそれは、バーバラのMIT《トルコ国家情報機構》時代の直属の上司であり、彼女の育ての親を自認するケネス・パーキンスの愛車であった。どうやら彼はこの場所からバーバラらによる殴り込みの一部始終を傍観し、その結末を見届けようと待ち構えていたらしい。

「よう、ケネス。乗ってくか?」

 バーバラはブレーキペダルを踏んで急停車すると運転席側の窓を開け、愛車の傍らに立つ、中折れ帽とトレンチコートに身を包んだケネスに問い掛けた。

「いいや、残念だがそれは無理だな。なにせ俺には、これからお前らの悪ふざけの尻拭いをするって言う大事な仕事が残ってるんでね」

 そう言って笑うケネスに、バーバラは忠告する。

「いいかケネス、充分に注意しろよ? ユダヤ人は同じ白人種から差別された歴史をも巧みに利用する、狡猾で抜け目の無い奴らだからな」

「その点なら問題無い。差別された歴史なら、俺達黒人種だって負けちゃいないさ」

 褐色の肌のバーバラとケネスの二人は互いのユーモアのセンスを披露し合うと、げらげらと笑いながら軽快なハイタッチを交わした。そんな二人の姿はまるで、仲の良い実の親子の様にも見える。

「それじゃあ後は任せたぜ、ケネス」

「ああ、任せておけよバーバラ」

 最後にもう一度ハイタッチを交わし合ってからバーバラは高級車を発進させ、イスラエル総領事館を後にした。

「……さてと、それじゃあ気合いを入れて、可愛い可愛い娘の尻拭いをしなくっちゃなあ」

 ケネスはそう独り言ちながら、バーバラを追跡せんとする警察車輛の方角に向けて歩き始める。これから彼には、今夜のイスラエル総領事館襲撃事件を犯人が特定されぬまま有耶無耶の内に集結させると言う諜報機関の上級職員ならではの重大な使命が残されているのだから、責任重大と言う他無い。

ケネスが証拠隠滅と犯人隠避に手を染めようとする一方で、イスラエル総領事館の地下駐車場の一角に取り残されたイーライは、コンクリート敷きの路面にうずくまったまま咽び泣き続けていた。

「私は、私はホロコーストを生き延びたんだぞ……ホロコーストを……ホロコーストを生き延びたんだ……」

 穴が穿たれた血まみれの拳で何度も何度も路面を叩きながら、イーライは恨み節を口にしつつ、咽び泣き続ける。アドルフ・ヒトラーと彼が総統を務めるナチ党の政策によって人生を奪われ、今の今まで絶滅収容所に囚われていた彼の魂が、誰も望まぬ形でもって解放されてしまったのだ。そしていつ終わるとも知れないイーライの嗚咽と恨み節はイスタンブールの夜空を漂い、静謐な空気の中に溶けて薄まって拡散して行く。

「私はホロコーストを生き延びたんだ……」

 その言葉に、以前の様な威厳は感じられない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る