第22話 透先輩のせいで、学校に行けなかったわけではありませんから

「それで、読み終わったんですか?」

 みゆりはリビングのテーブルで向かい合うなり、僕に尋ねてきた。直人は着替えるためとかで、自分の部屋に入ってしまった。

「一応、まあ、うん」

「何を読んだんですか?」

「『黒の境界線』」

「それですか」

「感想は、面白かったよ。続きが気になるくらい」

「当たり障りのない感想ですね」

 みゆりは呆れたような顔をした。

「借りますか?」

「次の巻ってこと?」

「嫌ならいいですけど」

「いや、借りられるなら、借りたいです」

「そうですか。それなら、後で帰る時に貸します」

「ありがとう」

「別にお礼を言われるほどではありません。それより、次の巻を読んだ時の感想はもっとちゃんとしたものにしてください」

「そうします……」

 僕は頭を下げつつ、弱い語気で声を漏らす。「別に謝る必要はないです」というみゆりの言葉を、ただ黙って耳を傾けることにした。

「おう。二人とも、小説はどうなんだ?」

 現れた直人は先週家を訪れた時と同じで、シャツに短パン姿だった。柄や色は違うけども。

「お兄ちゃんには話す必要はないから」

「冷たいな、みゆりは」

「そんなことより、透先輩に言ってください。小説はどうなんだって」

 みゆりは僕の方を指差し、声を上げる。

「まあ、落ち着け、みゆり。俺だって、色々透に言ってるからな。な?」

「まあ、確かに、色々言われてるね」

「怪しいです」

 みゆりは訝しげに目を移してきた。

「なら、進捗は順調ということですね」

「いや、順調というわけじゃ……」

「わたしは順調です」

「今日学校サボってまで書いて順調って言うのか?」

「順調です」

 より語気を強めて、同じことを繰り返すみゆり。意地になっているのだろう。かといって、僕がそれに対して、何かしらの反応をするわけにはいかない。すかさず、「何かおかしいですか」とか、突っ込みをしてくるはずだからだ。いつものみゆりなら。

「で、進捗は順調そうな透先輩」

「何?」

「どういうジャンルを書いてるのか、教えてください」

「ジャンルは、その、ミステリーとか」

「どういうミステリーですか?」

「どういうって、まあ、よくある奴」

「よくある奴とは具体的にどういうものですか?」

 質問を続けるみゆりに、僕は段々と曖昧な答えになってしまう。

 まだ何も書いていない。

 正直に伝えるところが、みゆりに気圧される感じで、ウソにウソを積み重ねてしまっている。

「昨日読んだ『黒の境界線』的なもの、かな」

「そうですか。それは楽しみですね」

 みゆりは言うと、横に座った直人に顔を移す。

「だそうです、お兄ちゃん」

「へえー、そうなのか。『黒の境界線』はみゆりが特に好きな作品だからな」

「えっ? そうなの?」

「はい。それがどうかしましたか?」

「いや、別に何も……」

 僕は言葉をこぼしつつ、直人をみゆりにわからないように睨みつける。

 一方で直人は察したのか、片手を上げ、申し訳なさそうな顔になった。

 みゆりの好きな作品だと、より厳しい感想をぶつけられるのは逃られない。

 僕はどこか遠くへ逃げたい衝動に駆られてきた。

「えっと、そろそろ僕はお暇しようかなと……」

「逃げる気ですか?」

「逃げるって、ただ、僕は帰って、小説を書こうかなって」

「怪しいですね」

 みゆりに疑うような眼差しを送られ、僕はどうしようかと悩む。テーブルの椅子から立ち上がったまま。

「みゆり。今日透が来たのはさ、みゆりが心配で来たようなものだからさ」

「いや、完全には違くないけど、そもそもは直人に頼まれて来たようなもので……」

「わたしを心配してですか?」

「ああ」

 うなずく直人。恵比寿兄妹、僕のことを見もせずに、会話を進ませようとしている。

「でも、今帰ろうとしています」

「あれは、少しでもみゆりの元気そうな顔を見られてよかったからだろうな」

「直人。いったい、何を言って」

「透、そうだろ?」

 急に直人から質問を投げかけられ、驚いて、「えっ?」と間の抜けた声をこぼしてしまう僕。

 目をやれば、みゆりが視線を移してきている。

「えっと、その……」

 僕は段々と恥ずかしくなってきて、顔を逸らした。

「まあ、そういうところもあって、来たようなものかな……」

「透先輩」

 僕を呼ぶみゆり。思わず、正面を合わせてしまう。

「わたしはその、別に何も悪くはありません。今日学校を休んだのも、小説を書くことに夢中で徹夜になって、それで学校に行くことが面倒になっただけですから」

「それは、何となくわかるけど……」

「だから、その、透先輩のせいで、学校に行けなかったわけではありませんから」

「それって、僕のことを気遣ってくれてる?」

 僕の問いかけに、みゆりは頬を赤らめると、フードを深く被り、瞳を逸らしてしまった。

「そんなつもりは、ありません」

「だってさ」

「お兄ちゃん、今の言葉はいらないです」

 苛立ったような調子で言うみゆり。直人は、「悪い、悪い」と口振りとしては申し訳なさがないかのように答える。ひとまず、僕に助け舟を出してくれたことは感謝をしないといけない。

「とりあえず、僕はみゆりの期待に応えられるような小説を書くために、今日は早く帰るよ。その、元気そうで何よりで」

「そうですか」

 みゆりは顔を合わせず、ぶっきらぼうに声をこぼす。

「まあ、小説、俺は応援してるからさ」

「ありがとう」

 僕は直人にお礼を述べつつ、リビングから去ろうとして。

「待ってください」

 急にみゆりが立ち上がり、僕のそばを横切り、自分の部屋へ入っていく。

 しばらく待っていると、フードを深く被ったままのみゆりが一冊の文庫本を手に戻ってきた。

「『黒の境界線』の二巻です」

 手渡してきたみゆりの文庫本は、表紙にナイフを構えた少女のイラストが描かれていた。一巻も同じだけれとも、構えは異なっている。

「いいの?」

「いいです。それとも、いらないですか?」

「いや、その、全然。ありがたく、その、借りさせていただきます」

 僕はみゆりが突き出してくる文庫本を受け取ると、提げていた学校の鞄にしまった。

「さっきも言いましたが、次の巻を読んだ時の感想はもっとちゃんとしたものにしてください」

「わかりました」

 僕が頭を下げると、「そこまでする必要はないと思います」とみゆりから小言をもらった。何となく、予想はしていたけど。

 僕はリビングにあるテーブルの椅子に座る直人に手を軽く上げる。

「じゃあ、直人」

「おう。また、明日な」

 体を動かして手を振ってくる直人に見送られ、僕は玄関へ向かう。

 すると、みゆりが遠慮がちな足取りで僕の後についてくる。

 靴を履き、ドアを開けようとしたところで。

「透先輩」

「何?」

 僕が問いかけると、みゆりはおもむろに深く被っていたフードを外し、顔を上げた。

「その、ありがとうございます。わたしのなんかのためにわざわざ来て」

「いや、別にいいよ。それに、直人からも誘われたっていうのもあるし」

「それでも、わざわざやってくることは、透先輩がそういう風な気持ちがあったからだと思います」

「そういう風な気持ち?」

「そういうことはわたしに聞かないでください」

 みゆりは言うなり、玄関から踵を返し、自分の部屋に入っていってしまった。

 どうも、僕はみゆりからお礼を言われたらしい。

「前まで嫌われてたと思っていたのに……」

 僕は不思議に思いつつ、外に出て、恵比寿家のマンションを後にした。

 明日は大雨でも降るのではないかと不安になりつつ。

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