幻の川 下

 木々の間を歩くうち、少女の耳は水音を捉えた。

 さらさら、ちゃぽちゃぽ。

 なんとなくその音に惹かれて近寄ると、視界が開けた。ぼんやりとした月が照らしたのは、川原だ。しかも、ごろごろとした岩が転がり、川の中からも岩場が突き出している。

 川上から赤い火がゆったりと下りてくる。舟だ。舳先へさきから篝火を吊るしている。舟の上にはふたつの人影がある。

 片方が黒い鳥を引き上げて魚を吐かせ、もう片方が舟を操っていた。ふたりで何か話しているようだが、岸にいるわらびには聞こえない。

 けれど、篝火に赤々と照らされた舟の操り手の顔はわかっていた。さっきも少しだけ視たのだ。――黄金の鮎を獲る、二人組。たづ彦の過去。


「たづ彦っ!」


 わらびは幻に呼びかけた。幻だから二人が反応するわけもなく。たづ彦と初老の男は川を下っていく。


『親爺ィ。いい夜だなぁ』


 最後に風に乗ってそんな声だけ聞こえた。

 追いかけなくちゃ。わらびは思う。

 たづ彦の失せ物は、その先にあるはずだ。本当は取り戻したいと心の底では思っている――。


「わらびっ!」


 自分じゃない声がして、わらびははっと我に返る。

 空はほんのり白みはじめていた。目の前の川にはごつごつとした岩などひとつもなく、広くて穏やかな川の流れが見えている。

 腰のあたりまで冷たい。わらびの半身は川に浸かっていた。もう少し行けば足元を取られ、流されていただろう。

 じゃばじゃば、と背後から両脇を抱えられ、わらびは川から出た。


「ばかっ! 肝が冷えたぞ! 俺を殺す気か!」

「ひき丸……」


 開口一番に怒り出した顔を見て、ほっとした。幻じゃない、本物のひき丸である。


「すごいね。なんでここがわかったの?」

「そりゃ、必死に探していたからだよ! 宮様にもお願いして、人も出してもらった。群盗のねぐらの在処ありかは人の噂話を聞きまくって、方向だけは当たりをつけたんだ。俺はわらびじゃないんだから、探すのはめちゃくちゃ大変なんだ!」


 ひとしきりまくしたてたひき丸は肩で息をしている。わらびが攫われたと思い、懸命に動いていたのだ。


「よしよし」

「……なんだよ」


 頑張ったひき丸の頭を撫でれば、本人はむすっとした顔になる。ついで、ため息。


「あーあ、疲れた」

「そうだね」

「見つからないうちにさっさと帰ろう」


 水を吸って重くなった衣をひとまずその場で絞る。ぽつぽつとこれまでの経緯を語ると、ひき丸は険しい顔をした。


「それはよくないぞ。あいつらのいう鬼が、今、都で恐れられている連中だとしたらかなりまずい」

「どういうこと」


 川沿いを歩きながらひき丸は都で聞いてきた噂を話してくれた。わらびの行方を追おうと話を聞くうち、自然と入ってきたという。


「相手は化人ひとをわんさか殺し、金品を奪う連中だ。あんな寄せ集めとは違う、本物の群盗だ。場数が違いすぎる。いまだに検非違使けびいしに捕まらないのも、よほどの手練れが揃っているんだろ。返り討ちに遭うのは目に見えてる」


 それに、とひき丸は声を潜めた。


「もっとよくない噂もあった。――あいつらは、化人ひとを食うらしい。文字通りの意味で」


 想像したのか、ぶるりと身体を震わせるひき丸。

 ――馬のいななきが聞こえたのは、その時だ。

 朝日を背にわらびたちへ馬を駆る人影。ひき丸がわらびを己の背後に押しやり、たづ彦、と低い声で呼ぶ。

 馬上のたづ彦はすぐ近くまで来たが、馬から下りないままわらびたちを見下ろした。


「……ひき丸もいたのかよ。ちっ、めんどくせぇ」

「あいにくだったな。失せ物探しは諦めろ。わらびを物騒なものに巻き込むな。探すなら自分たちでやれと大将には伝えろ」

「おまえこそ諦めろ。こいつは瑠璃がご所望なんだ。用事さえ済んだらすぐに解放してやるさ。置いていけ」

「たづ彦。おまえ、心の底から落ちぶれたようだな。宮様のご厚意も踏みにじる真似をするな。……道を踏み外すなよ」


 わらびには、ひき丸が真摯に訴えているように聞こえるのに。当のたづ彦は鼻で笑う。


「なんとでも言え。俺はそもそも家人けにんなんぞ向いていないんだよ。ちまちまと庭の草木を整えるのは、俺の仕事じゃねえ。もっと大きなことができるんだって瑠璃が教えてくれたんだ」

「それが鬼退治? ばかげているぞ。おまえたちの探す鬼たちの噂は俺も聞いたが、あれはおまえたちのお遊びで太刀打ちできるものじゃない。検非違使でさえ手を焼く連中が、おまえたちの手に負えるかよ」

「いいや。できる。瑠璃が教えてくれたから」

「ではその瑠璃が大馬鹿者だということさ。部下に無謀な死地へ行かせるのは無能な大将がやることだ」

「なに!?」


 たづ彦がひき丸へ手を伸ばした。ひき丸はぱしりとその手を叩き落としながら、大柄な身体に飛び掛かる。体勢を崩したたづ彦は馬上から落ちて砂利の上を転がった。

 起き上がろうとするたづ彦。今にもひき丸に襲い掛かりそうだったから、わらびはたづ彦の腕を掴んだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る