第9話 ヘッドライト
1956年のフランス映画です。
しょっぱなから少し引用させていただきたい。
アメリカ映画には、まず事件がある。同じ言い方をすれば、フランス映画には、そこに人生がある。同じ面白おかしいメロドラマ的なストオリイの作品でも、フランス映画には何か心に染みる人生の味がにじんでいる。(猪俣勝人著「世界映画名作全史」より)
ハリウッド映画ファンの方にはちょっとカチンとくるところがあるかも知れない。
しかし同氏はそのあと次のようにも言っている。
「ヘッドライト」も、ストオリイだけ取り上げれば三文小説である。初老のトラック運転手と酒場のレストランのウエイトレスの情事にすぎない。これも日本流に置き換えれば、気の荒い長距離運送の運転手が、運転手のたまり場の街道のウエイトレスをひっかけて妊娠させ、結局堕胎に失敗して死なせてしまう話、どう見ても深い人生の味のにじみ出る底のものではない、と。
果たしてそうだろうか。
私は三文小説はちょっと言い過ぎだと思うし、逆にこういう話だからこそ、人生の哀歓のにじみ出る名作になり得たのではないかと考える。
監督はアンリ・ヴェルヌイユという人で、こののちアラン・ドロンとジャン・ギャバンの
「地下室のメロディ」や、同じくドロンとギャバンの「シシリアン」などを手がけている。
この作品はジャン・ギャバンがなんともいい味をかもし出す。じっと人生の苦渋に耐えて黙々と生きる初老の男のいわゆる「人生の味」である。
共演のフランソワーズ・アルヌールも、従順で可愛くてなんとも言えない。
2人は酒場で知り合い、いつしか愛情を通わせ、ギャバンは、仕事で疲れて帰っても優しさもいたわりも何もないとげとげしい家庭を捨て、この若い、ホールの女性と人生を共にしょうと決意する。
しかし最後、この2人の暗い雨の中の真夜中のトラックでの旅は、そのまま悲しい結末へ向かうのだが、その2人を見つめるヴェルヌイユの視線と共に、一貫して哀しみを切々と歌いあげるのが、哀愁たっぷりの主題曲なのである。
やはり映像と音楽によって物語が語られる、映画というメディアは強いと思う。
三文小説かどうかは別として、原作の小説だけではこうした感動は生まれ得なかったに違いない。
そのことだけは、確かだと思う。
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