青林檎

吉田 玄達

本文

青林檎



 




  1


 私の元に一本の電話がかかって来た。それを私の姉が取って、間違いだと言って勘当する。弟の私でも、この憤りはなかなか見れるものではない。

 姉は受話器を力一杯に叩きつけ近くの椅子の一つを自分の元へ荒く引っ張ると、私に茶を要求し急かした。

 「あンた、まだこの電話を捨てないのね。」

 鼻息荒く、姉がそう言う。

 「企業に頼めば、毎日こんな面倒な目にはあわないでしょうに。前に誰かが使っていた番号だとか何だとか言っていたけれど、次来るまでにあンたがこのガラクタを取っ替えていなければ、あたしが直接文句を言ってやるわ。」

 姉はテレビに電気を通した。ブツンと鈍い音が鳴って、ブラウン管がチカチカと光る。

 私はわざと、姉に出す茶を冷まさず淹れた。時々こうして我が家にちょっかいをかけに来る姉は、正直、有難いものではない。忘れかけていた溜息がふとした時に溢れてしまう。

 「そういえば、母さんの絵、買い手が見つかったみたいだよ。」

姉はテレビ画面を眺めながらそう言った。自然の絶景にキャスターが巧みな言葉を飾り、取り巻きは秋分の自然に舌を巻く。姉はそういう見頃な紅葉を見て母を思い出したのだろう。

 母は一度筆を折った人間だった。そんな人が描く紅葉の美しさなんて、どれほど現実の風景を正確に写実したものであったとしても、私や姉や、もちろん母自身にとっても味気なく白々しいものに見えて仕方がなかった。しかし、絵画の世界から足を引いた母の元には、今でもかつての感動を忘れたくない美術家が集まる。

 一ヶ月ほど前に、彼らの熱意に折れた母が、実家の裏に根を張った柿と紅葉もみじの木の絵を描いた。油絵具で塀と太陽、若い木二つを再現する母の顔は、私たちを孕み、子育てに費やした月日のために、苦しく、険しく曇って見えた。

 一ヶ月程度で作り上げられたこの作品は『帰省』と名付けられた。若くして引退した幻の画家の復活は、物好きの間で賑わうだけ賑わって、最後はどこかの老人の手に渡ったらしい。しかし、赤と橙と少しの黒で彩られたこの絵に、盆が終わり、再び地方へ旅立つ我が子への寂しさ。或いは柿の木の下に眠る父との別れの嘆きが封じ込まれていることを、私と姉以外は知る由もなかった。

 「たまには、顔、見せに行きな。」

姉が優しくそう言うのは、子である私たちが母から奪い取ったあれこれを、姉なりに理解しているからだった。


 


  2

  


 私の元に、一本の電話がかかって来た。相変わらず私は姉の善意を真に受けず、あの面倒な電話機を捨ててはいない。日に二度か三度、こうして見覚えのない人間から電話が来ては、こちらの事情を聞いて謝罪される。そのほとんどがマツキという人間に向けてのものだけれど、やはり私の記憶にそんな名前の人間はいない。

  



  3



 姉が車に轢かれて死んだ。前に別れてすぐのことだった。私はしばらく、うつろ人間になってしまった。いつかの姉がそうしたようにテレビの電源を入れる。

 画面に映った一面の紅葉は、正に秋時雨だった。どうやら今が見頃らしい。はらりはらりと散る葉の姿は酷く美しくて、胸が締まる。私の目の前に淹れたばかりの茶はない。埃かぶった度の強い酒が温くなっているだけだ。

 母は姉の灰を、今度は紅葉もみじの木の下に埋めると言い出した。父と一緒ではないのかと問うと、あの子は年頃だからと答えた。意外にも、母に笑顔は多かった。

 そう言えば、普段から冗談が好きな姉は自分が死んだら笑って過ごして欲しいと言っていた。母からすれば、笑顔が姉への弔いになっているのであろう。

 試しに私も笑ってみる。だんだんと喉が熱くなり、鼻が痺れて、口に含んだ酒が胸を焼いた。初めは救われて気分になったが、しばらくすると最悪な気持ちになった。


 ふと周りを見渡せば、あの古臭い電話機があった。頭の奥で姉の喧しさが響く。思い返せばそれは、私にとって、姉が遺した一番の遺産であったのだから。

 私は掛ける相手もなく受話器を取った。

適当に番号を押し、何もなければもう一度同じ動作をした。自分の身の上の不幸をどこかの誰かに聞かせてやろうと思ったし、何より、どこの誰にでも良いから寂しさを誤魔化して欲しかった。遠くの方で一匹のカラスが鳴いた。


誰にも繋がらず、私は受話器を置いて床に伏した。冷たくて、硬くて、だんだんと心に暗幕がかかる。姉の声を思い出すたびに彼女の笑顔が浮かんで消えて、余計に身を潰される気分になった。でもふと空気が震えて、私の身体はびくりと跳ね起きた。


私の元に、一本の電話がかかって来た。




  4


 酒に浸る夜は、本当に、誰彼が熱中するほど魅力的なものなのだろうか。あとは、煙草。吸った経験はほとんど無いが、どうも馴染めず嗜めず、直ぐに咽せた。こんなものは身体が侵されるだけだろう、と思った。しかし、心が侵されるよりはマシと言われて、なるほどと思った。

 高い酒も高級な煙も喉や肺を焼くだけ焼いて身を苦しめたが、代りにほわりとした多幸感が、私を掴んで離さなかったから。

 私は受話器を耳に当ててじっと待った。普段会話をしない私は、ここでようやく電話越しにいる誰かのことを意識した。自分勝手な話だが、戸惑った。この番号が誰かに繋がることは予想外だった。



「もしもし、どちら様ですか。」

「もしもし、こちら末木です。」




  5


 

 私は片耳から通じるどこかの女性の小さな声を、頭で何度も反芻して、必死に飲み込んだ。

 マツキ、マツキ。

私が戸惑っていると、向こうからもう一度声が聞こえた。私は自分の心を急かして、焦ったばかりに言葉を放ち続けた。


 マツキさん。マツキさん。どうか少しの時間で良いから、僕の話を聞いてほしい。


 私はそのようなことを口にして、すっと深呼吸をする。マツキはどうやら戸惑っているようだったけれど、私に何かを聞き返すことはない。はい、とだけ応えて、じっと次の言葉を待っているようだった。


 姉がいる。

 煩くて、面倒な姉だ。

 いつもいつも、迷惑をかけてくるんた。

 でも死んだ。

 それが悲しくて仕方がないから、誰かに聞いて欲しかったんだ。


私はそうやって、身の上に起きた不幸の話を、冷たい床に座って話した。全て、全て。腹の底から。


「辛かったですか。」


マツキがそう聞いてきた。

私は辛かったと答えた。

すると彼女は「お姉さんのことを、尊敬していましたか。」と重ねた。

私は、尊敬していた、と答えた。

 



  6



 マツキは私の言葉に一つ残らず相槌を打って、私が話し終えると何かしらの問いを出す。私は大抵、彼女の問いをなぞるように繰り返して肯定するのだが、彼女はそれを良いとも悪いともせず、じっと私の心の動向を伺う。


 ある程度して、そういえば、とマツキが切り出した。

「今日、外を見ましたか。」

 私は見ていないと答えた。思えば今日も昨日も一昨日も、外の景色を眺めていなかった。

「そちらは、ええと、カラスが鳴いていますね。こっちは猫が喉を鳴らしています。今宵はよく晴れていますから。」

 マツキがふふっと微笑む。

 私はようやく落ち着いて、受話器を反対側の耳に当てた。手が汗ばんでいて、自分の呼吸が荒れていたことに気が付いた。

「少しぐらい、心は軽くなりましたか。」

マツキは嬉しそうにそう問いた。

私は、軽くなったと答えた。


 


7



 外の様子が気になって窓を開ける。外の空気を吸うのは三日ぶりだった。

 十月の終わり。肌寒い夜の世界が広がっている。新鮮な空気と淡い街灯が死んだ蝶々を弄んでいた。だが、秋風がぐわんと空に走ったと思えば、仰いだ私の眼前の、高い電柱の更に上に、雅やかな満月があった。


 姉は月が好きだった。どこか男勝りで、さほど上品な性格ではなかった姉は、いつも私の前に立って船頭を切っていた。しかし、夜に外へ出て月を眺める時は優しく微笑んでいて、その姿を私は何よりも尊敬できた。

 私はその大きな満月に姉の姿を思い出して、重ねて、頬が攣るほど馬鹿になって笑った。そして情けなく、朝になるまで哀哭した。




  8



 姉の四十九日は、母と私の願望で私服の集まりとなった。

 その翌日に、私の元へ一本の電話がかかって来た。母からの集合である。

 私は姉が遠くに逝ってしまってから、私は暇があれば、できるだけ実家に顔を出すようにした。母は絵を描くことが多くなって、満足した作品を額に入れて、家中の壁に飾る癖ができた。

 例の電話機は、母以外の人間からの連絡が無くなった。姉の堪忍袋の緒を切ったあの間違い電話は、マツキと話したあの日の夜から、一度も届いた事がない。


 実家に帰った私は、まず二本の木に手を合わせる。今日は木の下に線香と、切られた青林檎が備えられていた。その数は柿の木よりも紅葉の木の下の方が二つ多いが、そのうち一つは黒ずんでいて、緑の皮が剥げている。

「もう傷んだ。ああなるんならはよう食べてくれればいいのにねえ。」

わざと嫌味を利かせた母はしばらく辺りを彷徨うろつくと、ここだという場所が決まったようで、抱えていたスツールを置いて腰かけた。冬が間近になった紅葉もみじの木は、少し寂しい色合いになっている。

 私は母にどうして青林檎なのか尋ねた。隣で絵描きの用意をする母の目は一直線にカンバスを向いていたが、少し唸ると横目で私を見て、「あの子、好きだったやろ。」と呟いた。

 いつにもなく熱心な母を横目に、私は私の青林檎を摘んだ。姉の二つは、私の分から差し引かれているらしい。私はマツキに、この母と姉の横暴について話をしたいと思ったが、彼女にそれを伝える前に、口にある青林檎が私の喉を過ぎることも知っていた。

 林檎の味に飽きた私は、母の持つ筆の先をぼうっと目で追いながら、ぼやけた頭で、その絵はまた売りに出すのか、と聞いた。母は首を横に振りながら、ビート板のようなパレットの上に、ぎゅっと、青葉色の油絵具を絞り出した。すると小さな斑猫が、傷んだ林檎を一切れくすねて、柿の木陰でごろごろと喉を鳴らして眠りだした。

 


  



 



 

 



 

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