蟻と飴玉
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蟻と飴玉
五月下旬から六月の頭にかけて、いくつかの種類の女王蟻は巣穴を出て空へと飛び立つ。それにおともするオスの羽蟻と一分ほどの短い交尾を行うと、女王蟻は翅を落とし、二度と再び空を飛ぶことはない。その代わり、産卵のために地面へと潜る。
雨の降った翌日など、湿度と温度が十分高い風のない日に、「結婚飛行」と呼ばれるこの交尾は行われる。
そのロマンチックな名称と裏腹に、鮮やかな色を持たない蟻たちの結婚飛行は大変地味だ。
私もこれが自分の所属する研究室から割り当てられたテーマでなければ、アスファルトの合間に入り込んだ小さな虫に対して、こんな熱心に気を配ることはなかっただろう。
公園の遊歩道を何往復かして見つけた女王蟻を手製の小型ケースに何匹も捕獲して、戻ってみると、アサはまだベンチに座って本に読み耽っていた。初夏に片足を突っ込んだ陽気の中、淡くブラウンの入った柔らかそうな髪の毛が彼女の横顔に薄いカーテンを作っている。アサがそれを耳にかけようとして、私の存在に気付く。
彼女が手元の本を閉じたとき、タイトルが見えた。
『喝采』、後藤比奈夫。
「見つかった?」
ひと懐っこい笑顔。
「見つかったよ、ほら」
ケースを5つほど取り出しみせる。どれもに黒々と腹の肥えた蟻が入っている。
「本当だ。ねえ、わたしも見つけたんだよ、ほら」
アサに促されて足元を見ると、そこにはたくさんの蟻が群れていた。ときおり彼女の青いサンダルに登っては降り、何かと思えばアサの両足の間に飴が一粒落ちていた。
「なめてたんだけど落としちゃって。アキラちゃんが探してるのいる?」
「いや......このこらは、みんなオオクロアリのマイナーワーカーだ」
「なに、それ?」
「働きアリのこと」
説明しながらケースを鞄にしまい直す。
「蟻には兵隊アリと働きアリがいるんだよ。種によってその割合とか分類の仕方はまた変わるけど、顎とか体の大きさを基準に、兵隊なのか労働者なのか決める」
「生まれながらにしてどういう働き方ができるか決まってるんだね」
「そう......そうだね」
「今日見つけに行ったのはそのおっきな方?」
「ううん。それとは別の、女王蟻。これからこの子たちが巣を作って、大事な研究対象になってくれるってわけ。研究室戻るから帰ろう?」
私はベンチにつけてあった自転車を跨ぐ。アサも後ろからまたがった。
「お疲れ」
そう言って彼女は私の唇に触れた。
「甘い?」
「あまーい」
その飴玉はさくらんぼの味がした。
一緒に触れた彼女の指先の感覚を、私は忘れないだろう。
生村アサは文学部の四年で、近代文学で卒論を書いていて、卒論のテーマはホトトギスがどうしたとかそういうもの。何度か聞いているうちにその『ホトトギス』が明治から現代にわたって刊行され続けている俳句の雑誌だということは理解できた。その文芸誌を活動のメインにしている俳人のうち何名かが、生村アサの卒論テーマだった。
私とアサのつながりは飴玉ひと粒分のつながりだった。私——富谷アキラは生態学の四年であり彼女と学部も違えばサークルも同じではない。ただ、彼女の入っていた文芸サークルと、私の参加していた多文化交流会(という名の飲みサー)がサークル棟で隣同士の部屋だった。私がサークル部屋の前でタバコを吸っていたところ、彼女が同じくサークル部屋の前で飴玉をなめ始めた。それが二度三度と繰り返されるうちのどのタイミングだったか、私とアサはタバコと飴玉を交換した。私は美味しくなめることができたけれど彼女はむせてしまい、それ以降私は常時飴玉を持ち歩き、サークルの前で彼女と居合わせるたびに飴玉の交換を持ちかけるようになった。
なんてかわいらしい付き合いだろうと思った。そうして私とアサは飴玉ひと粒によってつながりを作っていった。餌付けか? と身内から冷やかされるたび、これは多文化交流だと私は胸を張って、彼女は変に恥ずかしそうにしていた。
飴玉のような甘さ——けれど彼女とであれば、それも許されるような気がした。
梅雨がきて、私の卒業研究は滞りを見せていた。また周囲が着々と内定を決めている中、自分だけが就職活動でもいい結果を残せず、大学院への進学を狙おうにも指導教官からは「富谷さんは別に(進学しなくても)いいんじゃない?」とやんわりと拒否をされてしまっていた。
「兵隊アリにも働きアリにもなれないアリはいるんだよ」
「そういうアリはどんなアリなの?」
「女王か......もしくは一生を働かずに過ごすアリだ」
言っていて虚しくなった。しとしとと雨の降りしきる中庭を眺めながら、私とアサはサークル棟の欄干にチューハイの缶をふたつ並べていた。酒をあおりながらもアサは飴をなめ続け、ころころと舌の上で転がしていた。
「もう最近はアリだらけだよ」
私の鞄には『日本蟻類研究所 - 会誌「蟻」』が何冊も入っている。純度の高い蟻情報ばかりが載っている、蠱毒のような会誌だった。
「じゃあちょっと雰囲気の違うアリで気分を紛らわすのはどうかなあ?」
「それは?」
アサが取り出したのはA4用紙を横に切り裂いた、やけに細長い紙の束だった。そこに文字がプリントアウトされている。読み上げる
「『蟻を殺す殺すつぎから出てくる』......おざきほうや?」
「ほうさい。俳人だよ。『咳をしても一人』とか『いれものがない両手でうける』とか『こんなよい月を一人で見て寝る』とか......聞いたことない?」
「ない。何? 本当に俳句なのそれ? 騙されてない?」
「尾崎放哉は五七五じゃなくて自由律をやってたからそうなるんだよ、他の人だと......これは?」
「『機嫌よささうに蟻の飛ぶことよ』後藤比奈夫......分かった、蟻の俳句か」
「そう。どう? 面白いよね、蟻が飛ぶってなんなんだろう、普通は蟻は飛ばないよね」
「ああこれはね」
『結婚飛行』のことについて説明すると、アサは雨乞いみたいなそぶりで喜んだ。
「そうなんだ! さすがアリの専門家だ!」
「けどこの人の俳句面白いね、いくつかあるな......」
私は紙束の中から後藤比奈夫の俳句を選んでいった。
「これも面白いね、『蟻の道にも道幅といへるもの』。小さくても幅があるんだね」
「これは?『曲るべきところは曲り蟻の道』。曲がりなりにも、みたいな。私は好きだな」
「私も好き」
アサは嬉しそうに笑う。彼女の頬の裏側で飴玉が転がるのがわかる。
そして彼女が言う。
「ねえアキラちゃん、よかったら梅雨が明けたらさ、一緒に遠くまで吟行に行こうよ」
「銀行?」
「うん......ごめん、バンクじゃなくて、俳句を作るために足を伸ばすことを吟行っていうんだよ。だから一緒に旅行して、アリ探しながら、俳句を作るって、どうかな?」
ははあ、と私は呟いた。そんな形式の旅行があるとは知らなかった。酒でぼやけた頭にとって、その提案はとても幸せそうに思えた。ので、乗った。
「いいね、楽しそうだね、吟行ってのは」
「やったぁ! じゃあ宿取っちゃお〜」
「すぐやる課かよ〜」
アサはゆっくりと笑みを作ると、なめていたのと同じ飴を私にくれた。口に広がる爽やかな甘さ。アサの楽しそうな表情に私は幸せな気持ちになった。
そのせいで——と言ってしまうのはアサに失礼な話だが——私は足元で雨に濡れそぼりつつある『会誌「蟻」』のことをすっかり忘れてしまっていた。
新宿から片道二時間強で伊豆大島に着くというのはもっと知られていい事実だ。たったそれだけの労力で四方を海に囲まれたこの環境にたどり着くことができる。
結局旅行は夏休みの折り返し間近になった。長かった梅雨もとうに明け、高い空から降り注ぐ直線的な光が水面をぎらぎらと湧き立たせていた。
大島に到着すると私たちはまず旅館に荷物をおき、そして身の回りのケアを万全にしたのち夏の海に繰り出した。日焼け予防もばっちりで、水着もちゃんと用意してきてある。アサに至っては麦わら帽子に浮き輪という完全に浮かれ切った格好だった。
大いに水を浴び、大いに食べ、砂浜でじゃれ合うようにして転がった。大島に特徴的な黒い砂浜。彼女の指が私の唇に触れる。しょっぱい飴だった。
「けんこう〜〜だいいち〜〜!!!」
「踊るのだいすき!!!!」
げらげらと笑い転げた一瞬、私の瞳が砂浜を歩く黒い影に吸い寄せられる。その影からすぐさま目線を外したが、アサはそれに気がついていたようだった。
懐石の夕飯を食べ、温泉にもつかり、一日を終えようというとき。
「なにか心配なことでもあるの?」
温泉で火照った身体がやけに暑くて、じわりと汗をかいていた。アサは胸元を開いて風を送っている。
「ん〜〜、ない!」
アサは声を出して笑ってくれるが、目までは笑っていなかった。
「......アリがさあ」
私の状況は梅雨の季節と全く変わっていなかった。時間が過ぎた分、悪化してさえいる。
一向に通らないエントリーシートと進まない研究。大島に渡る前、指導教官からはこの状態で卒業できるか不安だね、という言葉をもらっていた。
何度も何度も渡り損ねた横断歩道みたいだった。今まで若いというだけで開かれていた私の可能性は、ここにきて急激に失われてきているように感じられた。
「そうかそうか」
アサは私の状況を聞くと、大袈裟に頷き、かばんから本を取り出して、開く。
そこにはこうあった。
『どの蟻もすこしは道を迷いをり』。
その本は、いつかアサが読んでいた後藤比奈夫の句集だった。
「一句じゃん」
「本日は吟行し損ねたので」
「どんな意味? をりって何?」
「そのままだよ、どの蟻もすこしは道を迷っている、ってこと。大丈夫だよ、いま道に迷ってない人なんていないよ」
「うまいこと言われた感が拭えんな......」
一方で、誰もが、という言葉が気になった。つまりその誰もがというのはアサを含んでいるはずで、じゃあアサはどうだというのだろう。何か道に迷っているんだろうか。その末にここまできてしまったんだろうか。
しかし、その思考は無遠慮な一本の電話によって遮られた。発信元は研究室の指導教官だった。私は電話を引っ掴んで縁側まで歩いていったが、そこで、
「と、」
「アキラちゃん」
「とらぬ!」
電話を拒否する。時間も遅いし、指導教官には三泊四日の旅行に行くと伝えてある。応える義務はない。
「私は悪くない......!」
私の姿を見てアサは笑っていた。そして縁側まで歩み寄ると、私の口にチュッパチャプスをぐいぐいと押しつけてきた。
「歯磨きしたのに」
「もう寝る気?」
「......と、いいますと?」
「花火。買ってあるからやろうよ、それで吟行もしよう」
私とアサは酒を近所の酒屋で買い、海岸沿いで花火をした。夜の海は宇宙を思わせるような暗闇で、その中に私とアサだけがぼんやりと花火の光で浮かび上がっていた。
伊豆大島での二日目は往復二時間をかけて三原山に上った。バイクを借りて島を一周しもした。また酒を買い込んで夜の街を散策しながら笑い合った。吟行も、研究も、将来のことは全てすっかり忘れきって、この夏が全てであるように振る舞った。
「永遠に大島にいたいな」
「本当?」
「本当だよ」
「そうすればいいよ」
「そうしたいぜ!」
私はビールの缶をアサの缶ビールにぶつけた。
後から思うと、この時の彼女のセリフは冗談じゃなくて本当の本当だったんだろう。
三日目の朝、私は指導教官から来ていたメールを開いてしまった。そこに書かれていたのは、どうにか卒研が認められるよう取り図ってやるから、大島で採集をしてこい、というものだった。私は急いで折り返しの電話をかけ、その申し出がいかに自分にとって嬉しいか指導教官に述べて感謝した。そのため三日目は蟻の採集を行った。
その夜、急な嵐が島を襲った。一晩中の雨風を聞きながら音楽を再生した。そして朝起きてみると、アサの寝ていた場所には彼女と同じだけの穴が開いていた。
一度、なぜそんなにいつも飴をなめているのかと聞いてみたことがあった。彼女はそれに「わたしはお砂糖でできてるから」と答えた。確かに彼女はスパイスも火薬も入っていない、甘ったるい飴玉のように思えた。
食堂も、お手洗いも風呂場も遊技場も、旅館のどこを探してもアサの姿は見当たらなかった。番頭さんに聞いてもアサのことは誰も知らなかった。
部屋に戻ると、部屋の中をアリの一隊が歩いていた。私はしばらくそれを眺めていたが、一筆置き手紙を残すと、そのアリの隊列にそって外に出た。そしてその行列を追いかけながら、私は並ぶアリのうち数匹をピンセットで摘んでは手製のケースに入れていった。
ひとしきりの採集が終わると、今度はアサが用意していた短冊に文字を書いた。初めて書く俳句だったが、アリについて書いておけばとりあえず季語が入る。適当に五七五を埋め、アリについて色々と書き記した。
「黒々と太い重たい山の蟻」
「分け入って戻れなくなる蟻の列」
「友連れる蟻に空の手を握る」
そのうちアリは海岸沿いの岩場に行き当たった。そこに一粒の飴玉が転がっていて、アリたちはそれを目指して歩いてきていたようだった。
そして、アサの持っていた後藤比奈夫の句集——『喝采』——が、ページを下に開かれて置いてあった。
開かれたページをのぞく。
『幽霊といふ名の飴を蟻も好き』。
「アサ?」
私が夏という季節を短いと感じるようになったのはいつからだろう。
永遠に続く夏を信じられなくなったのはいつからだろう。
私の、私とアサの可能性が閉じてしまったのはなぜだったのだろう。
蟻と飴玉 subwaypkpk @subwaypkpk
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