赤い帯

増田朋美

赤い帯

今日は、よく晴れた日で、のんびりとしていた日だった。先日まで、発疹熱なるものが流行っていたが、それもだんだん感染者が減少してきて、少し落ち着いてきたかなと思われるようになった。静岡県に出ていた、非常事態宣言も解消されて、店も通常営業に戻ってきて、再び街が活気を取り戻してきたような気がした。

そんな中で、今日も、松永房子は市役所で仕事をしていた。まあ、公務員ということで、リストラというものにあう心配はないということは確かだけれど、ちょっと、仕事は単調で、というか、自分より下の立場を扱うので、何も面白いことはないのだった。

「松永さん、ちょっとこの人の相手をしてやって。」

上司にそういわれて、房子は、窓口へ行った。そこには、一人の女性が座っている。どういう意味を示すのかわからないけど、赤い布を、首に巻いていた。

「あの、私、浜崎美穂と申しますが。」

と、彼女は言った。

「はあ、なんですか?」

房子が聞くと、

「あの、障害者手帳の申請をお願いしたいんです。」

と、美穂は言った。美穂は、特に障碍者という感じには見えなかった。車いすに乗っているわけでもなければ、つえをついているとか、補聴器をつけているとか、そういうこともない。

「はあ、それが何でしょうか。」

房子はいつも通りのセリフを言った。

「ここに、診断書もあります。マイナンバーカードもございます。保険証と、印鑑も持ってきました。」

美穂の態度を見て、房子は、この人は、何か重大な事情があるわけでもなく、ただ、働きたくないだけのことだと思ってしまった。きっと、働くのが嫌で、社会に甘えようと思っているやつに違いない。そういう人は、良くこういうところに来る。だからちゃんと、教育しなおさなければだめだと思っている。

「あなた、仕事は?」

と房子はバカにしているように言った。

「していません、働きたいんですけど、働けないんです。」

いつも通りのセリフを彼女は言う。

「本当に?例えば、パートタイムで働くとか、そういうこともしないんですか?」

と房子が言うと、

「ええ、それもできません。対人恐怖症がひどくて、それどころじゃないんです。」

と、美穂は答えた。

「ああ、そうですか。それならお断りです。だってあなたは、今こうして人と話をしていらっしゃる。それでは、対人恐怖なんて、大ウソじゃないですか。もっと、人をだますテクニックを身に着けてから、来た方がよろしいですわよ。」

と、房子は、そういって、さっさと帰るように促した。

「そういうことじゃありません!私は、こうしないと生活が、」

と美穂は言いかけるが、房子は、席を立って、自分のデスクに戻ってしまった。彼女がどうなろうかなんて、気にもかけなかった。


その次の日。房子は、自宅で朝食を作りながら、たった一人の家族である、松永美奈子の部屋に向かって、

「美奈子、早く起きなさいよ。学校へ行く時間でしょう。」

と、でかいこえで言った。最近、美奈子が朝起きるのが遅くなっている。

「こんな時間まで寝ていたら、学校に遅刻するでしょう。」

美奈子は、パジャマ姿のまま、部屋から出てきた。

「ほら、いい年した娘が、そんな恰好で、笑われるわよ。早く着替えなさい。」

「わかってる。」

美奈子は、そういって、椅子にドカッと座った。

「ほら、早くご飯食べて学校に行きなさい。お母さん、仕事遅刻しちゃうから、もう行くけど、早く学校に行きなさいよ。」

「はい。」

房子に言われて美奈子は、いやそうにパンをかじった。美奈子は特にダイエットをしているわけではない。だから、太りすぎでもなければ、痩せすぎでもない。すごい美人というわけでもない。本当に平凡な高校生という感じだった。

「じゃあ、おかあさん仕事に行ってくるから、あんたも早く着替えて学校に行きなさいよ。」

と、房子は、手早くスーツを着込んで、部屋を出ていった。それを美奈子は恨めしそうに見つめていた。

房子が、マイカーで市役所についたときは、もう学校が始まっている時刻だった。だから、美奈子も学校へ行っているだろう。そう思ってしまった、というより思い込んでいた。

その日も、やたらとお金をせびってくる、障碍者たちの話を聞き、そんなことをするのは甘えすぎてると彼らをバカにするようなセリフを言い、勤務終了時間になる。と言っても、障害福祉課は、役所が閉まるギリギリまで、相談業務にあたることが多い。それほど、障碍者と呼ばれたがっている人は、多いのだと思われる。どうせ、そういう人たちはろくなことがない、と、房子は勝手に思い込んでいた。

仕事を終えて、じゃあ明日もよろしくお願いします、と言って、家に帰ろうと、駐車場まで歩き出した時のことである。突然、房子の携帯電話が音を立ててなった。なんだろうと思ったら、美奈子の学校からである。あれ、部活で怪我でもしたのかしら、なんて思いながら、房子はスマートフォンを取った。

「はい、もしもし。」

「ああ、松永美奈子さんのお母さんですね。あの、わたくし、吉永高校の担任教師の佐藤でございますが、あの、娘さんの欠席が、もうすぐ三分の一以上になってしまうので、学校にきていただきたいのですが、、、。」

えっと思うところがあった。美奈子が学校に行っていない?だって、いつも通り学校に行っているはずなのに。

「あの、美奈子は、学校に行っているんじゃありませんか?」

急いでそういうと、

「いえ、もう一月近く、学校には見えていません。ですから、お母さんなら何か知っているのではないかと思いまして。」

担任教師は、こっちのほうがびっくりしたという感じで言うのである。

「あたし、あたしは何にも!」

房子は、そういったが、お母さんがなんでそんなこと知らないんですかと担任教師は冷たいことを言って、すぐ電話を切ってしまった。房子は、しばらく呆然としていたが、すぐに、美奈子を叱らなければと思い、車に乗り込む。

家に帰ると、美奈子の部屋に明かりはついていた。

「美奈子!」

房子は、急いで美奈子の部屋のドアを開けた。美奈子の部屋に、カギをつけるというシステムじゃなかったから、よかったなあと思う。

「美奈子!あんた学校へ行かないで、どこに行っているの!」

美奈子は、学校の制服を着ているが、そうではなかったのだろうか。

「ばれちゃったか。」

美奈子は、がっくりした表情で、そういうことを言った。

「そんなことで済まされないわよ!学校の高いお金だって私が払っているんですからね!それを裏切るような真似をして!」

「だからいやなの!」

美奈子は、それを強く言った。

「だからいやって何が!お母さんがこんなに一生懸命働いているのに、それを裏切るような真似をして、どういうつもりなのよ!」

「それが嫌なのよ!あたしは、学校に行けば必ず言われるもの。お前みたいに、恵まれたやつは、必ずいい大学に行って、恩返しをしなければだめだって。ほかのひとだってそういうわよ。美奈子のうちは、公務員で恵まれているからいいねって!」

美奈子はそういうことを言った。

「恵まれてるって、お母さんが働いているから、できるのよ!誰のおかげで学校に行けてるのかと思っているのよ!」

「でも、学校に行ったって、どうせ、恵まれているから、いいねとか、そういう嫌味しか言われないのよ!同級生に友達も誰もいないのよ!先生だって、いい大学に行けしか言わないし!そういうことがあっても行かなきゃいけないの?つらい思いをするだけなのに行かなきゃいけないの?それほど、あたしは、学校に行かなきゃいけないの!」

房子は、美奈子がこんなセリフを言うなんて、まったく予想もしていなかったので、困ってしまったというより、怒りの気持ちのほうが先走ってしまうのだった。

「お母さんのこと、裏切るような子は、うちの子じゃありません!どこでもいいから、もう出ていきなさい!」

と、房子は怒鳴って、美奈子を思いっきり殴りつけた。もう殺してもいいくらい殴ってしまいたかった。

「わかったわ!」

と、美奈子は言った。

「あたしは出ていくから!そのほうがお母さんも楽になるでしょ!」

美奈子は房子の手にかみついて、それを振りほどき、家を飛び出して出て行ってしまった。どうせ、彼女が行くところなんて、このうちと学校以外にないのだから、すぐ戻ってくるだろう。と、房子は思っていた。

二時間ほど待った。さすがに夜も更けて、道は真っ暗になり、街灯がついたりしているくらいになった。それでも美奈子は帰ってこない。

三時間たっても帰らなかった。まあ、あの時、学校のカバンを持って出ていったことを、房子は、思い出した。多分どっかの安い連れ込み旅館でも泊っているのだろう。一応、18歳という年齢になっているし、安い旅館では、彼女を泊めてくれるところもあるかもしれない。でも、明日の朝、寂しさに耐え切れなくなって、帰ってくると思う。そう思って房子は一人で、夕食を食べて、風呂に入って、残った書類を書いて、寝てしまった。


翌朝。房子は、いつも通りに目を覚ました。台所に出てみると、美奈子の姿はなかった。それに、部屋の中にも美奈子はいない。こ、これは、もしかして、、、と房子の頭をよぎる。本当に、どこかへ家出してしまったのか。もしかしたら、同級生の男子生徒の家にでもいるのだろうか。と思って房子は、同級生の連絡網を出し、何人かの生徒の家にうちの美奈子はお邪魔していないか、電話をかけてみることにした。

「すみません、あの、うちの美奈子は、お邪魔していませんでしょうか?」

一件目の生徒の家に電話をかけてみると、彼女は来ていないと答えられ、冷たく切られてしまった。二件目に、別の生徒の家に電話をかけてみたが、そこでも冷たく切られてしまった。三件目に、ある男子生徒の家に電話を掛けた時、その時に出たのは、母親ではなく、父親だったのだろうか、中年の男性の声だった。

「うちには来ていませんが。」

と、彼は言う。

「でも、うちの息子は、心配していました。同級生で、長らく学校に来ていない子がいる、と。私たちは、受験があるから、気にしないでいいと言いましたが、うちの息子は、美奈子さんと隣の席だったようで、心配していたようです。」

「あの、すみません。美奈子は学校でどんな様子だったのでしょう。学校に来なくなる前、どんな様子だったか、教えてくれませんか、、、?」

房子は、何とも恥ずかしい質問をしたような気がしたが、それでも聞かずにはいられなかったので、そう聞いてしまった。

「ええ、席替えを実施した時、美奈子さんと隣の席に座ったのだそうですが、学校の先生も、成績が良い生徒さんだったので、期待していたようです。」

そこまでは、房子も知っている美奈子である。

「ええ、それはそうなんですが。美奈子、学校で何かあったんでしょうか?」

「そうですね。うちの康が言っていることなので、本人ではないと分からないのですが、美奈子さんは、友達が一人もいないようでして、いつも一人でいたそうです。同級生も、たぶん、きゃあきゃあ騒いでいる子たちばかりですから、美奈子さんのような物静かな女の子は、ちょっと疲れてしまうのではないかな、と、うちの康は言っていました。」

と、康君のお父さんは、静かに答えた。お父さんらしく、的確に答えている。男の人は、感情的になることはなく、事実を淡々と言ってくれるので、こういう時には役に立つのだ。

「あの、美奈子は、本当に交流関係がなかったのでしょうか?」

と、房子は聞いた。だって、家では学校の先生が何を言ったとかよく話していたのに。

「ええ、ありませんでしたね。学校では、一人ぽつんと、孤独の優等生という感じだったそうです。」

と、康君のお父さんは、そういうことを言う。それでは、家で話しているのとはまるで逆だ。美奈子は、学校が楽しくて、友達とこういうことを話したとか、家ではよくしゃべっていたのに、、、。

「そうですか、、、ありがとうございました、、、。」

房子は、力が抜けたような、がっかりした顔で言った。

「あの、美奈子さんのお母さん、こういうことは、よくあることですから、けっして叱らずに、彼女の話を、、、。」

なんて、康君のお父さんは言っているけれど、房子は、受話器を切ってしまった。

しかし、そうなると、美奈子はどこに行ったのだろう。彼女が、行きそうな場所はどこだろうか。学校?ショッピングモール?いえいえ、そういうところだったら、こんな時間にここにいたらおかしいと、関係者から連絡が来るはずだ。それよりも、一晩どこで過ごしたのだろうか?それも気になる。美奈子はどこに行ったのだろう?

警察に、捜索願を出そうにも、房子は自分のことを批判されるような気がして、怖くてできなかった。

すると、房子のスマートフォンが、またなった。

「あの、松永さん、もう出勤時刻は、とうに過ぎてますよ!」

と、いう上司の声。房子は、そうだ、そうしなければいけないんだ!と思って、急いで車に乗り、職場である市役所に向かった。到着すると、彼女は、上司に厳重注意と言われて、落ち込んだが、罰としてなのか、こないだの浜崎美穂がまた来ているので、何とかしてくれと言われて、仕方なく窓口へ行った。

「お待たせしました。浜崎美穂さん。」

房子は、とりあえず彼女にそういう。

「あら、何かお慌てのようですが?」

と浜崎美穂は言った。

「まあ、そんな大したことじゃありません。それで、今日は何の用でこちらに来たのですか?」

「この間と同じです。障碍者手帳の申請に来たんです。今日もお願いできませんか?」

美穂は、またそういうことを言った。

「だから、そういうことは、あなたみたいな若い女性では、できないんです。それよりもちゃんと働いて。ちゃんと働けるって、あなたはまだ、それくらいの体力はありますよ!」

「そうですか。でも、学校であったことって、すごく大きなトラウマになると思うんですが。」

房子がそういうと、美穂はまたそういうことを言う。

「学校であったこと?それのせいで働けないの!甘えるのもいい加減にしなさいよ。そんなことが理由で、障碍者制度を利用しようなんて、虫が良すぎるではありませんか!」

「そうかしら。」

美穂は、そういう房子に小さな声で言った。

「でも、それのせいで、何も動けなくなる人だって、少なからずいるんです。私、見ましたよ。吉永高校の制服を着た子が、公園のベンチで勉強していたの。」

それはまさか、、、。

「私、その子に声を掛けました。とても悲しそうな顔をしていたからです。学校に居場所がないって、その子は何回も言っていました。お母さんも、仕事が忙しすぎるから、相談することもできないって。」

「その子の名前は!」

思わず房子は言ってしまった。

「私は、名前を知りません。知らなくても、悩んでいることは同じなので、あえて聞かなくてもいいかなと思ったんです。」

と、美穂は答える。

「その子の、顔だちとか、特徴は?」

房子が聞くと、

「あら、娘さんがいらしてたんですか。それなら、娘さんだって、うれしいでしょうね。でも、彼女は言ってました。お母さんはえらい人だから、自分のことで忙しすぎる。だからあたしが何とかしなきゃいけないと思ったけど、そのやり方が何も思いつかないって。」

と美穂は答えた。

「そんなこといいから、その子の顔だちや、体格とかそういうことを教えなさい!」

思わず房子は、命令口調でそういうことを言ってしまう。

「あたしは、教えたくないわね。だって、その子は、もう疲れ切っていて、もう学校に戻りたくないっていう顔つきだったもの。そんな子を無理やり親の方へ戻れって言ったら、その子がかわいそうじゃありませんか。私はね、そういう風にされたから、今こうして障碍者になるしか方法がないんです。私の母親は、私が学校がつらいといくら言っても、わかってくれませんでした。だから、私は、全部のことに絶望して、自殺未遂して、今があるんです。だから、私がしたような苦しみを、彼女にはさせたくありません。だから、その子のことは、もう話したくありません。よろしいですか?」

美穂は、静かに言った。房子は、もし、話してくれたら、ちゃんと手続きを手伝うからとか、そういうことをしようかと個人的には思うのだが、役所の職員という立場上、そういうことはできなかった。

「そうじゃなくて、、、。」

と、房子は言葉に詰まってしまう。

「本当に、彼女の主張していることを聞いてあげようという、覚悟はありますか?」

美穂が静かにそういっているのが、聞こえてくる。

「もしかしたら、あなたが思い描いていた幸せは、得られなくなるかもしれません。それでもいいですか?」

房子は、涙をこぼして、

「もう、そんなことどうでもいいわ。とにかく、その子がどこに今いるのか、知っているなら、教えてください!」

と懇願した。もう、立場も何も、そういうことも、みんな忘れていた。ただ、美穂さんが、娘のことを少し知っているというだけ、それだけが頼りだった。

「浜崎さん!教えてください。私、浜崎さんの言う通りにしますから!」

と、房子は泣き泣きそういうことを言う。

「じゃあ、もう思い描いた幸せは全部捨てて、ほかのひととは違った人生を歩むことを、誓ってください。」

美穂がそういうと房子は、泣きながら、わかりましたといった。

「ええ、じゃあ、教えます。美奈子さんは、大渕にいます。そこで、ほかの仲間と一緒に、勉強をしていると思います。大丈夫ですよ。彼女は、ちゃんと、大学へ行こうという意思もあるみたいです。ただ、疲れてしまって、今は休みたいと言っている。それだけのことです。」

美穂は、にこやかに笑ってそういうことを言った。

「でも、お母さんには、それが大きな障壁になることは、間違いないでしょう。あたしもそうだったから。それをめぐって、何回もけんかをしたし。そうしないで、穏やかに解決できればいいんですけど、それはできやしませんから。」

房子は、一瞬絶望感に見舞われた。もう自分のしてきたことは間違いだったと、今いる美穂さんから、言われているようなものだった。

「あたしは、、、。」

「でも、美奈子さんを、捨てはしませんよね。」

美穂に言われてはっとする。

そうだ、それがあった。

「はい。」

房子は、きっぱりといった。

ふと見ると、美穂の首に巻かれている赤い布の隙間に、大きな切り傷の跡が見えた。

房子は、美奈子にこの帯は巻かせない、と思った。

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赤い帯 増田朋美 @masubuchi4996

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