鵜の一族
藤の花
――その日、
川に潜っていた
「親爺ィ、こりゃすげえなあ。こんなにいっぺんに見ることなんてめったにないだろ」
この川では時々、黄金の鮎が獲れる。数匹を朝廷に献上するだけで村全体が潤う「
藍染めの衣をまとった父が難しい顔をした。大漁なのだ、もっと喜んでもよいだろうに。
父は空を仰いだ。真っ黒な中にぽっかりと白い月。舟の舳先にくくりつけた
不吉だな、と父は籠へ鮎を放り込みながら言った。
「めったにない幸運の後には、裏返しのように悪いことが襲ってくるもんだ。何事も、ほどほどがよい」
「親爺は悪い方へ考えすぎだ。なあんにも、変わんねえさ」
……
黄金の鮎が大量に獲れた年の冬のことだった。川原の枯草に霜がびっしりと降りた夜に、父はいなくなった。
さわさわと薄紫の花が頭上で揺れている。
橘宮の邸にある藤の花が満開を迎えたのだ。主人が設えさせた藤棚にびっしりと藤が絡みつき、花の房は下へ下へと垂れている。
「奇麗」
わらびは弾んだ気持ちで藤棚の下から花たちを仰ぎ見た。隙間からあたたかな春の日差しが零れている。
青々とした草地が現れる季節となった。不思議と心持ちまでそれらしくのんびりとしたくなる。
さてと。ひとしきり花の鑑賞を楽しんだわらびは藤棚からひょっこり顔を出し、そうっと辺りを窺った。だれもいない。そろそろわらびを見つけたひき丸が声をかけてくるはずなのに。
耳を澄ましても、静かな邸内に流れる風の音ぐらいしか聞こえない。どうも人が出払っているようなのだ。
「帰ろうかな」
出直した方がいいのかもしれない。そのうちひき丸の方からなんやかやと理由を言いつつ、
『失せ物探し』は今日はやめだと
怒号と喧噪。その声の中に聞き覚えのある少年の声も混じっていたような気がして、わらびは音のした方へ走った。
邸の
牛車の周りに人が取り囲んでいたのだが、一様に顔色が悪いのである。ひき丸の姿はない。
「ひき丸はどこ」
手近にいた者に尋ねると、男はああ、と言葉少なに告げる。
「じきに戻ってくる。しかしなあ……」
なんとも歯切れが悪いのである。
牛車の正面から、橘宮が下りてきた。黒の直衣を艶っぽく着こなした橘宮だが、こちらも額に手を当てており、疲れ切っている。
橘宮はすぐにわらびを見つけた。
「ひき丸はもう来るはずだ。驚くかもしれないが、無事なのは間違いない」
「何かあったの」
橘宮は顔をしかめ、「よくないことだ」と言った。
「宮中でも少々問題になるやもしれぬ。さきほど帝にお会いしてきたのだが、その帰り道に無粋な輩に襲われたのだ」
なんでも、牛車に石を投げられたという。不審な物音に気付いた橘宮が小窓を開けたのだが、ちょうどその額にも小石が当たってしまったのだ。
「だいじょうぶ?」
「たいしたことではない」
橘宮は押さえていた額をどけると、少し血が滲んでいた。清らかな顔つきも、今は冴えない様子である。
「石を投げてきたのは、よその邸にいる家人たちらしい。仔細はこれから調べられるだろうし、面倒なことではあるがね、それよりも」
橘宮も、曖昧なことを言い出した。いよいよおかしいぞと思っていると、「おいっ!」と遠くから怒号が聞こえてきた。
背後にある邸宅の門からだ。
「もうなんもしねえよ! 放してくれよ!」
「あれだけのことをやらかしたんだ、ほうっておけるか! しばらく大人しくしておけ!」
ひとりの少年が両腕を後ろに組まされた状態で歩いてくる。浅黒い肌をした、背の高い、強そうな少年である。
少年を取り囲むように橘宮の家人たちもいたのだが、その中にひき丸がいた。衣や体のあちこちに血が飛び散ったひき丸が。大柄な少年の背後で、その両手首をがっちり掴んでいるようだ。
そのふたりが言い合いしている声が響いていたのだ。
「お、わらび」
前を横切ろうとしたいかめしい顔つきがわらびに気付いた。いつものしっかり者の顔になる。
「来ていたのか。悪いな。今日はあんまり構ってやれんぞ」
「そうみたいだね」
大柄な少年はむすっとしながらそっぽを向いている。よくよく見れば、見覚えのある顔だった。橘宮の邸で下働きをしていた顔だ。
名前は。たしか。
「わかった。たづ彦だ」
ひき丸に捕まった少年は答えない。
違ったかな、と思うわらび。下から少年の顔を覗き込もうとした。
「んだよ、寄ってくんなよ、気持ち悪りいぞ!」
頬を赤らめた少年が顔を逸らして後ずさりする。気持ち悪いとは失礼なやつだ。
ひき丸がふん、と鼻を鳴らして、もうひとりの少年をわらびから離させる。
「たづ彦から離れとけ。危ないからな」
「俺は危なくねえよ!」
怒りで額に青筋を浮かべる大柄な少年。わらびが見上げるほどの背丈である。
「困ったね」
橘宮が珍しくぼやく。
少年たちが騒ぐ背後で、別の家人が血だらけの男をおんぶして走っていくのを眺めていたのだ。
おぶわれた男は背中の揺れに合わせて上半身がぐらぐら動く。
「宮様。あの人、生きているんだよね」
畜生の姿でないのなら、生きているはずである。橘宮はうむ、と応えた。
「あれがわしに石を投げた者だよ。他の者は逃げていったが、あの者だけはあんな体だから邸に運んできたのだ」
「とても石を投げられるようには見えないよ」
「ほんの半刻前までは元気だったのだよ」
たづ彦がああしてしまったらしい。
橘宮が憂鬱そうにしている理由がようやくわかった気がした。橘宮は、己が襲われたことに憂いているのではない。逆上した己の家人がよその男を半死半生の目に合わせたことに対して、途方に暮れていたのだ。
「……問題にならなければいいがね」
橘宮がぽつりと呟いた。
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