abrs月s月p日

ここで断っておくが、日記はこれだけではない。実際には日課のように他にも多くの日記を書いていた。日々の気休めである。しかし、この備忘録では君との話を抜粋している。引かれても気持ち悪いと思われても結構である。数年で関係が薄れたような奴らとの馬鹿話など覚えていないし、風呂が気持ちいいなどの呟きのような日記に個々の思い入れはない。少なくとも私が「呟き」の日記を残した日は適当に書いた日なのだ。しかしながらこの継続の力は自画自賛に値すると自負する。



私は掃除が嫌いだった。口よりも手を動かせと何度言われ、何度抗ったことだろう。しかしそんな沈黙を強いられた掃除でも喧しくなってしまう要因があった。それが掃除領土問題である。


掃除の担当範囲は各クラス、各班で異なっており指定された場所を一心不乱に磨くというのが掟だった。また、この掃除場所はかなり具体的に線引きされていた。すなわち、自らの掃除場所から逸脱し、他の担当である領域に入ったとき、その掟を破ったことと見なされていたのだ。そして散々揉めた挙げ句、その週は侵入してしまった領土の分の掃除までしないといけなくなるのがお決まりのパターンだ。しかしこれは先生が決めたことではない。綿菓子の製造のようにどこからともなく発生した掟だ。


私の班はその日、2つの校舎をつなぐ最も大きな廊下を担当していた。基本的に濡らした雑巾とそうでない雑巾で廊下を一直線に走るのだが、ここでも領地への配慮として向こう側のクラス前の細い廊下へ入らないよう、早めにブレーキをかけることを意識していた。その様は職人に近いものがある。私は端っこまで着いたタイミングで一旦休憩し、すぐさま往復しようとした。しかしそのとき、見覚えのある上品な服が映った。奥の細い廊下を担当している班に君がいた。


あそこの担当は確か2組だよな、君は2組だったのか、などと考察していると不自然に君と目が合った。それは私が一方的に君を見ていたが故に誠に不自然であった。私は無駄な反射神経を使い、ばっと顔を逸らし、何食わぬ顔で往復を再開した。恐らく変に思われたに違いない。それはただの推測であるが、私をナーバスにするには充分の力を持っていた。そしてナーバスは人の認知能力を毟り取る。私は色眼鏡で見ていたと勘違いされているのではないかとか、あの時顔を逸らしたので何か思惑があったのだと思われているのではないかとか、とにかく被害妄想が捗った。勿論君がどう思ったかについて、真相は知らない。


認知能力の低下、思考回路の暴走が巻き起こすもので良いモノを私は知らない。簡潔に言えば、私はあろうことか奥の廊下の領域に突っ込んだ。冷や汗ものだった。咄嗟に戻ったのだが、バレてないか気になり、細い廊下の方を見た。ほんの数秒の出来事だった。


「ぼうめい」


君と目が合った。いかにも不自然だった。それは君が一方的に私を見ていたが故に誠に不自然であった。君が吐き捨てた言葉の意味を浅学だった私は分からなかったが、君は何の嫌味も軽蔑の念も感じさせない平和な笑顔で私を見ていた。私も皺だけで作った無機質な笑顔で対応した。


これまでで私が掃除領土問題で罵倒を回避できた例はこれだけである。




帰り道、偶然にも家の前の通りで君を見かけたので、掃除の件を謝った。


「気つかわせちゃって、ごめん」


「そんなことない」


そう言われて、私はいつかの海の帰りでもそう言われたとき、その言葉で微妙な雰囲気になったのを思い出した。また海に行こうと言っていたことも思い出したが、今の年齢でそれは容易ではない。


「その言葉、海開きの帰りにも聞いたような気がするな」


「え?・・・


あー、懐かしいね、たしか、泥遊びに水中じゃんけん、私の圧勝だったよね」


「最初はグー」


「え」


「じゃんけんぽん


はい、勝ちいいいい」


「ずるい」


私の肩がはたかれる。君が大袈裟なほどに口角を上げて笑っている。あの日とは雰囲気が真逆といっていいほど違っていた。揺れる肩と髪、そしてランドセルの隣に付いた給食セット。


不意に背後の夕焼けが黄金の輝きを持って美しく見えた。

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