増田朋美

今日も、なぜか知らないけれど、暑い日で仕方なかった。本当に、春という言葉が通り過ぎて、夏になってしまったような。そんな気がする、今年の春であった。

その日、杉ちゃんは、いつも通りに水穂さんの世話に出かけた。いつも通りに、ご飯を作って、いつも通りに水穂さんの布団を干してやる。その間、水穂さんは座布団を敷いたうえで、横になっていた。彼の相手は、三本足のフェレットの正輔がした。

水穂さんが頭をなでてやると、正輔は、ちいちいとないて、もっとやってくれとせがんだ。目の前で、くるくると人差し指を回すと、正輔はそれを目で追って、楽しそうな顔をしている。

「おう正輔。ありがとうな。」

その時、杉ちゃんがやってきて、水穂さんに、布団をしまったので、戻るようにといった。水穂さんは、よいしょと立ち上がって、元の四畳半の布団に戻った。

「それでは、よく休んでくれな。」

水穂さんが横になると、杉ちゃんは、彼にかけ布団をかけてやった。水穂さんは、はいというよりも、せきで返事を返した。

「あの、すみません。」

と、一人の女性利用者が杉ちゃんに声をかけた。彼女は名前を、佐藤公子といった。

「あの、ちょっと、静かにしていただけないでしょうか。落ち着いて受験勉強できないじゃないですか。」

と、いう彼女は、支援施設によくいる筋金入りの受験生という感じの女性である。本当はね、受験勉強なんて、そんな大したことないんですけどね、なんて、杉ちゃんも水穂さんもそういうのであるが、彼女にとっては、これに落ちたら、もう人生終わりだと考えているくらいだった。

「だって、水穂さんの布団を片付けただけだけど?」

と、杉ちゃんが言うと、彼女は、

「それだって、もっと静かにやってくださいよ。」

と、文句を言うのである。つまり彼女にとって、何があっても、いやなことになってしまうようなのだ。

「まあ、布団を片付けるだけだからね。」

と、杉ちゃんは笑って言うが、ほかのひとだったら、何か文句をいう可能性もあった。でも、杉ちゃんは、何も文句言わず、にこやかにしていた。それを見た彼女は、その程度ではいいやと思ったのだろうか、ふいと部屋を出て行って、勉強に戻ってしまった。

「まったくなあ、ただ、布団を片付けただけでこれだもんな。最近の受験生は、自分のことばっかり考えて、他人のことを考えることはできないんだなあ。これだけ豊かな時代なのに、なんでそんなこともできないんだろうな。」

と、杉ちゃんは、水穂さんに言った。水穂さんもそうだねえと言った。

「確かに、昔の受験生だったら、もう少し周りに気を配る余裕もあったかもしれないね。」

「そうだろう。まったくよ。今のやつらは、自分のことはできる限りというか、それ以上に考えるが、周りのことは、一切考えないんだな。もうちょっと、周りに、気を配っていれば、あんなに苦しそうな顔をすることもないんだけどな。」

杉ちゃんと水穂さんはそういうことを言い合ったが、水穂さんのほうは、せき込んでしまって、話を続けられそうになかった。

「あーあ、ほらほら、ちょっと動くとすぐこれだよ。それも何とかならないかなと思うけど?」

杉ちゃんがせき込んでいる水穂さんにタオルをあてがってやると、水穂さんは、ごめんなさいといった。そんなこと言わなくていいのになと、言いながらも、出したものを文句も心配も言わないでふき取ってくれるのは、杉ちゃんだけであった。

ちょうどその時、製鉄所の電話機がなった。特にスマートフォンを持ち込み禁止というわけでもないのだが、製鉄所の利用者たちはスマートフォンを持ってこない人が多い。利用者の一人が、その電話を取った。

「佐藤公子さんに電話です。」

と、一人の利用者が、佐藤公子さんの部屋へ向かいながら、そういった。佐藤さんは、いやそうな顔をして、部屋から出てきた。

「ほら、早く電話をしなさいよ。お母さんからよ。」

と、利用者は、彼女に受話器を渡した。

「ほら。」

佐藤公子さんは、いやそうな顔をしていたままだったが、しぶしぶ電話を取る。

「もしもし。」

なんだかふてぶてしい態度だった。

「あ、そう。それならそれでいいわ、あたしは、こっちで受験勉強しているから。勝手にやって。」

「一体何があったんだろ?」

杉ちゃんは、彼女の声を聞いて、あれれという顔をする。

「あたしは、そのままでいていいんでしょ。お父さんの葬儀なんてそんなのに出ている暇はないわよ。それよりも、大学に受かりたい。」

と、彼女はそういうのだ。はあ、亡くなられたのか、お父様。確か、佐藤公子さんのお父さんは、富士の中央病院で療養していると聞いた。まあ確かに、これからもまだ活躍できる年齢ではあるのだが、世の中には、強い人と弱い人がいるものだ。そうなってしまう年齢が早く来たことになる。

「大学のことなんて、どうでもいいのにね、今は、お父さんのそばについてやるのが大事なんじゃないの?多分、今日は通夜だから帰ってこいとかそういう電話だぜ。」

と、杉ちゃんはそうつぶやく。

「まあそうだけど、親を大事にできる子は、果たして今、何人いるのかな。」

水穂さんは、布団をかけなおしながら、そういうことを言った。

「まあ確かにそうだよな。」

と、杉ちゃんは言う。

「でも、なんか気になるんだよ。彼女がさ、親を大事にできない理由が。だって、確かにだよ、すごい筋金入りの受験生は、これまで何人か見たけどさ。みんな何かあって、改心してくれたじゃないか。彼女はまた特別なような気がするんだよね。」

「そうだね。僕は、動けないけど、そういうこともわかるよ。」

水穂さんは、杉ちゃんの話に相槌を打った。

「なんか気になるな。彼女のこと。」

と、杉ちゃんは言った。

佐藤公子さんは、もう受話器を先ほどの利用者に渡して、受験勉強に専念してしまっている。声をかけるのも、なんだか、してはいけないような気がしてしまうほどだ。

「ちょっと僕、彼女の家に行ってみようかな。」

と、杉ちゃんは言った。すると、正輔が、そうだねというように、ちいちいと声を立てた。


翌日、杉ちゃんは彼女の家を訪ねてみることにした。今の時代、インターネットで、個人の家などすぐに調べてしまえるようになるのだ。水穂さんにパソコンで打ってもらって、地図を表示すると、佐藤公子さんの家は、製鉄所から、二、三キロくらい離れたところにあるということが分かった。とりあえず、杉ちゃんは、タクシーでその住所まで行ってもらうようにお願いして、佐藤家に行ってみた。

ところが、佐藤家には、葬儀用の旗も自宅受付の人もいなかった。それに、香典を届けに来る人も誰もいなかったのである。

「あの、すみません。ここに佐藤さんという家はないか?今日その家でお葬式があるはずなんだけど?」

杉ちゃんは、通りがかりの犬を散歩していたおじさんに聞いた。

「ああ、確かに訃報は回覧板で回ってきたけどね。」

と、おじさんは言った。

「ほんじゃあ、自宅受付ももう済んでしまったのか?まだ、そんな時間じゃないと思うんだけどなあ。」

杉ちゃんは、ボケっとした顔でそういうことを言うが、

「なんでも、自宅受付は行わないらしいんだ。今はやりの、家族葬というやつなんだろうかな。だから、香典もいらないというわけで。」

と、おじさんは言った。

「へえ、そういうのってのは、なんか事情がある人がやるもんだよな。まだまだ一般的じゃないもの、家族葬は。それとも、感染症の蔓延防止かな?」

と、杉ちゃんはそういうが、

「いやあね。よくわからないんだよね。あそこのご主人が何をしていたのか、も、僕たちよく知らなくて。」

と、おじさんは、犬に引っ張られるように、歩いて行ってしまった。

「はあ、なるほど、それじゃあ、絶対何か訳ありだなあ。」

と、杉ちゃんは思わず独り言を言った。すると、近くから、タクシーが走ってくる音が聞こえてきた。杉ちゃんが後ろを振り向くと、タクシーの中から、黒いジャケットを着た一人の男性が降りてきた。

「あ、あの、失礼ですが、佐藤晴久の家はここですよね?」

と、その人は、杉ちゃんに聞いた。佐藤晴久が、佐藤公子さんのお父さんであることは、すぐにわかった。そしてこの人は、その血縁者か何かだろう。どこか顔つきが似ているところもあったので。

「はい、そうだけど、お前さんは?」

杉ちゃんが聞くと、

「佐藤晴久の兄の、佐藤貴久と言います。」

と彼は言った。道理で顔つきが似ているわけである。それと同時に、兄弟がいてくれたということで、杉ちゃんは、ちょっとほっとした顔をした。

「それでは、教えてくれ。なんで、このお宅は、今時はやりの家族葬というやり方を取ったんだよ。だって、お前さんはお兄さんだろ?お兄さんだったら、呼ばれてもいいはずだよな。それなのに、おかしいよな。」

「ええ、そうなんです。弟が死んだということも、僕のところには知らされていませんでした。昨日、メールでやっと知らされてきたんです。なんでも、通夜も葬儀も行わず、直葬というやり方にするから、それでいいって。おかしいなと思って、僕は休みを取って、こっちへ来たんですよ。」

杉ちゃんが言うと、貴久さんは、そういうことを言った。つまり、実の兄にも知らせていないほど、事情があったのだろうか?

「はあ、お前さんは、あの、佐藤公子さんのことを知っているか?お前さんは、お父さんのお兄さんだから、何か相談でも言ってきたんじゃないのか?」

と、杉ちゃんは聞いた。

「ええ、公子ちゃんのことは、晴久の奥さんから聞きました。僕たちは、彼女のことを心配になって、よい病院を探してあげようとか、よい医者を教えようとしましたが、いずれもことごとく拒否されてしまって。」

と、貴久さんは答える。

「じゃあ、公子さんのことも知っているの!」

「ええ、公子ちゃんが、学校に行けなくなって、少し精神状態がおかしくなったのは、奥さんから聞きましたので、僕たちは、何とかするのを手伝ってあげようと思っていたのですが。そのために、何回か電話を掛けましたが、すべて受け付けてもらえませんでした。」

「そうか。そういうことだったのか。それでは、佐藤公子ちゃんのことがあって、働けないのに働いて死んだんだな、弟さんは。まあ、確かにそういうことは、家族だけでやろうとするけど、本当は、他人に頼らなきゃダメなんだよね。」

貴久さんの発言に、杉ちゃんは頭をかじった。

「でも、僕も正直わからんのですよ。公子ちゃんが、いきなり荒れ始めた理由もわからないし、晴久が、突然うちに来なくなった理由もわからないんです。僕は、今、ン沼津に住んでいますけれども、けっして遠すぎてこられないという距離でもありませんしね。」

「よし、一緒に、調べてみない?」

と、杉ちゃんは言った。

「少なくとも、このやり方に変だと思う人は、いるわけだし。」

「ええ、そうしたいです。僕も、弟が、なぜ突然連絡をよこさなくなったのか、気になるところでして。公子ちゃんのことも、気になるし。」

「よし、やってみよう。」

杉ちゃんと、貴久さんは、お互いの顔を見合わせた。

「本当は、公子さんに問い合わすのが一番なんだが、それが一番難しいということは、僕も知っている。だから、隣近所に聞いてみるなりしてみるのが早い。」

と、杉ちゃんは、もう車いすを動かし始めた。どこに聞くのか、貴久さんが聞きなおそうとしていると、杉ちゃんは、佐藤家のすぐ近くにある、たばこ屋さんへ入ってしまっていた。

「いらっしゃいませ。一カートンですか?」

とタバコ屋さんの店主が聞くと、

「いや、たばこを買うのはこいつだが、その前にちょっと教えてほしいことがある。いいかな?」

と、杉ちゃんは言った。

「時々さ、佐藤という家で、何かおかしなことはなかったか?」

「ええ、そうですね。」

とタバコ屋さんは答える。

「確かに、時々、佐藤さんのお宅から、何か叫ぶような声がして、あの、学校に行けなくなったのかなって、私たちは、噂していましたけれどもね。確か、あのうちの佐藤公子ちゃんは、すごく優秀な学校にいったって、よく知られていましたから。」

「はああ、なるほど。」

と、杉ちゃんと貴久さんは顔を見合わせた。

「それがいけなかったんですかね。僕たちは、公子ちゃんが、私立中学に合格したからと言って、もう僕たちが手を出すべきじゃないと思ってしまって、、、。」

「まあ、本当は、学校へ行ったからと言って、幸せになれるということはまずないけどな。」

確かにそうなのだ。でも、どこかこういう話を聞くと、見えない壁のようなものが、はられてしまうのも間違いない。優秀な学校に合格させることで、その家が成功したように見えるけれど、裏ではとんでもない場違いをしていたということもあるかもしれない。

「公子ちゃんは、確かに、私立学校に行ったんです。それは確かですよ。確か、高校まで一貫でやってくれる学校だったので、僕たちはもう手を出す必要もないんだと思ってしまって。それに、お中元とかお歳暮を届けに行っても、勉強のじゃましないでといって、顔を合わせることもなくなっちゃったんで、僕たちは、もうそのままにしていましたが、、、。」

「そういうことこそ、日本のやつらが間違えるところだな。」

と、杉ちゃんは言った。

「で、その彼女だが、自分が一番偉いと勘違いしちまってて、もう大学に受かりたいの一点張りになっちまっている。何とか、ならないもんだろうかな。それこそ、頭がおかしくなったようなもんだよな。」

「そうですか。それでは、どうしたらいいんですかね。多分きっと、奥さんだけではやっていけないんじゃないかな。晴久が死んだ後で、あの家を売って、お金を作って、暮らすのかな。それとも障害年金なんかを請求するのかな。僕たちは、何もできないですけど、、、。」

と、貴久さんは言った。

「まあ、いずれにしても、このままでは、お父さんもお母さんも、彼女を食わすだけで、何もできないで死ぬしかないだろう。そして、彼女も自死するしか、方法もないんだよ。でも、彼女は大学に受かりたいと言っている。きっとそれしか、目指すものがない、環境にいたのが原因だろうな。」

「そうですね。そうなってしまったら、公子ちゃんだけではなく、晴久も、奥さんもかわいそうになりますね。」

「きっと彼女だって、悪いことしたわけじゃないと思うよ。だけど、二度と救いが得られないところに落ち込んじゃうやつってのは少なからずいる。それを、助け出すことは、自分たちではできない。誰かが手を出してやらないと、絶対にできないことも山ほどある。」

「そうですね。僕が、奥さんと、公子ちゃんを何とかするしかないのですかね。僕は、そんなことできるんでしょうか。」

そういうことをいう貴久さんに、杉ちゃんは、

「できるというか、しなきゃいけないんだ。変わるのを待っているしかできないやつらはきっといるから。」

と、言った。タバコ屋さんのおばさんが、

「ええ、誰か、そういうことをしてあげられる人がいてくれれば、彼女もまた、変わってくれるかもしれないわね。」

といった。

「僕、明日、彼女に話してくるよ。」

と杉ちゃんは、うんと頷く。本当は、貴久さんも一緒に行きたいと思ったが、すぐに、明日は仕事があるんだと思いつく。

「まあ、こういうことは、風来坊に任せておけや。僕みたいなやつは、こういう時にしか役に立たないのよ。」

と、杉ちゃんは、にこやかに笑った。


次の日、杉ちゃんは、また製鉄所に言った。彼女は相変わらず、受験一筋に勉強している。彼女、つまり佐藤公子さんの勘違いを、早く何とかしなければと思った。

「おい、佐藤公子さん。」

杉三は彼女の部屋の中に入る。

「お前さん、お父さんが亡くなったの知っているか?」

「ええ、それがなんだっていうのよ。それより私、大学に受かりたい。」

という彼女。

「よく平気な顔していられるな。お前さんは、大学の費用はお父さんから出してもらっているのを知っているだろうか?」

と、杉ちゃんがそういうと、

「知っているわ。だから、そのためにもいい大学に入って。」

という彼女。杉ちゃんはすぐにばかだなあ、お金がなければ大学はいけないじゃないかというと、彼女は、そんなことくらいしっていると怒鳴りつけた。

「そのくらい知っているわ!私は、それだからこそ、大学を出なくちゃいけないと思うのよ!」

「変な勘違いもいい加減にしろ!お前さんは、働けないし、もう人生終わったようなものなんだよ!」

と、杉ちゃんが、言うと彼女は、そばにあった、カッターナイフを手に取った。

「ああ、いいよ。そうしたかったらそうしろ。お前さんは、お父さんやお母さんにしてやれることは、それしかないだろうよ!」

と、杉ちゃんはでかいこえで行って、その場を後にしようとする。パニックになった彼女は、思いっきり自分の首にカッターナイフを刺した。


誰かが叫び声をあげた。叫び声をあげたのは、佐藤公子だった。

「公子さんどうしたんですか。」

そう声をかけてくれたのは、水穂さんだ。製鉄所で一番優しい人だと言われている彼。でも、彼は確か、病弱で、いつも床に伏していたような気がする。

「大丈夫です。ただ、受験勉強で、疲れて眠っただけですから。」

と公子は言った。しかし、受験勉強と聞いて、なぜかぞっとしてしまった。

「どうしたんですか。」

水穂さんが聞くと、

「ええ、何かものすごい悪いことをしてしまっているような気がしてしまったんです。なんだか、父が死んだ夢を見ちゃって。おかしな夢ですよね。父のことなんて、まだ、何十年も先なのに。」

と、彼女は言った。水穂さんは、そうですかと返事をする代わりに、軽くせき込んで返事を返した。

「すみません。人前で恥ずかしいことを。」

と、彼は言うが、公子は、何か自分が変わらなければということを考えたのだった。それでは、何か、いけないような、そんな気がしてしまったのだった。





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増田朋美 @masubuchi4996

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