第3話

▼瑞鹿山円覚寺 開山堂 晩課諷経後


【禅寺の一日は修行とともにまたたく間に過ぎ去ってゆきます。今はもう夕べのお勤めも終わった時分。時刻としては大体夕方の六時頃に当たります。もうすっかり短くなった日は、とっくに西の山へと沈みました。寺の境内は暗闇に覆われ、秋の終わりまで寿命の長い虫の音が侘びしく響いています。さっきまで聞こえていた晩課諷経の声も読み終わりのようで、静かに止みました。一日中吹いていた風も夕べになって止み、雲水たちも安心して蝋燭をともすことができるようになりました。雲八、水熊の二人はというと、開山堂からくだってきて火の用心の見回りの準備をするところ】


雲八  <うー、寒い。宵になって、ひときわ寒くなってきましたな>

水熊  <ええ。震えあがりますよ、こりゃあ>

雲八  <こう真っ暗な石段を、こんなかじかんだ手足でくだっていくのも、じゅうぶん気を付けないと>

水熊  <ええ、ええ。普段より鈍感になっておりますからな。気を付けていきましょう>

雲八  <さてと、ここから夜の行いか、どうでしょう、火の用心のため境内を回りますか?>

水熊  <承知。歩いておれば体も温まるというものでしょう>

雲八  <回るに、使える拍子木は?>

水熊  <ああ、ありかは私が知ってます。そこの下の倉の北面の棚にあるはず>

雲八  <では、取りに行きましょう>

水熊  <八さんは拍子木で。私は、じゃあ、鉦にしましょうかね>

雲八  <鉦も倉にあります?>

水熊  <いや、途中僧坊にお寄りくだされ>

雲八  <はい>

水熊  <さ~さ、火の用心~、火の用心~>

雲八  <おお、お早い。もうやりますか?>

水熊  <ええ。別に拍子木と鉦がないと声が出ないってわけでもありませんし。こんな声ならいつでもどこでも>

雲八  <たしかに、その通り>

水熊  <でも、ま、なんとなく締まらないですかな?>

雲八  <失礼ながら、そうですな、そんな感じを受けまして聞きました>

水熊  <ぴしゃり、ぴしゃり、さ~さ、火の用心~、かんかんかん、というのが決まりですものね?>

雲八  <ええ、聞いてるほうもなんとなく>

水熊  <それでは、倉と僧坊に着いてから、始めましょうか>


【更けるにしがって冷えてゆく宵のなか、二人は無事に拍子木と鉦を手に入れました。それらの物の冷たさにも、二人のあいだでひとくさりあったのち】


水熊  <火の用心~>

雲八  <火の用心~>

水熊  <火の用心~>


【二人そろって繰り返し声を発したところで、単調な呼びかけに飽きたのでしょうか、雲八が妙に詞を補い補い】


雲八  <火の用心~、には秋葉三尺坊のお功徳。あらせたまえ。守らせたまえ。熊さん、いいところで、かんかん、ぴしゃりをお願いしますよ>

水熊  <わかりました。それにしても、今のは何ですか?>

雲八  <今宵の火の厄除けに、神様仏様にもお力添え頂こうという魂胆>

水熊  <ははは>

雲八  <火の用心~、には厄除け火除け、遠州浜松秋葉神社にかしこみて>

水熊  <火の用心~、には備州尾道千光寺>

(遠音)  <他教他宗の門のうち。宗論するなら受けて立つ>


【ここでまたまた二人から「州」の音が口を衝いて出ました。いったんはナリをひそめた語呂がまたまた転がり始めそうになります。さらには、この時間どこかで別の行いをする者でしょうか、遠音に「宗」の音まで加担する始末。二人はいかがするでしょう、止めるでしょうか、転がるでしょうか】


雲八  <いけませんね。どこぞからか。ウン州と言うのが他宗と聞こえちゃ>

水熊  <他宗但州山名宗全。京の都が焼けずんば>

雲八  <火の用心~。いやいや、熊さん、もうここらで>

(遠音)  <今や京五山南禅寺に眠ってる>

雲八  <まったく、向こうも向こうだ。まだちょっかいを出してくるお方がいる。他宗ではない南禅寺と>

水熊  <ほう、こう水を差されて、興もさめますし、やめましょう>

雲八  <そうですな。そんな話をしてたら、もう山門まで>

水熊  <歩き回って、寒さも少しやわらいだ気がします>

雲八  <では、続いて、方丈まで戻りますか?>

水熊  <はい。火の用心~。相州、武州、遠州、伊州、皆の衆、火除けの大事は変わりなく>

雲八  <またまた>

水熊  <へへ、ちょっとした出来心で。方丈も近い、そろそろ、うるさがたも多くなってきますでしょう、やめます、やめます、本当に>

雲八  <方丈が見えてきました。重い甍の連なりが夜の光に照っておって>

水熊  <風流風流。この暗きなかでは、奥の間の山水図も雲龍図も、見えないでしょうけどね>

雲八  <雪舟等楊の奥義も、これではいくら目をこすっても>

水熊  <ええ、ええ。特に我々坊主の身では>

雲八  <と言うと?>

水熊  <ああ、ほら、雪国じゃ我々のこの坊主頭じゃ寒いでしょう?とあらば、当然頭巾を重ね、そのうち中も蒸れ汚れ、頭のかゆみに苦しめられる。雪州頭痒>


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【落語台本】八百八洲(はっぴゃくやしゅう) 紀瀬川 沙 @Kisegawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ