第2話:接触(前)

 道路のでこぼこに車輪を取られ、小さな車体が何度か跳ねた。蓮華は手すりに掴まり振動に耐える。中古のエンジンが立てる音はうるさく、加えて運転手は大声で歌ってさえお見る。ミキサーにでもかけられた気分で、蓮華は歯を食いしばる。


 セロン島の民間タクシーであるスリーウィーラーは、運転席の真後ろに二人ほどが乗れる客席を設けた三輪バイクだ。安さが最もの売りだから、安全なんて求められない。

 手すりも、もとからの設備ではない。無理やり骨組みに穴を開けて、強引にネジ止めされている。力を込めて引っ張れば、そのまま外れてしまいそうだ。


 蓮華は、ドアのないドア枠の向こうへ目を向ける。正午の太陽は湿気を含んだセロン島の土を熱し、陽炎を立ち昇らせていた。自生するヤシの木を背にして、反対車線もこちら側も、時速六十キロ近い速度で自動車やバイクがひしめき合う。その中には、二頭の牛が引く台車に腰掛けた農家の男の姿もある。あらゆるものが行き交う往来を、この車も走っていた。


 蓮華は昨夜を思い出す。左腕に絡みつく柔肌の熱を感じながら。


「私はお父様を殺したい。だが、殺すだけでは満たされない。お父様が築いたすべてを、私は跡形もなく焼き尽くしたい。それはつまり、今となっては、やくざの新しい秩序を燃やしてやろうということだ。それは一人では、たとえ二人でもなしえないだろう。なら、どうするか。答えは、とても単純だ。他人の怒りを借りればいい。怒っているのは、私だけじゃないからだ」

「タロウ・カルタ・ホンディンですか」

「その通り」


 美友梨は昨日、そう言った。


「タロウは先代に拾われた捨て子の一人。活躍は長く、かるた組が地元の自警団だった頃まで遡る。逮捕歴はないけれど、起こした事件は数しれない。タロウは忠犬だったからだ。

 狂犬という渾名もあるが、組長に言われたからといって、人を殴って殺せるやつは少ない。タロウは命じられた相手を殴って、殴り続けて、顔の骨を砕いたんだ。そんな狂気の持ち主なのに、タロウは、一度も自ら暴れたことがない。これが忠犬じゃなくてなんだ? だからやつは、私のように怒っているはずだ。飼い主を殺された犬は、その仇を知ったなら、きっと復讐を誓うはずだ。だったら、手を組む余地はある」


 砂塵が巻き上がってサングラスに当たる。礫で細かな傷がつく。美友梨に無理やりかけさせてよかった。蓮華は美友梨の方を見る。

 美友梨は蓮華の左腕に抱きついて、体を預けて周囲を見ていた物見遊山を装っているが、あるいは本当に物珍しいのかもしれない。美友梨は外出をあまり許されてこなかった。だがその態度と見た目が相まって、観光客だと言って通じる姿になっている。


 美友梨は、今日はいっそう、美しかった。フリルの多い白いワンピースは袖がなく、筋肉の少ない、丸くて柔らかそうな肩や、ふっくらとした乳房の丸み、汗のたまった鎖骨のくぼみを露わにしていて、思わず息を呑むほどだ。

 事実、運転手はバックミラーで美友梨の胸元を凝視している。もしも彼女が一人だったなら、どんなちょっかいをかけられたことか。想像だけで背筋が粟立つ。蓮華は過去の経験から、男性性を好ましく思っていなかった。


「なんだ、レン……」


 視線に気づかれて、上目遣いに、サングラスの隙間から覗かれる。蓮華は首を横に振った。美友梨はふっ微笑むと、猫のように体をすり寄せた。まだ美友梨が、蓮華とただの義姉妹の関係であれたころ、彼女はよくこうして甘えてきた。


 蓮華は苦笑する。美友梨も笑う。本当にただ休日を楽しんでいるような気分になって、蓮華は自分に言い聞かせる。これはカモフラージュに過ぎない。本当の思いを使った、見せかけなのだ。


「夜鷹は、私に夢を見せてくれた。私は、しょせん売女の子供だ。組長はいずれは駱太郎がなる。私は結婚の道具として使われるか、駱太郎の嫁にされるだろう。夜鷹は、私にそうじゃない未来を見せてくれた。想像だけで、心が満たされた。だが、夜鷹は殺された。希望を奪われることは、命を奪われるより苦しい。同じだけのものを奪いたい。理屈じゃなく、そう願う。同じだけの痛みを味あわせてやらなければ満たされない。裏切られた痛み、奪われた痛み、なにもかも」


 蓮華では埋められない喪失だった。でも、なにかしたかった。全てを投げ打ってでも美友梨の助けになりたかった。蓮華は拳を握りしめた。

 美友梨はそれに気がついた。ほんの少し、外に視線を向けた後、美友梨は拳を手のひらで包んだ。蓮華は顔を上げて美友梨の横顔を見た。


「本当に、何もいらないのか」


 美友梨の言葉に蓮華は頷く。美友梨はその瞳を向けて、困ったように眉を下げた。


「新しい組長になる道もある。代償に、なんでも用意する。そう約束する」

「いいんです」


 蓮華は拳を開くと美友梨に指を絡める。


「いま、私の光はあなたです。私はあなたの怒りになります。ミユのためならなんだってします」

「途中で死ぬことになってもか」

「この命なんて、あなたの怒りに比べたら」


 蓮華は指先に力を込めた。美友梨はその目をじっと見つめた。そして偽りのないことを確かめた。美友梨は微笑むと、小さく頷いた。


「わかった。なら、好きに使わせてもらおうか」

「お客さんそろそろ街だよ、どこ行くか言いいなよ、連れてってやるよ、俺早いよ」


 早口のセロン語で運転手が言って、二人は繋いだ手を離した。スリーウィーラーの運転手は皆こうだ。聞き取るのも困難な田舎訛りを隠しもせずに、名詞を強調した発音をする。蓮華は首を横に振って、運転手の肩越しに相場の倍額の紙幣を渡す。


「誰かに聞かれたらカップルを乗せたとでも説明しろ、ホテルの前で降ろしたとな」

「ホテルの前がいいか、カップルかお前ら二人は」

「違う、誰かに聞かれたらそう言えってことだ、いいか」


 ミラーを睨みながら言う。映っている運転手は、媚びるような目でにやにや笑う。蓮華は美友梨に会釈して断ると、左腕をショルダーポーチの中へ突っこむ。コートの袖で手元を隠しながら、グロックの銃口を押し当てた。


「交差点で降りる。絶対に止まるな。お前はこれからレズビアン向けのホテルへ言って、しばらく待ってから家に帰る。そうして今日もらった金で、一週間は食っていける。それとも死にたいか」


 唇がわなないていた。焦がしそこねたように白い目が、動揺しながら、蓮華を見ている。


「わかったか」


 運転手は頷いて紙幣を受け取る。指が震えていたせいで、受け取ったとき、百ピール札が風に飛んだ。運転手は泣きそうな声を発した。美友梨はこらえきれず吹き出した。



 海岸線を右手に見ながらしばらく飛ばすと交差点が見えてきた。セロン最大の都市コロン。首都に接するこの街が、セロンの全てと言ってもいい。信号は幸いにして青だった。約束通り、二人はそこで飛び降りた。

 慌てて避けた通行人が責めるような目で睨んだが、蓮華を見るなり顔を逸らした。同業者の下っ端だろうか。疑いつつも、蓮華は首を振る。一時期懸賞金もかかっていた首だ。知っている誰かがいてもおかしくはない。


「信用できるか、あの運転手」

「生きるためには、金と力に逆らわない。それがこの国の常識です」

「最近、忘れかけていたよ」


 美友梨はさえずりながら歩き出す。組まれたままの腕を引かれて姿勢を崩す。蓮華は慌てて追いつきながら歩調を整える。

 歩道は、境界線は引かれていないものの、いくつかの領域に分かれている。車道からグラデーションのように、舗装が次第に行き届き、道らしい道へ変わっていく。そこを歩く人々も違った。最も奥の舗装された道を歩くのはこの国の富裕層やアジア人や白人で、身なりもきちんと整っている。整備が行われずひび割れていたりする道は中流以下のセロン人が使用しており、車道との縁は、それ以下の人々のものだった。


 美友梨は最も車道から離れたアスファルトの道に足を運んで、肌を出した白人やアジア人観光客に紛れる。蓮華は辺りを見回した。尾行がないか確かめたかった。

 物珍しそうに、道行くセロン人が無遠慮な視線を投げかけていた。更にその奥、車道との間の縁石に沿って芋虫のように丸まる乞食たちも、哀れっぽい目で蓮華たちを見ていた。どれも、包帯を腕や目に巻いていて、不自然に落ち窪んでいたり、欠けている。従軍し、身体を損なって用済みとされた兵隊だ。

 若い兵隊と目があって、蓮華はさっと視線を逸らした。


「尾行はなし。大丈夫です」

「心配ないと言っただろ?」


 美友梨は笑い、しかしさっと顔色を変えた。蓮華は咄嗟に腕を引いた。美友梨を抱きとめると、目の前を小銭が飛んでいった。小銭は乞食に投げられたものだった。両腕のない老人の、膝の前に置かれたお椀に狙いすましたように入る。老人はぺこぺこと頭を下げた。

 どっと、近くで笑いが上がった。投げたのは、白人たちと並んで歩く、ブランド服に身を固めた成金のセロン人だった。成金は老人に中指を立てた。老人が拾い上げたのは、ゲームセンターのメダルだった。


 美友梨が拳を握ったことに蓮華は気づいた。美友梨は前を向くと、先程より歩調を早めた。


 街の中心部へ近づくにつれ、道は左右に大きくなり、歩道を行く人の密度も減る。風に乗った潮の香りも嗅ぎ取れるようになってきた。ぐっと伸びをして人心地つく美友梨を見て、蓮華は頬を緩ませる。状況が状況だとはいえ、こうして歩くのは久々だ。


「それで、心当たりはあるのですか?」

「いいや、まったく。タロウがどこにいるかなんて、私には知りようがないだろう。会いに行くのは情報屋だよ。お前もきっと知っている。宝石商のムスリムだ」


 美友梨は得意げに微笑んだ。サヒードのことだとすぐにわかった。名字も渾名もなしのサヒード。しかし、彼は情報屋ではないはずだ。蓮華が訝しんでいると、美友梨は蓮華の腕に抱きつく。


「レン、サヒードが誰と取引するか知っているか。答えはな、誰とでも、だ。彼は誰かに贔屓をしない。エジプトから戦争を逃れてこの国まで逃げてきて、彼が身に着けた処世術だ。あらゆる組織、個人と対等にやり取りする。それを為し得ているんだよ。だから当然、私たちみたいなやくざものとも繋がりがある。平等にね」

「ですが、ただの宝石商ですよ」

「人は贅沢をしたいとき、つい口が軽くなるものだよ。彼の語りもうまいしな。それに、聞き取る耳はどこにでもあり、喋る口も同じだけある。一人とではなく、何人もと仲良くするうちに、サヒードはどんな情報でも知るようになる」

「もっともらしい言い分ですが……確証はお有りなのですか?」

「そうでもなければ、この国で商売を上げ続けながら清廉潔白でいられないだろう。有力者たちが手出しできないほどの牙城だ。なにが埋もれているかわからないぞ」


 大通りへと出ると視界にセロン語や英語が飛び交った。道の左右から片道三車線の車道と両脇の歩道の頭上に看板が突き出ていた。どこもかしこも文字だらけ。開けた道というのに狭苦しい。息をつこうと車道に視線を向けたとしても、真っ直ぐ続く道の先は、デパートが掲げる水着姿の女優たちの看板があった。美味しそうに炭酸ジュースを飲んでいる。


 目当ての店は、そのデパートを右へ曲がったところにある。階段の前の門はネオンライトで飾られて、けばけばしい光を発している。その光に囲われて、陽気な書体が踊っていた。「アッラーホ・ユサッリムカ(神の御加護がありますように)」――それはサヒードの口癖でもある。


 ガラス扉を抜けると清潔な空気のにおいがした。階段は更に続いている。階下にはショーケースが並んでいて、降りて正面にある棚のそばには、身なりを整えた店員が控えている。二人が階段を降りると、愉快そうな笑い声がした。


 ケースが並ぶ空間が左奥へと突き出ていて、男はそこから現れた。清潔なシャツに緋色のベストを合わせた男は、ニコニコと人懐っこい笑みを浮かべた。


「珍しいお客もあるものだ」

「サヒード。久しぶり」


 美友梨は両手を広げてサヒードのハグを受け入れる。サヒードはエジプトに生まれ、フランスで育った。ジズーという、ハグと頬へのキスが彼の挨拶だった。サヒードは蓮華にも視線を向けたが問われるより先に蓮華は会釈して彼流の挨拶を拒む。おどけたように肩をすくめると、サヒードはまた笑顔を浮かべた。


「さ、どうぞ座ってください」


 指を鳴らすとどこからともなく何名か店員が現れて、てきぱきと場を整える。二つのソファが用意され、二人はそこに腰掛けた。サヒードは机を挟んで向かいのバロンチェアに腰掛けると、身を乗り出して二人を見た。


「夜鷹のことは、残念でしたな」

「もう耳にしているのか」

「もちろん、もちろん。この街で知らない人はかたぎだけです」


 美友梨は店員が持ってきたマグカップを手にとって、中身を見て苦笑した。


「覚えてたのね、好きだったこと」

「ミルクコーヒーはもう好きじゃありませんかな」

「味の好みは変わらないわ」

「それは安心。蓮華さんも、さあ、飲みなさい」

「いえ、わたしは……今は喉が渇いてないので」


 サヒードは深く頷くと、手すりで体を支えつつ姿勢を正す。


「それで、要件は……指輪の返品ではなさそうだ」

「きっとお察しの通りだよ」

「想像したくないものですな。私にどうしろというのです……」

「場所を教えてほしい。カルタ・トミナガを殺されて怒っている者たちの居場所を」

「それでどうしようというのです」

「火に油を注いでやるのだ」

「あなたが、油をお持ちですか」


 サヒードは神妙な顔つきになって、じっと美友梨の顔を見た。しばらくそうして、サヒードは額の汗を拭った。


「どうやら、冗談ではないらしいですな」


 美友梨は微笑んだ。サヒードは机に身を乗り出した。


「この国では情報がたやすく売買されます。取引や決め事だけじゃない。汚職、贈賄、不倫、売春、そういったものも扱われている。だけどたやすく買えるものは、大して力を持ちません。あなたが求めている情報は、この店の宝石をすべて買うより手に入れがたい。なぜか、お分かりですか」


 サヒードは首を傾ける。美友梨は薄く笑うばかりだ。


「それはこの情報が、流れを破壊しうるからです。人々が、国が、社会が、この次にはこうなるだろうと思わせている流れ、それが時代というものですが、然るべき人物が、然るべき情報を手に入れて、然るべき行動を起こすとき、それまでは予定通りだった流れが、根本から姿を変えてしまう。


 あなたはご存知ないだろうが、この国では、大きなうねりが起きている。長い長い荒廃に、うんざりして、怒りを表し、壊しそうとする者がいるのです。私は彼に、情報を渡しました。

 近い将来、この国は変わります。この島は、大きくひっくり返る。あなたが生み出すものが、もし想像の通りなら、そして私が想像する通りの事が起きるなら、その変化は、想像もつかない規模になる。

 劇的に、物事は変わっていくでしょう。そんなものを扱うには、金なんかでは解決できない。美友梨さん、あなたは、私に何を示せますか」


 美友梨はマグに口をつけた。中身を飲んで、机に置くと、手のひらを上にして、左腕を出した。まくりあげられた薄い袖の下から、白い肌をまっすぐ裂いた、赤い一筋の線が現れた。サヒードは息を呑んで、美友梨を見た。

 美友梨は懐から鋏を取り出して、大きく開いて、その片側の刃を肌に置いた。よく研がれた鋏の腹に、美友梨の微笑みが映り込む。


「私は、全て、燃やしつくす。それが、なんであってもだ。示せるものなど、これしかない。私の、怒り、それだけだとも」


 美友梨はサヒードを見つめた。


「この傷は誓いの傷だ。蓮華と交わした誓いの傷だ。この怒りの求めるままに、すべてを壊し尽くす覚悟だ。それで不満なら、もう一つ増やそう」

「引き返すことは、できませんよ」


 サヒードは声を震わせた。


「もう戻る場所などない。求めていた未来は、無残に踏みにじられたからな」

「……よろしい、話しましょう」

「ありがとう」


 美友梨は鋏を懐に仕舞う。腕は蓮華の膝の上に置く。蓮華は美友梨の袖をもとに戻して皺を整えた。サヒードは人差し指を立てた。


「ですが、一つだけ忘れないでください。あなたやタロウの持つ怒りは、彼の怒りと規模が違う。彼の怒りは、あなたがたの怒りすら飲み尽くし、すべてを燃やし尽くすでしょう。

 触れることになる炎には、常に真摯に向き合いなさい。炎を消すのは水ではない。同じだけの炎なのです。さもなくば、呑まれて、灰となるのみ。ゆめゆめお忘れなきように。アッラーホ・ユサッリムカ」


第2話:接触(中)へつづく

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