夜光杯
書矩
From Dusk to Dawn
教授が漢詩人たちの交友を滔々と語っているとき、僕はまんまと寝落ちした。前から二列目、教壇の正面少し右。起きたとき話はほとんど飛んでいなかった。幸い教授は不誠実な学生には気付かなかったようなので、僕は何食わぬ顔でペンを握り直──せなかった。
かたん、と小さな音を立てて、僕の愛用するゲルインキボールペンはノートに落下した。僕の目は確かに捉えていた──ボールペンが、僕の手を通過する瞬間を。
恐る恐る指先で摘まむと、ボールペンは大人しく物理法則に従った。僕は気を取り直して、講義に意識を向けた。
講義後、ノート内容に漏れがないか見直し、荷物をしまっていると、机上に人影が落ちた。僕は顔を上げた。知らない男だ。遊び歩いていそうな風貌が、僕に不信感を抱かせた。
「……何の用でしょうか」
「さっき、ペン透けたよな」奴はそこそこでかい声でそう言ってから、腰を屈め、硬い椅子に座ったままの僕に目線を合わせた。「正確には……あんたの体がペンを通過させたな」
さ、と血の気が引いた。見られていたのだ。そして、あれは僕の気のせいなんかじゃなかった。
「あー」隠し事が良い結果を生むと思えなかった。「透けましたねえ、はい」
「あっさり認めたな」
「いやまあ、実際透けちゃったわけですし……てか、あの、初対面ですよね」
「あ、そうか。あんたと同じく文学部のソソギです」
「ソソギ、さん?」
「注ぐ木って書いて注木。あんたは……へー、そんな字の名前なの」
注木は僕の書いたリアクションペーパーを見て言った。
「カカゲトウトと読みます」
「カカゲ……トウト……ふうん」
僕は注木という男から面倒事の気配を察して、可能な限り迅速に場を離れることにした。
「注木さん」
「うん?」
「僕帰っていいですか?」
「だめ。バラすぞ」
「僕を?」
ごく反射的に聞き返すと、注木は変な顔をした。笑いを堪えながら呆れているらしい。
「何で掲藤人を解体するんだよ」
「いや……もしや脅迫かなと思ったので」
「だとしても行き過ぎだろ。……透けたことを言い触らすぞ」
「誰も信じないと思いますよ」
というか、噂が広まったところで学内に僕のことを知る人はほぼいないので、何の支障も無い。僕の交流の狭さを舐めないでほしい。
「ん、そうか……」
注木は言葉に詰まった。
「そもそも、なんでそんな僕に固執するんですか」
僕は思わず警戒心をあらわにした。注木はそれを感じ取ったらしく、途端に大人しくなった。
「……すまん」
「帰っていいですか?」
駄目押しでもう一度訊いてみる。
「うん。引き止めて悪かった」
いきなり手を引いた注木がなんだか不気味に思えたが、僕はありがたく席を立たせてもらった。
僕の数少ない友人に注木のことを聞くと、どうやら学内では名の知れた人間らしかった。趣味に時間を費やす享楽的な一面を持ちながら、一方で講義にも力を入れている。そして、オカルトかぶれ。不思議な奴だよ、と友人はつぶやいた。
しかし、今までも僕と同じ漢文学の講義を取っていたとしたなら、注木には見覚えがあって然るべきだ。だがそれが無い。過去のことを思い返そうとしたが、なぜか何も浮かばなかった。
翌日、大学構内のカフェテリアで注木とばったり出くわした。どこかに空席は無いかと見回した瞬間だった。
注木は僕に向かって手を挙げた。
「……注木さん」
「席ないなら来いよ。相席でよければ」
プレートを持ったまま店内をいたずらにうろつくか、向かいが面倒な相手にしろさっさと席についてしまうか。
僕は空席を探す作業が嫌いだ。
「じゃあ……お言葉に甘えて」
僕は注木の向かいに座った。
「昨日の続きなんだけどさ」すぐ、注木が声を潜めて言った。
「俺、もうひとつあんたの秘密を知ってるんだよ」
「……何ですか、いきなり」
「『夜光杯』を持っている、違うか?」
僕は、動揺した。注木の言葉ははったりかもしれなかったが、確実に僕の痛いところを突いた。慌てているのを悟られないよう、僕はゆっくりとコーヒーを口に含んだ。
「──。それで?」
「なーんて言ったものかな……あのさ、その夜光杯の幽霊が俺んとこ来てるんだよ」
「は? 幽霊?」
突拍子もない単語が現れ、僕は素っ頓狂な声を上げた。
「そ。嘘だと思うなら俺の家まで来てみろ」
「怪しさ満点じゃないですか。詐欺のテンプレートでも借りてきたんですか?」
注木はクリームソーダを手にしているくせに、苦々しげな顔をした。
「あんたが買った『本物の夜光杯』、放っておいたらどうなるか分からないぜ」
「僕、本物の夜光杯の話なんてしましたっけ」
「してない。だから言ってんだろ、俺はあんたの秘密を知っている」
注木は少しばかり嬉しそうに、にやりとした。
「脅しばかりですね」
「で、どうする?」
僕はため息をついた。
「……行けば良いんでしょう、行けば」
「今日で良いか」
「好きにしてください」
「あんた、このあとは」
「一コマ受けるだけですね。切っても良いんですけど」
「学生の本分だろ、勉強は。ここの外で待ち合わせにしよう」
「わかりました」
もうどうにでもなれ、と思いながら返事をする。
「あとさ」
「はい?」
「敬語、取ってくれ。同じ学年でしょ。なのに変な感じ」
「やですよ。僕、君のこと信用してませんもん」
「……」
注木は少し傷付いたような表情になった。それを見て、良い気味だと思う。
「じゃあ、また後で」
注木は「おう」と言ってまたストローを口に含んだ。
気づくと、講義まではあと数分だった。急いで講堂に向かい、時間ぎりぎりに着席する。一旦注木と夜光杯のことは忘れて、講義に集中することにした。
レポート課題の説明を受けたあと、僕は伸びをして立ち上がった。講義が少し長引いてしまったので、カフェテリアに向かって足を早める。
注木は入り口の側で突っ立っていた。暇潰しにスマートフォンを弄っていたような様子も見受けられない。もしかして予想外に待たせてしまっていたかと思い駆け寄る。
「注木さん、ずっとここに立ってたんですか?」
「いや? さっき来たけど」
「本当に?」
「なんでそこを疑うんだよ。本当だって」
「ならいいですけど……」
「ほら、行くぞ」
注木に連れられて、僕は大学近くのアパートの一室に入った。ワンルームの四隅には生活の内訳を示すような家具がばらばらに配置されていた。折り畳みテーブルの上には飲みかけのスポーツドリンク。本棚にはSF小説と専門書、語学の教科書。充電器がごろごろといくつか転がっている。
アンバランスな人間の棲みかだな、と僕は思った。
注木は押し入れの小さな引き出しから一つの杯を取り出した。
「僕の買ったやつじゃないですか」模様に見覚えがあった。「なんで注木が持っているんですか?」
「盗んだ訳じゃないぞ」
注木は空いてる方の手をひらひら振った。
「まさか、『幽霊』が持ってきたとか?」
「ああ、そうだ。そのまさかだ。とりあえず俺の話を最後まで聞いてくれ」
僕はでかいビーズクッションを引き寄せて、それに座った。注木はスツールに腰掛けた。
「この夜光杯はあんたが中国、甘粛省の敦煌で買った。そうだよな?」
僕は頷いた。漢文ゼミのメンバーで中国各地をばらばらに旅行した際、僕は敦煌を選んだ。本場の夜光杯がほしかったのだ。
「まあ敦煌美人って言われるくらいの代表的なお土産だもんな。で、あんたは店主に気掛かりなことを言われた。『これ、本物だよ』。勿論、粗悪品でないという意味でも取れるが……」
発言を求める沈黙なのだな、と僕は理解し、それに応えた。
「王翰の詩『涼州詞』に出てきた夜光杯そのものだって、僕は思いました。なぜか」
『涼州詞』は盛唐の詩人、王翰によって読まれた詩であり、そこには辺境の地で守衛をする兵士の姿が詠まれている。僕は、この詩で「葡萄美酒」を注がれ、掲げられたであろう夜光杯そのものを手に入れたのだと、確信してしまった。
「そう。その思い込みが『幽霊』をここまで連れてきた。……なあ、あんたが旅行を終えてから二週間になるわけだが」
奴がどうして僕の行動を隅々まで知ってるのかは、もう追及しないことにした。僕は大人しく続きを待った。
「記憶は確かか?」
「──あれっ」
「どうだ」
「講義を受けているときの記憶しかありません」
僕はやや焦っていた。動揺を隠すためのコーヒーはなかった。
対して注木はリラックスして、話の続きを手繰っていた。
「ここから種明かしだ。あんたが無事家に持ち帰った夜光杯は、事をただでは済ませなかった。夜光杯はあんたの──掲藤人の、魂を汲み取った」
「僕の魂……?」
疑問を呈しながらも、僕はどこかで納得していた。古代の詩に登場した夜光杯、という神秘を維持するには人一人の魂くらいは無いとやっていけないのだろう。
「それによって掲藤人は仮死状態に陥った。しかし本人は気付かない。気付かないから日常生活を送ろうとする。結果、掲藤人は大学近辺に現れる幽霊になった。まあ誰もそれを見抜かなかったがな」
「『幽霊』って、僕のことなんですか」
「うん。夜光杯は『やりすぎた』と思ったんだろうなあ、夜な夜な光り輝いて持ち主を呼んだが、掲藤人はそれに気づけない。家に帰れないからだ」
確かに、と僕は頷いた。
「そこに通りがかったのが俺」注木はやや誇らしげに言った。
「注木さんが、はあ」
「俺が光を目にした途端、夜光杯は俺の手に飛び込んできた。話を聞くと、曰く、このままでは汲み出された掲藤人の魂が擦りきれてしまう……」
「大変なことじゃないですか」
注木は頷いた。
「だから」
そして、夜光杯を僕に向かって差し出した。
僕はその行動が何に繋がるのかわからなくて、呆気に取られて注木を見た。
「だから、今からこの杯の中身を飲み干してくれ」
覗いた杯は乾いていた。空じゃないですか、と言おうとした瞬間、杯の中身が波打った。瞬く間に夜光杯が輝き始める。
「ちょっと……酒を入れて月にかざすと光るんじゃないんですか、夜光杯って」
その言い伝えも、どこで聞いたのか思い出せなかったが。
「何で急に光り出したんですか」
「今しがた日が沈んだんだよ」注木は真っ直ぐ僕を見据えて言った。「外は夜だ。まだ月は出ていないが……ほら、飲め」
僕は言われるがままにそっと、杯のステム部分を持って顔の前に近付けた。息を軽く吐いて口を付ける。
猛烈な火花が散ったように感じた。五臓六腑に、四肢に、何かが染み渡った。最後の一滴が舌の上に落ちる。その瞬間、すべてを思い出し、僕は意識を失った。
目を覚ますと、僕は変わらずクッションに埋もれてワンルームの中にいた。紛れもなく僕が借りた部屋である。注木という男は、何故か僕を僕の家に連れてきたらしい。クッションから起き上がって少し部屋の中を見てみると、夜光杯が床に立っているのが見えた。
僕はそれを大切に仕舞った。これはただの杯なのだと、己に言い聞かせる。
今度こそ、魂なんて取られてしまわないように。
久しぶりに、家から大学に向かった。仮死状態にあった数日間も変わらず日常が続いていたのはありがたいが、僕の大学生活への執着が見えて少々気味が悪い。
門の側にいた友人に声を掛け、一緒にキャンパスを歩く。注木のことを教えてくれた相手だ。
彼の中で──あるいはこの世界において、注木は存在しない人物になっていた。
まるで、幽霊であるかのように。
夜光杯は変わらず僕の手元に有る。
夜光杯 書矩 @Midori_KAKIKU
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