第66話 愛人(ラマン)
1992年のフランス、イギリス合作映画です。
久しぶりに胸が熱くなる映画を観た。
初めて観たのは公開当時だが、今回二十数年ぶりに観て、こんないい映画だったかな、と、感動を新たにした。
内容は1929年の仏領インドシナを舞台に、15歳のフランス人少女と、中国人男性の情事を描いたものなのだが、マルグリッド・デュラスの原作を読んでない私には、少女が金のために男に近づいたという解釈を散見するのがどうも腑に落ちない。
原作でどうなっているのか分からないが、私は少女は金のためでなかったと思う。
最後に少女の母親が、やっぱり金のために? と聞くと、少女がそうだと答える場面があるが、それはウソだろう。
まあ真偽の程はどうでも良い。
私は私の楽しみ方でこの映画を楽しみたい。
だって、もし少女が最初から金のためだったら、この美しい少女や、風景や、町の映像も、欲望に身をやつす2人の官能も、皆絵空事になってしまうではないか。
それにそうだとしたら、少女が流す最後の涙は何なのか? 身体を売っている間にその男との間に愛が芽生えたというのか?
それにしてもこの官能的な美しさはそうそうあるものではない。映像も、音楽も、どこか耽美的だ。
原作者のマルグリット・デュラスという女流作家は、前に取り上げた「ヒロシマわが愛」という映画の脚本を書いていて、私はこの「ヒロシマわが愛」を自分の映像体験のベストワンくらいに思っていた。
私はそれほどマルグリット・デュラスという人に強い印象を持っているが、その印象からすると、デュラスは愛の人であり、官能(を描く)の人なのだと思う(ただし、そう言いながら私はデュラスの作品をろくに読んでもいないので、これは当たっていないかもしれない)。
まして、この映画がデュラスの自伝的要素が強いとしたら、尚更、たとえ金のためにと書いてあったとしても、実は愛であり、欲情なのだと思う。
というのは恐らくデュラスの愛の世界は、金のためというような薄っぺらな世界ではないと思うのだ。
この耽美で官能的な深い愛の世界を、是非ご覧になっていない方にも味わっていただきたいと思う。
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