覚えのない鏡

中村ハル

第1話

 ちゃりん、と硬質の物がアスファルトに落ちる音が響いて、辺りを歩いていた人々が、一斉に振り向いた。

 私とて例外ではない。ちらりと音を振り返り、それが比較的近くで響いたことに警戒して、歩きながらスーツのポケットに手を突っ込む。昼飯時に釣銭で貰った硬貨は間違いなくそこにいて、それゆえあれの落とし主は私ではないはずだ。だが、会社の鍵はどうしたか。歩みを緩めて鞄を提げた方の手で、ズボンのポケットを探るが、触れるはずの鍵に到達しない。

 あれおかしいな、などと口中で呟きながら、あちらこちらを弄るが、探しているものが見当たらず、遂に足を止めて鞄の蓋を開けて覗き込む。やっぱりあれは、と音の方を再び振り返ったその時、声がした。

「落としましたよ」

 呼び止められたのは、私ではない。私の立ち止まった場所より少し後ろで、差し出されたピカピカと光る物に、若い男が頭を振った。

「オレのじゃないよ」

 少年は不思議そうに男を見上げて首を傾げる。

「でも、あなたから落ちたように見えたんだけどな」

「そうか。でも、違う」

 煩しそうに手を振って子どもを遠ざけると、洒落た服装の男はそのまま歩いて行った。

 少年はきょろきょろと辺りを見回していたが、やがてこちらに視線を巡らせると、しげしげと私の顔を見て、やにわに走り寄ってくる。

「落としましたよ」

「えっ」

 咄嗟にスーツのポケットを叩き、それから尻のポケット、内ポケットに手を突っ込む。やはり鍵は何処にもない。

「ほら、今度は落としたらダメだよ。大切な物だから」

 少年は慌てふためく私の手の中にそれを押し込むと、前触れもなく走り去り、あっという間に雑踏に紛れてしまった。

 掌に残された物を見下ろせば、それは探し求めていた社屋の鍵ではなく、小さな鏡である。枠もなく、卵型の鏡本体だけが剥き出しで、とてもご婦人が好むような物ではないから、なるほど、男の持ち物と見当をつけたのは賢明だろう。だが、私の一体何処に、鏡を持ち歩くような素質を見い出したのかは全く持って謎である。

 先ほどの、センスの良い若者に断られた辺りで、少年は、親切心を保つのが面倒になっていたのかもしれない。

 高価な物かどうかも無粋な私にはいっかな判別がつかないが、さして新しい物でなく、とはいえ使い込まれたというほどの手入れの跡もない。まあ、落とし主はきっと、すぐに新しい物を買い求めるだろうと、私は深く考えもせずにその卵形の鏡を内ポケットに落とし込んだ。束の間、シャツの生地越しに胸にひんやりとした感触が伝わったが、すぐに肌に温まって、やがて、存在を忘れてしまった。

 曲がり角の向こうで、がしゃんと大きな音がして、にわかに通りが騒がしくなったからだ。

 事故だと誰かが叫び、程なくサイレンやら警察やらが慌ただしく辺りを走り回った。

 ちなみに会社の鍵は、なんということはない。社に戻れば私の机の引き出しに、ちょん、と収まっていた。


 懐の鏡を思い出したのは、翌朝、駅のホームで列車を待ちながら、新聞を広げた時だった。どこかで事故があり、若い男が一人、亡くなったという。痛ましいことだ。

 続いて読み進めると、昨日通りすがったあの場所での事故のことだと合点がいった。

 そうか、あの時の騒ぎはこれだったか、と眉をひそめる。そして。事故で亡くなった男の写真に釘付けになった。

 画像が荒いが、これは確かに昨日見たあの男だ。少年から鏡を差し出され、無下にした若くて颯爽としたあの青年。

 知らぬ間に、胸の鏡を服の上から押さえ込んだ。くらくらと、目が回る。

 ふらりと、足元が揺らいだ瞬間、誰かが私の背中に、とん、とぶつかった。

 あ、と思った時には既に、私の身体は前に押し出され、ホームの端から地べたのない宙に向けて片脚を踏み出していた。手の中で、読みかけの新聞紙が握り潰される。

「わあ」

 と情けのない悲鳴が喉の壁を押し広げて震えながら絞り出される。前に傾いた視界の右隅に列車のライトが遠く近づいてくる。

 誰かが、甲高い悲鳴を上げた。それが呼び水となって、ホームに規則正しく並んだ人波が、揺れてたわんで大波となる。私は海を泳ぐように空を掻いて暴れたが、残されたもう片脚は、急くように私を線路に押し出す。私の手から逃れた新聞が、深海に沈む魚の如く、線路に向かって落ちていく。

 汽笛が大きく、そして激しく空気を裂いた。その場の誰もの喉から迸るべき悲鳴を掻き集めたような音だった。

 目玉が溢れんばかりに見開いたまなじりから、涙が滲む。くいしばった奥歯は欠けてしまいそうだ。

 横っ面に風が強く吹き付けて、私が自分の身体とその内側の何もかもを諦めかけた時、誰かが私の襟首と背中をぐいと後ろに引き倒す。

 投げ飛ばすほどの勢いで、私は後ろに引っ張られ、宙に浮いた爪先のほんのすぐ先を、速度を絞った列車が、耳障りな叫びをぶちまけながら過ぎていく。やがてそれは、深い深い安堵の息を車体全体から漏らして、停まった。

 辺りは、誰も彼もが消え失せたかのように無音だったが、空気ばかりははち切れるほど膨れていた。

 すぐに駅員が方々から走り寄り、私に向けて寄せる人波を押し戻し、整理していく。私の腕と肩に置かれた救いの手は、重くがっしりとしていて、振り向くことができない。

 心臓が、口から飛び出してくるような気がして、私は胸を強く押さえた。硬く温まった感覚が布越しに指先に食い込んだ。鏡だ。卵形の、ピカピカと光る、あの鏡。

 誰かが私の背後に立つ気配がした。

「あの若い男は『命』を落とした。あなたは『命拾い』をしたんだ」

 少年の声が耳元でさざめく。

 私は風に誘われて、ゆるゆると声を見た。あの少年が、私の肩を掴む男の腰に絡みついて、こちらに微笑んでいる。ぽかんとした私を他所に、男の背を軽く叩いて、少年は踵を返した。

「さあ、いこう。僕の用事はこれで済んだ」

「ま、待ってくれ」

「あ、鏡はなくなっちゃうけど、気にしないでいいよ。今ので使っちゃったけど、あなたの元々のがあるから」

 肩越しににっこりと笑んだ少年の言葉に、私は慌てて懐を探る。そこにはまだ、確かに鏡があった。

 引き出して手の上に乗せれば、それは途端に風に崩れて、きらきらとした砂となって飛んでいく。少年の姿を探して立ち上がったが、その背は既に人々の間に見え隠れして、遠い。

 少年を呼び戻そうとする私を、駅員や救護員、そうして数多の野次馬が取り囲み、飲み込んでいった。

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覚えのない鏡 中村ハル @halnakamura

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