第18話

  樗里疾は違和感を拭えずにいた。

 具体的には言い表せないのだが何かがおかしい。

 洛陽を攻めてから半月が経った。

 地が埋まるほどの大軍を導入した。

 初日で城の周囲に掘られた堀の一部を埋め、梯子を掛け敵の総大将たる白圭に迫った。

 しかし、急先鋒を志願した汗全はあっさりと返り討ちに遭った。それだけでなく今はあちら側に寝返り、隊長の一人として辣腕を振るっているのだという。

 韓軍から投降してきた指揮官の中で最も素質を感じた男であった為、千人将に任じようとしたところあっさりと固辞し公叔嬰の麾下五百だけを吸収し死に兵を志願した。

 樗里疾が会った時は影を纏った暗い男だという印象だったが、白圭に敗れてからはまるで憑物が落ちたかのように溌剌とし、明朗な性格になっているのだという。



 日中夜絶え間なく攻撃を加え続けているのに洛陽城は落ちる気配が全くしない。

 兵たちからもたらされる情報を統合していって気づいたことだが、この城には相当厚い防御が施されている。

 外周には堀が幾重にも掘られておりその間を縫うようにこれまた数えきれないほどの土塁が築かれている。

 これらのせいで攻城兵器は機動性を欠き、敵の的になることも多かった。

 実際これまで投石機一台と雲梯三台が破壊され周囲にいた兵たちにもかなりの損害を与えていた。

 魏冉も高い兵器を壊され相当嘆いていた。

 あいつの頭には金しか無いのか。


 城自体の防御もその考え抜かれた実用性に舌を巻くほどで、通路は迷宮のように入り組んでおり進んでいるといつの間にか自分たちの居場所が分からなくなり弓や火などの罠で全滅しているそうだ。

 城門を開ける装置の場所は未だその尻尾すら掴めていない。

 城壁もこれまでの数段は高くなっており、無数の城塔が取り付けられていた。


 そして何より白圭の指揮が異常だ。

 硬いと思えば柔らかく、定石かと思えば変幻にと形を持たない自由な戦術で城壁に登った我が軍は散々に打ち破られている。

 白圭だけでなく他の隊長たちも皆隙がなく今現在、洛陽が落ちる未来は全く見えない。

 落ち目に思われていた周に西方の強国秦に抗しうる人材がこれほど残っていようとは思わなかった。

 やはり白圭の人を無意識に引きつける力故なのか。


 しかし、やはり変だ。

 万全では言い表せないほどの防御を備え、卓越した指揮を見せる白圭が何故初日で堀の一部を易々と破られた。

 今思い返せばわざと敵に破らせるよう他に比べて脆く作っていたとしか思えない。

  しかし、理由がわからない。



最初、白圭が籠城を選択したと聞いた時、失望に近いものを感じた。

 天下に名だたる傑人として、その噂は樗里疾の耳にまで届いていた。

 しかし、所詮は賈人でしかない。

 籠城戦は援軍が到着することが前提で初めて成立する戦術だ。

 援軍が来なければ所詮大軍の中に孤立した点でしかなくなる。


 

 精強なる秦軍に包囲された状況を打開できるのは中華広しと言えどもただ一人だけだ。

  孟嘗君 田文。秦の覇業を阻み続ける男。

 その一声で諸国の勢力図が書き換わる天下の重心たる大人物。

 政治家として傑出しており、彼が宰相になってたった十数年で東方の小国に過ぎなかった斉を秦と並ぶ最強国にのし上げた。

 武人としても規格外で、利害が絡み指揮系統が混乱するはずの楚、趙、魏、韓、燕を含めた六国の連合を見事に纏め上げ自らの手足の如く操り繰り広げる見事な戦術に秦は幾度となく煮湯を飲まされてきた。


 孟嘗君の名は秦にとって悪夢のようなものだ。

 現在、天下の名声は白圭と孟嘗君で二分されていると言っていい。


 確かに孟嘗君が動けばいくら大軍を擁した秦といえども退却せざるを得ないだろう。

 しかし、そこは魏冉が抜かりなく手を打っている。

 本人は嫌がったが宰相の屋敷が三つ建てられるほどの金を渡したら渋々ながら承知した。

 魏冉は子飼いの従説家を各国に送り込んだ。そして、懐王の圧政に喘ぐ楚の噂を虚実織り交ぜて流した。無論、賄賂もふんだんに渡した。それでも魏冉の秦の真意に気付き、阻止しようとした正義漢もいたがそいつらは始末した。事故としか見えない方法でだ。

 やがて噂は尾鰭がつき世論が形成され、義を掲げる孟嘗君が楚を攻めざるをえない状況を作った。

 思惑通りことは運び、孟嘗君は現在魏、韓を率いて垂沙の地にて楚軍と対峙している。

 楚軍は守りをしっかりと固めており、孟嘗君とて決着をつけるのに二年はかかるだろう。




  たった三月余りで海千山千の為政者たちを手玉にとり孟嘗君の動きを封じ込めた魏冉の手腕は恐るべきものだった。

 金にはがめつい、いや金しか頭にはないが魏冉もまたこの時代を代表する男の一人なのだ。



  しかし、孟嘗君も彼一人ではこのような策略にはかかりはしなかっただろう。

 彼の不幸は主君に恵まれなかったこと。

 斉の現君主 湣王は孟嘗君が育てた斉の国力を己が力と自惚れ、覇者を気取りながらも狭量で吝嗇。視野が狭く戦を好み、礼を失した暗愚の輩だと聞く。

 湣王は挙げ句の果てには、その名声、天を衝かんばかりの孟嘗君を疎ましく思うようになり隙あらば殺そうと考えているそうだ。

 だからこそ、激戦の地 垂沙へ孟嘗君を行かせるよう湣王に勅令を出させるのも難しくなかった。



 孟嘗君は我が軍を破りうる唯一の人物。裏を返せば孟嘗君以外に秦軍を破れるものはいないのだ。

 よって周に援軍を送れる勢力はもはや無く、洛陽は孤立無援だ。

 当然、白圭はこのことをとっくに知っていた筈だ。

 大商人として中華全土に網の目の如く細かい情報網を張り巡らせているのだから。

  なのに白圭は秦と戦うことを選んだ。

 闘いぶりを見る限り城を枕に討ち死にする気でもなさそうだ。

 一体何を考えているのか。

 晴らしようのない漠然とした不安が樗里疾を包んだ。




 洛邑の中は活気に溢れているとまでは言えぬまでも殺伐とした雰囲気が皆無だった。つい先日まで兵だったものも民だったものも等しく武器を携え、傷を負い共に食卓を囲んでいた。

 やはり白圭の存在が大きい。白圭は戦では常に最前線に立ち味方を鼓舞し、夜には兵達の間を見て回り心が弱っているもの、不満を抱えているものの胸の内を根気強く聞いてやり励まし精神を支えている。

 兵達は白圭を父の如く慕っている。


 洛邑内には白圭が蓄えた食料が山のように残っており軽く一年は持ち堪えれるだろう。

 食料の配給は女達の手によって行われる。

 蓄えられた米や小麦を練ったものを湯で煮て、塩で味をつけその上に干し魚を少し載せた簡単なものだ。

 しかし、これが戦に疲れた体に染みるのだ。

 皆貪るように食っている。

 前にいた一人が受け取り白嬰の番になった。

 今日の配給係は扈孫娘のようだ。彼女は茶坊の嫁なのであるが見ようによっては父親と娘のように見える。それほど扈孫娘は若々しかった。よく焦げた皮膚にすらっと長い手足。彫りの深い顔の右上に黒子がついている。

 扈孫娘は戦場に出れない女子供達を統率しているのだが彼女自身は男でも持て余すほどの大刀を軽々と担ぎ敵を切り刻んでいる。度量は大きく泣いている兵を突き放すような口調で罵るのだが、そこにはあまりにも大きな優しさが横たわっている。


 「なんだい白嬰じゃないか。今日も大活躍だったらしいね。さすが白圭の息子だねぇ。しっかり食うんだよ。」

 そう言って扈孫娘は白嬰が差し出した腕に少し多めに粥を入れてくれた。

 白嬰は礼を言いどこか適当な場所を探した。


 「おぅいこっちだ光臥龍こうがりゅう。」

 渾名で呼び掛けられた。

 「なんだ白晈児か。」

 こちらも渾名で返す。陶英は粥を半分ほど食べていた。

 「それはそうとして陶英兄さん、俺をその名で呼ぶのはやめてくれよ。」


 「なんだ気に入らないのか?」


 「そうじゃないけど俺には贅沢すぎる。輝き地に伏す龍だなんて。」


 「そんなことはないさ。現にお前は失敗を繰り返しながらも着実に成長している。俺から言わせればまだまだだがな。」

 陶英は軽く白嬰の頭を小突いた。

 「それにな。光臥龍、お前にぴったりだと思うぜ。今はまだ地に眠る龍だが一たび目を覚ませば風雲を巻き起こし天下を自在に渡り歩く大龍になる。だからよ…」

 陶英は一度言葉を区切り何やら戸惑いの表情を浮かべた。喉に何か言葉がつっかえているようだ。

 やがて意を決したように目を見開き口を開いた。


「俺より先に死ぬんじゃねぇぞ。お前はここで終わっていい存在じゃねぇ。」

 陶英はそれから腕の中を一口で空にして立ち上がり兵舎の方へと歩いていった。

 白嬰はその背中を見えなくなるまで見つめていた。

 それから暫く動けなかった。腕の中の粥はすっかり冷め切っている。それを一息で飲み干した。酷く喉の通りが悪かった。


 

 白嬰は馬小屋で華淑の世話をしていた。どれだけ疲れていてもこれだけは欠かしたことがない。

 そこで白嬰は華淑にいろんなことを話す。辛かったこと、楽しかったこと、嬉しかったこと、寂しかったこと。馬を乗りこなすためには気持ちを通じさせなければならないと白圭から教わったからだ。華淑も言葉こそ返さないが十分理解してくれていることが白嬰にはよくわかる。

 白嬰は華淑の首を抱いた。

 「なぁ、今日もたくさん殺しちまった。一体いつまで続くんだろうな。もううんざりだ。華淑、俺は自分が怖い。自分には親父には無い弱さが流れている。その弱さが人を殺させる。」

 白嬰はいつのまにか寝てしまっていた。

 頬には一筋の涙が伝っている。

 華淑はそれを優しく舐めとった。



 


 陶英は城内を見回っていた。籠城に於いて最も恐ろしいことは外圧では無く内応だ。堅牢な城も内側が崩れれば砂よりも脆く砕け散る。

 「ん?」

 陶英は城壁の修理の素材を運んでいると思しき男に目が留まった。何か違和感が去来したのだ。男たちの動きに何ら不審なことは無かった。しかし、体が妙に鍛え抜かれている。膨れ上がった足にがっしりとした体つき。それに体運びが滑らかで俊敏すぎる。まるで厳しい調練を経た兵士のようだ。そして何より目には不敵な光が流れていた。家畜を守ろうとする羊飼いというよりもそれを狩ろうとする豺狼のような目だ。


 「おい、そこの二人。」


 「へい、何でございましょうか。」


 「お前どこの隊のものだ?たとえ戦闘部隊でなくてもそれを統括する頭領があるはずだろう。」

 男は明らかに言い淀んだ。陶英はますます疑念を深め苻を出すよう求めた。白圭が内応対策として城内にいる全員に持たせたものだ。持ち主の名前が書かれている。

 「へいへい、苻でございますね。少々お待ちを。」

 男は懐を弄った。突如鈍い光が煌めいた。男の体が形を失う。余りにも早い。

 陶英の首筋から赤い血がまるで独立した生き物のように吹き出した。

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キングダム・バルカ〜秦に悪夢をもたらした男〜 @kisiro

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