3. 一匹のイノシシと潜む脅威
鬱蒼とした森を歩く。
巨木が立ち並び、陽の光は木陰から少し漏れてくる程度だ。随分と奥まったところが目的地だからか、獣道を進まざるを得ない。
人の手が及んでいない道なき道を、ひたすらに掻き分けていく。
「……クソッ。お前の手続きが終わったらさっさと帰ってやろうと思ったのに」
悪態をつきながら進み続けるベルクリフ。
昨夜の雨がまだ残っているようで、大きな黒色のブーツは既に泥まみれになっていた。
「はぁ、Cランクの俺が今更Eランクのイノシシ狩りとはな」
「そんな邪険にしないでくれ。俺だって好きであんたと一緒に行った訳じゃないんだから」
「分かってるって! ……ああもう、ルーキーは一人じゃ行けないってことを忘れていたのが腹立つ」
ぶつくさと文句を吐きながらもベルクリフは悪路を進み続ける。
「……それと本当に良かったのか? 強引に誘ってしまったけど、お前は辞めるつもりだったんだろ?」
「ああ、こいつが片付いた後でな。ルーキーを見捨てられる程の非情さは俺は持ってはいねえよ」
驚きの言葉に、俺は思わずえっ、と口走ってしまった。
その驚きに対し、「……なんだよ、文句あんのか」と不貞腐れたような声を出すベルクリフだった。
今までは傍若無人な男だと思っていたが、奴なりの矜恃は持ち合わせていた。カルラとの会話の中でもそうだったが改めて、ベルクリフという男を深く知れた気がする。
「で、手配書はどう書いてるんだ? 読んでみてくれ」
ベルクリフに促されるがまま、俺は手元の手配書に目を落とす。
『イザリア郊外』と書かれたその簡素な地図は、荒っぽい字ながらも分かりやすく目的地を記してくれていた。
「……地図によるとそろそろかな。もう少しで開けた草原が見える。そこに巣を作って潜んでるらしい」
「了解だ。……イノシシくらいすっぱりととっちめて早く帰るぞ」
「分かってる」
いくら実力は分かっていても、今の俺の格はイノシシと同格だ。
獅子搏兎。例え勝ちが見えている戦いでも、決して気を緩めることはしない。ギルドマスターを務めていた頃からの座右の銘だ。
背中の大剣の柄を握り、気を引き締める。
進むにつれて立ち並ぶ大樹が段々と少なくなり、やがて小さめの草原が見えてきた。若草色のそれらは、降り注ぐ陽光を浴びて色鮮やかにその身を揺らしている。
所狭しと木々が生えているこの森の中で、大きな穴が開いたようにできた草原は動物にとってのオアシスと言ってもいいだろう。
恐らく、目的のイノシシも同様に。
「……いたぜ、あいつだ」
草原が広がるその先で、黒茶色の何かが蠢いていた。
「……デカいな」
「前に話しただろ。あいつはヴァンパイアに咬まれて獰猛化してる可能性があるんだ」
およそ二メートルほどだろうか。俺の知っているイノシシとは一回りも二回りも違う。
だからこそ依頼主の木こりは賞金を掛けているのだろう。
「獲物は見つかった。こっからどうするんだ」
声を潜めながら俺は問いかける。
イノシシ狩りの経験は生憎ない。それに、ルーキーの俺がでしゃばっても良いことがない。
その問いに応えるかのようにベルクリフはにぃ、と不適な笑みを浮かべた。
「……愚問だな。イノシシなんざ正面突破以外ねえよ」
その瞬間、ベルクリフは木陰から飛び出していった。
「お、おい! 作戦はどうすんだ!」
その後に続くように慌てて俺も草原へと飛び出す。
「俺が受け止める! その後はお前が仕留めろ!」
「んな無茶な……!」
「俺に任せろ! Cランクを舐めんなよ!」
ベルクリフは両手を広げ、黒茶色のイノシシの元へと突っ込んでいく。
「プギィィィ────────!!」
イノシシもそれに応ずるかのように嗎を上げ、ベルクリフの元へと突進する。
凄まじい土煙を立てながら猛進する獣。その眼は紅く充血し、もはや正常な眼差しではなかった。
一般人では剣を持っても相手にならないだろう。
「ベルクリフ! あまり舐めてかかるな!」
「プゴッ! プギャッ!!」
「………前も後ろもうるせぇなぁ!」
途端にベルクリフは足を止め、身体を大きく開く。
「……来い、全部受け止めてやるよ」
「プギャァァァ────────!!」
猛進するイノシシ。その勢いは止まるところを知らずに加速していく。あのまま受け止めては骨を折るくらいでは済まされない。
最悪は身体は砕けて、そして四肢すらも。
「─────────『剛力』!」
衝突の音。
およそ人と獣が鳴らす音ではない。鋼と鋼がぶつかり合う音が適当か。
その衝撃で土煙が舞い上がり、ベルクリフの様子は把握できずにいる。
何の策もなしに受け止めていれば絶命は免れないだろう。
「ベルクリフ────!!」
返答はなく、次第に土煙が晴れていった。
そこには────
「────っ、ぐぅ、相当堪える、な……!」
「……プギャッ、ギャッ、ギィィィ────!!」
イノシシを両腕で受け止めているベルクリフの姿があった。
勢いは完全に殺しきれなかったのか、じりじりと身体は後退していくが両腕はイノシシを離さずにそのままでいる。
……思い出した。ベルクリフの魔術は『強化』だ。
身体を強靭な肉体へと変貌させ、イノシシの猛進を見事に受け止めたのだ。
Cランクなだけの力量は流石に持ち合わせているようだった。
「……ぐっ、早くしろ! 長くは持たねえぞ!」
悲痛な叫びが耳に届く。
見るとベルクリフの両腕は血管が浮き出て、今にも破裂しそうになっていた。
「すまん、今斬るからもう少し辛抱しててくれ!」
急ぎ草原を駆け、イノシシの側面へと回り込む。
ベルクリフが抑えてくれているおかげで狙いは定めやすい。
ここまでお膳立てされれば後は容易い。
鋒を天へと向け、勢いよく振りかざす────
「────ッッ、ピギィィ…………」
半月状を描く大剣が胴元を真っ二つに裂く。
噴き出す鮮血が陽光の下、煌びやかに放物線を描く。
イノシシは弱々しい声を漏らしながら、やがて力なく倒れ込んだ。
「はぁっ…………、おいゼノン、遅過ぎだ! いくら俺の『剛力』でもアザの一つや二つできちまうんだから」
ベルクリフは俺の下へと駆け寄り、アザだらけの腹を見せてくる。
見ればそこは青痣になって鬱血すらもしていた。
しかし、俺はもっと別・の・も・の・に目がいっていた。
「……すまん」
「はぁ!? お前、その一言だけで済むと思うなよ!」
俺の心あらずな答えに、ベルクリフは更に腹を立てる。
「帰ったら覚えとけよ。分け前は俺が多くもらうからな!」
「……ああ」
今、ベルクリフの騒ぎに付き合っている暇はない。
森の奥で、何かが蠢いているのを感じる。
イノシシの比ではない。Sランクの俺が少し身震いするほどの脅威だ。
それはすぐそこまで、迫ってきている、
「……ゼノン! 聞いてんのかおい! 俺の分の分け前をしっかりと────」
「ああ。お前が無事に帰れたらな」
蠢く脅威が、とうとう姿を現した。
────それの大きさは三メートルを優に超えている。
両手には二対の斧。二本の脚をのっそりと動かしながらこちらに向かってくる。
されど、その顔は人ではなく畜生の類。
二槍の鋭利な角と人外じみた大きさの鼻。
その身体は例えるとすれば巌。いかなる攻撃も跳ね返しかねない、黒色の岩石だ。
その巨躯は無数の獣毛に覆われ、その迫力に拍車をかけている。
そして前屈みになりながら、明らかに相応しくないであろう若草の草原へと奴は脚を踏み入れる。
「な────────」
声も出ず、ベルクリフは膝から崩れ落ちる。
無理もない。あれの攻撃は恐らく受け止めきれないだろう。死期を悟り、身体を震えてさせながら巨躯を見上げる。
その無防備なベルクリフの前に俺は立ち、両手に握る大剣を構える。
「ミ、ノタウロス────────」
震えながらもベルクリフはその生物の名を呼ぶ。
その瞬間、草原に大きな咆哮が響き渡った。
その白鳩は、誰が為に飛ばすか @hashiba4121
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