幻の川 上
たづ彦たちはわらびを連れていつもの山荘に戻った。
山荘というのは、瑠璃の持ち物である。すぐ近くには馬場もある。人気のない山林は彼らにとって絶好の訓練場だった。
瑠璃は山荘に着くと、たづ彦に
「じゃ、そこに入れ」
「わかった」
小さな体躯がとことこと暗い塗籠へ入る。
塗籠は
わらびは従順だった。力で抵抗しようとしても無駄だと悟りきっているようにも見える。
暗がりからたづ彦を見上げる目は、変に光っているように思えて不気味だった。
たづ彦自身はとんと興味がなかったが、わらびという少女には不思議な力があると聞いていた。瑠璃もその力に目を付け、見かけた途端、連れ帰ると決めたのだろう。
「……ねぇ、たづ彦」
「なんだよ」
我知らず、生唾を呑みこんだ。別に睨まれているわけでもない。相手が非力なのは間違いないのに。
「ひき丸が探してるよ。宮様も心配してる。
「俺はもう帰らねえよ。……帰れねえよ」
わらびの目がぱちり、とゆっくりと瞬く。
「俺は瑠璃たちと一緒にいるのがいい。こんな俺でも受け入れてくれる」
「でも、ここにはたづ彦の失せ物はないんだよ」
「失せ物? 俺にはねえよ、そんなもの。頼んでもないのに失せ物探しをするつもりかよ」
ぱちり、ぱちり。
刹那、黒い
「川……? 舟に、黒い鳥と……
途端、ざっと血の気が引いた。――黄金の、鮎。不吉のしるしだ……。
「おまえっ! なんだ! 何を知ってる! 俺の、何を!」
「んっ! んんんっ!」
「見るな、見るな、見るな!」
「……た、たづ、たづ彦。いたい。いたいよ……?」
気づけば、少女が真っ赤な顔をして、手足をばたつかせていた。
たづ彦が小柄な身体を土壁に押し付け、ほとんど首を締めあげるようにしていたのだ。
「あっ……」
慌てて手を離す。足元でこほこほと咳き込む少女に、茫然とする。
まただ。またやってしまった。どうして俺はいつもこうなのだ。頭に血が上ると我を忘れて……。
「わ、わるい」
居たたまれず、塗籠の妻戸をぴしゃっと閉めた。内から出られぬよう、錠をおろしておく。
本来ならば、妻戸の外で見張るべきだっただろうが、どうしてもできなかった。
「瑠璃に頼んで、ほかのやつに見張り役を代わってもらうか……」
瑠璃がいるだろう馬場に足を向けることにした。
瑠璃の頼みを断らなければもっと丁重に扱われていただろうに。ふと憐憫に似た感情を覚えたたづ彦だが、迷いを振り切るように山荘を出た。
「うん。わかった、いいよ。雪虫が代わりに行かせよう」
馬場にいた瑠璃はあっけなくそう言って、別の者を山荘に向かわせたが。怒った様子で戻ってきた。
「たづ彦! おまえ、ちゃんと妻戸は閉じたか! 錠も下ろしたのか!」
「ちゃんとやったぞ」
「できてないぞ! 逃げた! あの童女は逃げたぞ!」
瑠璃が眉間に皺を寄せた。篝火に照らされてもなお、苛立ちを隠せないように見えた。
「たづ彦。きみかな?」
逃がしたのかと言われて、懸命に首を振る。
「ち、ちがう! 俺はちゃんとやった! ちゃんとやったぞ!」
「……そう?」
穏やかな口調がそら恐ろしかった。瑠璃に追い出されたら。本当に、もう居場所がなくなってしまう……。
「まあ、いいか。みんなで探そうか。行こう?」
瑠璃の指示を受けた少年たちがふたたび馬に乗る。
訓練を受けた彼らは夜であっても身軽に動けた。乗り手が松明を持ち、数頭の馬が山林を駆ける。
そのうちの一頭、仲間たちからの冷たい視線を受けたたづ彦は焦りを覚えた。
――俺が。俺が、一番に見つけなければ。
時は少し遡る。
外に出られないなら仕方ない。寝よう。そんな心持ちだった。
――けれど、すぐに。ほとほと、と外から戸を叩く音がした。
「たづ彦?」
何か用があってたづ彦が戻ってきたのかと思ったが、返事はない。だが気配は妻戸の外に留まっている。身体を起こして、戸を凝視する。
「たづ彦、じゃないんだね。――だれ」
なおも応えはない。
ガシャン。ふいに外で大きな物音がした。塗籠の中に新鮮な風が入ってくる。そろそろと前に出たわらびは、妻戸が開いていることに気付いた。
一体、だれがやったのだろう。
不思議に思いながらも、わらびはさっさと山荘を出ることにした。このまま閉じ込められるのは勘弁だ。
――だいじょうぶ。わらびだって、ひとりで帰れるもの。
ひとりで出歩くのをひき丸はいつも心配する。わらびひとりでは難しいんだから、俺もついてくんだ、と言うのだ。
でもわらびだって時間はかかろうが、ちゃんと目的地に着いているのだ。ひき丸が言うような方向音痴とは違うと思う。
「よし、行こう」
はりきった少女は何の迷いもなく山林を突き進む。獣道さえない夜の山を――都とは逆方向の、さらに南へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます